聖なる剣を持つ者

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第11話 元ロクリアン大公にて今は偉大なるイステラ王の庇護のもとにあるレイナート

 エレノアは食事を済ませると、剣を提げ街へ出た。気温が少し上がってきている。暖かな日差しの中、行き交う人々の顔は明るい。
 街は活気を見せ、店先に商品が並び始める。エレノアは興味深げに、左右を振り返りながら通りを進んでいく。約束の時間まで、まだ間がある。街を散策するつもりだ。

 エミネに聞いた話によると、王宮のある一の郭。その外側に、各省の役所や貴族の館のある二の郭。元々はこれが、全トニエスティエ城だったらしい。イステラの街は、現在はトニエスティエ城の三の郭となっているが、昔は外側の城壁はなかったらしい。つまり、他国の王都と同じであったわけだ。
 しかしここは王国の領内でもかなり西寄りの地で、大河レギーネ川が近く、その反対側は仇敵ディステニア領である。外敵からと大河の氾濫からの防衛のために、街全体を城壁で囲んだそうだ。その上更に防衛力を高めるため、近くを流れる小川を外堀とするべく、その際《きわ》に城壁を築いた。この大工事には20年もかかったらしい。
 これが、初めエレノアが見て不思議に思った、衛士の詰所以外に何もない大きな広場だったわけである。この四の郭は、それを取り囲む城壁が高すぎるため、人の居住にも作物の耕作にも適していないため、空いたままになっているということだ。
 時々衛士の教練場として使われるだけらしい。
 街が整然と作られているのはそのせいかもしれないと、エレノアは思う。城壁の中に街を作ったのではなく、街の形に合わせて城壁を築いた。
 普通は街や平民を守るために城壁を築いたりはしないであろう。これを命じた王はどんな王だったのか。
 そんなことを考えながら通りを進む。

 イステラという国。
 イステラという街。
 トニエスティエ城。
 何もかもが興味の尽きないところである。

 一方その頃レイナートは、西宮で歴史の教師から講義を受けていた。
 エレノアとの約束もあって長い時間は取れない。しかし教師は頓着しなかった。学びとは、その長さではなく密度こそが重要である、というのが彼の持論であった。
 レイナートは講義に耳を傾けた。しかし、教師の言葉はほとんど素通りしていた。
 夕べは、外出からの帰りが遅くなって、禁を破ってしまった。いや、もちろん祖父母のところからは間に合うように戻ってきた。しかし、男鹿亭に寄っていたため遅くなってしまったのだ。
 西宮に戻ると、王太后が玄関で待っていた。
 王太后はおとなしい方で、怒ったからといって声を荒らげたり、長々と説教をしたりはしない。ただ、悲しげに目を伏せて、「レイナート殿……」と静かに名を呼ぶだけである。

 それを聞くとレイナートはいたたまれなくなる。申し訳なさと恥ずかしさで消え入りたくなってしまう。
 母親の記憶がないレイナートにとって、王太后は、血は繋がらなくとも母のような存在である。あらん限りの愛情を自分に注いでくれる。
 普通ならとても望めないような優秀な人材を自分の教師にしてくれた。
 王太后陛下のためにも、その期待に応え立派な人間になりたい。たとえ、庶子であるとしても……。
 そう思うと、王太后を悲しませることは、厳として慎まなければならない。

 王太后セーリアは、西宮に移ってからは、レイナートとひっそりと静かに暮らしている。
 元々、王太后の暮らす西宮は、王宮の中でも一番小さく、正殿を通らずとも出入りできる宮殿である。正殿は一つの大きな建物で、謁見の間や、王や大臣たちの執務室がある南殿 ‐ 何故か、ここだけは南宮とは呼ばれない ‐ と、王と王妃の居所である北宮、今は皇太子不在のため空いている東宮からなっている。
 西宮は正殿とバラ園を間に隔てられており、回廊で繋がっている。静かで落ち着いていて、王宮内では最も教育の場に相応しい所であろう。
 王妃時代には、公務も多く多忙に暮らしていたが、元来、控えめで物静かな人である。西宮での静かな暮らしは性に合っている。
 今では、必要最小限度の女官と侍女を周りに配し、花の手入れや刺繍などをしながら日を送っている。

