聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

序章

第4話 人生いろいろ その2

(一)エベンス出身の女
「おい。レイナート殿下が無事に戻られたぞ!」

「それはおめでとうございます」

「しかもなんと、即位されるということだ!」

「それは重ね重ねもお喜ばしいことで……」

 何時もは沈着冷静、落ち着いた夫・ギャヌース・トァニー子爵が興奮気味に言うのに、夫人のリーデリアも面食らいながらも喜びを隠せなかった。

「殿下からのご下命では、我らは直ちに家族を伴い王都に登れとのお達しである。急ぎ準備せよ!」

「畏まりました」

 リーデリアは直ちに生国から伴った執事・侍女達に命じた。

「殿のご命令です。遺漏なく進めるように」

 執事、侍女達は優雅に腰をかがめ早速動き始めたのである。


 国土面積が狭く十分な食料を得られないエベンス大公国では、貴族の子女の多くは外国の貴族家の家庭教師として働きに出る。「エベンスではモノではなくヒトを輸出している」と揶揄される所以である。
 したがってその前に国立大学院で学んで十分な教養・知識を身につける。リーデリアも例外ではなく国立大学院で音楽を学んだ。このリーデリアは元はエベンスのロルトー男爵家の娘で、これはギャヌースの父リュータヌ・トァニー男爵家の遠縁に当たる。
 ところが二十歳どころか二十五歳になろうというのに外国へ職を求めるどころか国立大学院をすら辞めなかった。さすがにいつまでも教わる側ではなくなっていたが、どちらかと言えば居残って音楽を楽しんでいるという雰囲気であった。ロルトー男爵としてはいつまでも金が掛かって困るし外聞も悪い。口うるさく働きに出るか嫁にいけというのだが全く聞く耳を持たなかった。
 実際、同じく国立大学院で学ぶ者達からは「ロルトー家の行かず後家」とさえ陰で呼ばれていた。

―― まあ好きに言わせておくわ。だってその通りだもの……。

 リーデリアは内心開き直っていた。

―― でも職を求めると行ってもどこへ? イステラは芸術の未熟な野蛮な国だし、ル・エメスタは真平御免だわ。となるとディステニアしかないけれど……。

 実際庇護の名の元にあらゆることに干渉してくるル・エメスタを嫌うエベンス人は多い。そうして質実剛健で野暮臭いイステラは確かに芸術にはあまり重きを置かない国である。
 したがって芸術を学んだ女性としてはディステニアくらいしか行く先がない。それ以外の国は女性が一人で職を得るために出かけるのは遠すぎたのである。
 もちろん貴族の子女が身一つで行くということはない。侍女や下男・下女を伴っていく。それはそれで結構な物入りであるし、その国の言葉を知らなければ何かと不便だからどうしても行き先が限られてしまうのである。

―― それに貴族の子女というのは鼻持ちならないのが多いわ。やる気もない事が多いようだし……。

 実際エベンスの貴族でも音楽に興味があるというのはそれほど多くはない。よほど余裕があって好きでもなければ自家に楽師を雇ったりもしない。本人も精々嗜みとしてダンスをするくらいで、まして自ら趣味で演奏しようというのは皆無ではないにしろ相当珍しい。
 という訳でリーデリアはある意味変わり者であったのである。


 ところでレイナートがリンデンマルス公爵家を継ぎ、答礼使としてエベンスを訪れ両国の関係がいきなり狭まった。しかも遠縁のトァニー男爵家は再興された上に子爵家となった。
 そこへ父が嫁に行けと言い出した。

「父上、本気で申されているのですか? だってもう私は二十四ですわよ? 自分で言うのも何ですけど、行かず後家ですわよ? いくらなんでも相手の方に失礼だわ」

 そう言って抗議したリーデリアである。

 ギャヌースの父リュータヌは割れた国論を統一させるために敢えて汚れ役を買って出て、結果禄と領地を失った。以来父子は国を出て放浪の旅に出た。その後ル・エメスタの干渉が激しくなってからリュータヌの真意にエベンスの人々は気づいたのである。であるからレイナートともにギャヌースが現れたことに大層喜んだのである。
 それはトァニー家の親戚も同じこと。しかもトァニー家は名誉を回復され強国イステラ有数の貴族に仕えている。親戚として誉高いとまで感じるほどであった。となればなんとしても再びつながりを深めるためにもギャヌースが嫁を取る前に親戚の中から誰かを嫁がせようということになった。それで親戚一同話し合った結果リーデリアに白羽の矢が立ったという訳である。

 とにかくギャヌースは三十路も半ば。あまり年若い娘では物足りなかろうと思われた。まあ