 しかし、各大公家の姫君たちが訪ねてきた時は、自ら茶をいれ、菓子を振舞って饗す。
五大公家の姫たちは将来の王妃候補。たとえ王妃とはならなくとも、他の大公家に嫁ぎ、その次の王妃候補や時には皇太子候補を生むこともありうる。
 彼女たちに対し、淑女としてのあり方、王族となる上での心構え、典礼への臨み方などを静かに語って聴かせる。
 王太后は、レイナートに対してをも含め、イステラにおいて、最も高位で優秀な教育者であるかもしれない。

 レイナートの教師たちも、リディアン大公家で人選はしたが、最終決定は王太后自らが人物を見て決めた。
 これら教師が、レイナートの人格形成に大きく関わっているのは言うまでもない。いまレイナートに歴史を教えている教師もそうである。

―― 歴史を学ぶということは、過去に何があったかという、「歴史的事実」を知ることが目的ではない……。その「事実」に隠された「真実」を知る学問である……。
―― 歴史的「事実」などというものは、時の権力者や為政者によって都合よく書き換えられてしまうものだ……。
―― 故に歴史学徒は、常に第三者として、高さに立ち俯瞰して事物を見なければならない……。当事者に見えるのは現実だけである。真実を見ることはできない……。

 レイナートの歴史教師は、初めての講義で歴史を学ぶ意義について説明した。しかしそれは、余人の耳に入れば不敬罪で訴えられ、首を刎ねられてもおかしくない内容であった。
 レイナートも、子供とはいえ王宮内で生活する者である。それがどんなに大胆な発言であるかはわかる。
 総じて、教師たちはこのような人物が多かった。謂わば、変わり者が多かったと言える。
 数学教師も、ただ数式を教えるだけではなく、その数式が何故生まれたか、そこから導き出される答えにどういう意味があるのか。そしてそれをどのように実生活に活かすか。そのように教えてきた。
 教師達は、一方的に教えるのではなく、本人に考えさせながら指導してきた。

 そして、剣の師は輪をかけて相当な変人であった。
 森の奥に独居し、妻も娶らず他と一切交わらず、己の剣技だけを磨いている男だった。ただし、腕は確かである。なにせ、前回の武術大会の剣の部の優勝者である。
 初めリディアン大公家の使者が来た時、全く相手にせず追い返した。幾度使者を送っても、追い返される。結局、王太后自ら足を運んで頭を下げた。それでようやく重い腰を上げた。  しかしながら、すぐに教え始めたわけではなかった。レイナートの前で、樫の棍棒を数度振って見せて言った。

―― この棒が、1000回振れるようになったら来い。話はそれからだ……。

 6歳の子供には酷な話である。一日も休まずに振り続けても、2年以上かかってしまった。ようやく振れるようになって、剣士のもとを訪れた。剣士は既にレイナートのことを覚えてはいなかった。

 しかし、振ってみろ、と言い、振らせた。
 しかし、緊張したのか、900を超える辺りで腕が動かなくなってしまった。レイナートは、悔しさと恥ずかしさに、歯を食いしばり俯いた。必死に涙をこらえた。
 ようやく顔を上げて、剣士に言った。

―― もう一度、鍛えてまいります。だから今一度機会を下さい……。

 剣士はそれを認めた。
 再び、ひたすら棍棒を振り続けた。更に半年かけ、剣士の前で1000回振ってみせた。ようやく剣士は剣技を教えることを約束した。
 剣士は王都のそばに居を移すと、数日に一度、西宮を訪れレイナートに稽古をつける。

 ある日、剣士はレイナートに問うた。

―― 何のために剣技を学ぶか……?

 レイナートは答えた。

―― 敵を倒すためでございます……。

 剣士は更に問う。

―― では敵とは何か……? 何を以って剣士という……?

 レイナートにはわからない。

 剣士は腰の大剣を抜くとレイナートに向け言った。

―― この剣を振るえば、お前の首を跳ね飛ばすことは造作も無い……。手足を切り落とすなど、朝飯前だ……。

―― 剣を振るうということは、相手の肉を切り、骨を断ち、命を奪うことだ。返り血を浴びるということだ……。それは、とても苦しく、心の痛むことだ……。

―― その、己の心の弱さこそが敵である。それを断ち切るために、剣技を学ぶのだ……。

―― だが、いくら剣技を学んでも、人を殺すことに慣れてはならぬ……。人を殺すことに慣れれば、血を求めるようになる。血の匂いが恋しくなる……。それは剣士ではない。ただの人殺しである……。

―― 戦場の兵士も、敵を倒すために剣を振るう。しかしそれは、死にたくない、生き残りたいという本能のままに、振り回すだけだ……。これも剣士ではない……。

―― 剣士とは、人の命を奪う重さと苦しみを背負うため、そしてそれを断ち切るために剣技を学ぶ者だ……。

 師の言葉を、その言わんとするところを、レイナート自身はどこまで理解できているのか、自分でもわからない。

 否、自分には一生理解出来ないかもしれない。
 剣士はレイナートが16歳になるまで教え続けた。

―― もはやこれまで。これ以上は必要ない……。

―― 2度と会う必要もない。お前は己の道を歩め。それは、俺の道とは決して交わらぬ道だ……。

 剣士は、ある日そう言うと、再び元の森へ帰っていった。以来師匠とは一度も会っていない。

 朝の、中の鐘が鳴った時、レイナートもエレノアも約束の場所には来ていなかった。
 レイナートは教師の言葉を上の空で聞きながら、昔を思い出していたし、エレノアは街の物珍しさについつい時の過ぎるのを忘れていた。
 鐘が鳴ったのを聞くと、二人は共に、「マズイ」と、走りだした。共に、二の門へ向かって。方角は全く逆からだが……。
 エレノアが、揺れる腰の剣を手で抑えながら、全速で走って緩やかな坂道を駆け上がってくる。近づいてくるに連れて、二の門の衛士たちは、何事かと思い剣に手をかけ警戒した。門の前でエレノアが立ち止まり息を整えていると、二の門からレイナートが走って出てきて、同じように立ち止まり息を整える。
 二人はやがて落ち着くと、相手に声をかけた。

「済まぬ……。」「済みません……。」

 声がかぶり、顔を見合わせて笑う。
 衛士がレイナートに尋ねた。

「レイナート様。この者をご存知なのですか?」

 衛士がレイナートに「様」をつけて呼んでいることに、エレノアは思った。

―― やはり高貴な血筋か……。

 レイナートは衛士の問いに答える。

「はい…、この人は…。」

 レイナートがなんと答えるか、エレノアは耳をそばだてた。

「この人には、私の代わりに、武術大会に出てもらおうと考えています。」

「……。」

 エレノアは内心驚いている。なんと馬鹿正直と言うか何と言うか…。そんなことで衛士がここを通すはずがないではないか……。
 エレノアは内心腹が立ってきた。
 しかし衛士の反応は予想とはちょっと違った。

「それはまた、一体どういうことでございますか?」

「みなさんも知っての通り、私は元服が済んでいません。だから武術大会に参加する資格がない……。
 でも、私も後々のことを考えると、何か一つでも、自分に箔の着くことをしておかねばと思ったんです。でも出られないから、彼女に代わりに出てもらおうと思うんです。
 ですので、彼女にこの門の通行許可証を出してもらえませんか?もちろん大会期間中だけの、臨時のものでいいです。何とかなりませんか?」

 レイナートの言っていることは、実は全く意味をなしていない。
 エレノアが出場してたとえ優勝しても、箔がつくのはエレノアで、レイナートにではない。否、そのように優秀な剣士を探しだしてきた、という点では褒められかもしれない。
 しかし、元服前の子供がしたことである。公式な記録には何も残らないはずである。

 衛士は、即答できず、上司を呼びに行った。
 呼ばれて出てきたのは、昨夜、男鹿亭に現れた隊長である。
 お互いに顔を見て驚いた。

「レイナート様。あなたが身元引受人になるということですか?」

 隊長が尋ねる。

「はい。」

 レイナートは答えるが、元服前の子供が身元引受人などになれるはずがない。おそらく駄目であろうことはわかりきっている。その時は、どうするか。
 実はレイナートにもいい考えは何もなかった。ただ正直に話し、頼み込むだけ。
 いくら王太后陛下が養育者で現王のことはいえ、所詮は元服前の庶子。有効な手立てはそれしか思いつかなかったのだ。  隊長はしばらく逡巡していたが、やがて「いいだろう」と呟いた。

 これには、レイナートが驚いた。

「いいのですか?」

 頼んだ方が再確認していてはどうしようもないのだが、それほどビックリしている。

「まあいいだろう、どうせ期間中だけだし。ただし、この門を通るときには腰の剣を預からせてもらうし、身体検査もさせてもらう。
 一切武器を持ち込ませないためにな。」

 レイナートはエレノアの顔を窺った。
 女性であるエレノアに、身体検査を受ける覚悟があるだろうか。

「私は構わぬ。」

 エレノアはあっさりと言う。

「そんなことは大したことではない。」

「そうか、ならばこちらへ。」

 隊長は、門の脇の衛士詰所へエレノアを連れて行く。イナートもついていった。

 エレノアを詰所の小部屋へ入れると、部下に声をかけた。

「一番近い役所の誰でもいい。下女でもいいから女を二人連れて来い。」

「どうするんですか?」

「この女の身体検査をさせる。」

「えっ!?」

「いいから早く誰か連れて来い!」

 隊長が怒鳴りつける。
 怒鳴られた衛士が駈け出した。
 エレノアが隊長に声をかけた。

「そのような気遣いは無用。すぐに調べてもらって構わない。」

「まさか、男の我々が身ぐるみ剥いで調べるわけにはいかん。武術大会出場者であれば、なおさらそのような無礼な真似は出来ん。済まないが、しばらく待っていてもらおう。」

 隊長は部屋の開いている扉の前で、腕組みして立っている。
 そう言えば、この隊長、昨夜も結果的に禁を犯していたレイナートに厳しいことは言ったが、その罪を咎めたりはしなかった。悪い人ではないらしい。
 エレノアが隊長に声をかけた。

「お心遣いに感謝する。私はエレノア・シャッセ。貴殿の名は?」

「私は衛士隊第11番隊隊長、キャニアン・ギャムレット。気にするな、これも仕事だ。」

 隊長の言葉はそっけない。
 癖の強い金髪に碧い目。鼻は高く、その下には髪の毛と同じ色の髭が蓄えられている。厚い胸板に太い腕。
 勇猛な戦士の風貌である。

 やがて、訳もわからず連れてこられた二人の下女は、隊長の説明に、それでも要領を得ないまま、言われるままに部屋に入った。
 しばらくして、二人の下女とエレノアが部屋から出てきた。エレノアが、鎖帷子をつけている以外、怪しいものは何も持っていないことを隊長に告げる。
 隊長は二人に感謝して、引き取ってもらうと、レイナートに書類を差し出し必要事項を記入するように求めた。
 と言っても、レイナートの住所と氏名、エレノアの生国と氏名を書き入れるだけである。よく見れば、二の郭に臨時で出入りする商人たちなどに書かせる書類である。
 レイナートは、その用紙に長い本名を書き入れた。

『元ロクリアン大公にて今は偉大なるイステラ王の庇護のもとにあるレイナート』

 名前に『〜の庇護のもとにある』と書かれている場合、それがその者の庶子であるということをイステラでは意味する。

 イステラでは王族には姓がない。だからレイナートも、庶子であっても王族であるが故に、本名に姓はない。
 エレノアに名乗ったフォージュという姓は、レイナートが生まれたロクリアン大公家の所領の館の名『フォージュ』館から取っていたのだった。貴族の姓には、領地の名や己の居城の名がつくものが多い。それに倣ったのである。

 エレノアは、イステラ語で書き入れられた、レイナートの長い名の意味がよくわからずにいた。

 もしエミネから、レイナートが高貴な血筋であると聞いていなければ、その場でその意味を問質していただろう。
 複雑な状況にいる少年。エレノアはいつの間にかレイナートをそう評価していた。
 エレノアはレイナートについで自分の生国と名前を書き入れた。こちらは男鹿亭で書いたのと全く同じである。
 書類が出来上がると、隊長はしばらく待て、と言った。
 別の部屋から、何やら金槌で叩く音がする。その音が止むと、衛士の一人が手に何やらを持ってきた。
 隊長はそれを受け取り確認するとエレノアに渡した。
 表面は皮で、イステラの文字で色々刻印がされている。
 裏面は磨き上げられた鉄板で、鋭い何かで引っ掻いたように、文字が書かれている。

「それが通行許可証だ。表にはお前の名と有効期間。裏側には身元を引き受けたレイナート様の名が刻まれている。
 わかってると思うが、他人に貸したり、無くしたりすれば重罪だ。気をつけるように。
 この門を通過する時にはそれを見せて、剣を預けるように。
 次からは身体検査の必要はない。何か質問は?」

 エレノアは、通行許可証を見つめたまま首を振る。
 どうやって手に入れるか、あれ程悩んでいた許可証が今、手元にある。興奮を抑えることができない。

「どうする? このまま二の郭に入るか? それならば剣はそのまま預かるが……。」

 それにはレイナートが答えた。

「そのまま預っていて下さい。このまま軍務省に行き、参加の申し込みをしますから。」

「そうですか……。ではどうぞ。」

 レイナートは詰所を出た。
 エレノアもそれに続くが、手にしっかりと通行許可証を持ち見つめたままである。
 軍務省の建物に入る所でエレノアがレイナートにぶつかった。許可証に気を取られ、全く周りが見えていない。

「済まな……、いえ、申し訳ありません。」

 エレノアが言い直す。
 エレノアの言葉遣いが改まったことにレイナートは疑問を持った。

「何か? 気になることとかありましたか?」

「いや……、いえ、いいえ。何もありません。」

 レイナートは要領を得ないまま「ここです」と言って、軍務省の建物に入っていく。
 上へ上がる階段の脇に、臨時の受付がある。
 武術大会参加者の受付である。
 ここでもレイナートは正直にお願いした。

「この人に、私の代わりに武術大会に出場してもらいたいのです。」

「代わりに? 元服も済んでない子供が何を馬鹿なことを言ってる。
 ここは子供の来る所ではない。帰れ。」
 受付に座っていた男は、レイナートのことを知らないのであろう。全く取り合ってくれない。何度、頼んでも取り合ってはくれないどころか、こちらの名前も話も聞こうとしない男である。
 それでも食い下がるレイナートの袖を引き、エレノアが声をかける。

「もういい。レイナート殿。あなたは十分にしてくれた。それだけで満足だ。」

「しかし……。」

「でも、もういいのだ。あなたに会えただけでも、このイステラに来た甲斐があるというもの。もう十分だ。」

「でも……。」

「本当にもういいのだ……。」

 二人が遣り取りしている時に、階段を降りてくる幾つかの人影があった。
 その中心の人物は、長めの白髪に立派な口髭を蓄えている。右肩には飾緒をつけ、前を大きく開いたマントを翻している。
 軍務大臣であり、王太后陛下の父君、リディアン大公エネオシアス殿下、その人である。

 リディアン大公はレイナートを認めるとその前で立ち止まった。
 受付に座っていた男は、リディアン大公が近づいてきたのを見て、慌てて立ち上り剣を捧げた。
 リディアン大公はそれには目もくれず、レイナートに尋ねた。

「このようなところで何をなされている、レイナート殿下?」

 エレノアは、レイナートを殿下と呼ぶこの老人が気になった。
 身に着けているものといい、その雰囲気といい、かなり高位の貴族、重臣と呼ばれるような人物に違いない。
 そのような人に「殿下」と呼ばれている。レイナートは高貴な血筋というが、もしかすると、レイナートは想像以上に位が高い、例えば、王族とか…。
 エレノアは自分の想像に愕然とした。

 だが、愕然としたのはエレノアだけではない。
 レイナートの頼みを突っぱね続けたこの男もである。
 目の前にいるのは、確かに軍務大臣のリディアン大公殿下。その大公殿下が「殿下」と呼ぶ若者は二人だけ。
 一人はアレグザンド王子殿下。
 もう一人は、リディアン大公殿下の娘である王太后陛下が養われている現王陛下の庶子。謂わば目の前にいるリディアン大公殿下にとっては孫のような存在。
 レイナート殿下だけである。

 そしてリディアン大公殿下は、目の前の少年をまさに「レイナート殿下」と、呼ばなかっただろうか。
 男は顔面蒼白となって震えだした。
 庶子とは言っても王の子。いかに庶子の扱いが低いイステラとはいえ、王族には違いない。その人に対して無礼を働けば、どのような責めを受けることになるか。
 自分が貴族であれば、このようなことは問題にもならぬ。しかし自分は平民である。
 もし万が一不敬罪にでも問われれば、自分はおろか、家族はもちろん親戚のすべてが責めを負わねばならぬ。

―― 身の破滅だ……。

 男は自分の無知を悔いた。

 レイナートは、眼の前で震えている男が哀れになってきた。
 自分の言葉をちっとも聞いてくれないことには腹がたった。でも、今眼の前で震えている理由は、不敬罪のことを考えているからではないだろうか。庶子である自分を侮辱したとしても、すぐに不敬罪を適用されることはない。しかし、侮辱罪に問われることはある。

 元服前の庶子ではあっても、王族の血が流れている以上、刑罰法上の扱いは準貴族である。平民がこの罪を犯せば、最悪の場合死罪かそれに準ずる厳しい刑罰を下されることになる。

 レイナートはなんとかこの男を助けられないかと、慎重に言葉を選び、リディアン大公の質問に応えた。

「実は、武術大会について聞きたいことがあったので、この人に聞いていたところです。」

「ふむ、それで…。聞きたいことというのは聞けたのですかな。」

「それが…。今聞こうとしているところに、リディアン大公殿下がお見えになったのです。
 ですから、こちらの要件はまだお話していません……。」

「そうですか…。おい、殿下のご要望をしっかりお聞きするのだぞ……。
 では、先を急ぎますのでこれにて失礼をば……。」
 
 係の男に言いおいて、リディアン大公はレイナートに軽く会釈をして、その場を去っていった。
 青息吐息だった男の顔に、少しずつ赤みが戻った。
 それからの男は、打って変わったように態度を改め、レイナートの希望を聞いてくれた。本来であれば、紹介状や招聘状の返信書など、必要な書類があったはずである。
 しかし男はただ受け付けて、名前を参加者の名簿に記載するだけである。
 これだけで、参加することができるようになってしまったのである。

 大丈夫なのかを確認すると、男が言うには、二の門を通過できる人物であれば、参加資格は実はあまりうるさくはなかったらしい。 これでいいのかと、レイナートは思わないでもないが、リディアン大公が男に、自分の要望を聞くように命じていた。
 レイナートは「自分が証人である。なにか困ったことがあったら、自分の名を出すように」と男に告げ、エレノアと共に軍務省の建物を後にした。

 エレノアはレイナートについて、具体的にはその身分を確かめたいと思っていた。
 しかしそれは、口に出して聞くことは憚られる、そのように思えた。

 17歳になっても元服を許されない少年。
 殿下と呼ばれるほどの地位(?)
 確かな剣の技倆を持ち、アニスのような町家の下女からも、自分達のことを考えてくれていると慕われている。
 書類に書かれた、長々とした名前。

 エレノアには目の前にいる少年のことがさっぱりわからなくなっていた。
 二の門まで戻り、エレノアは自分の剣を受け取り門外へ出た。
 レイナートはエレノアに別れを告げると、再び二の郭を奥に向かって歩いていった。

 その後ろ姿をじっと見つめていたエレノアは、近くにいた衛士に尋ねた。

「あの御方は、一体どういうお方ですか?」

 先程ここを通った時にはいなかった、中年の衛士が気軽に応えた。

「あの御方は、国王陛下の庶子、レイナート殿下です。」

 エレノアは目の前が真っ暗になった。

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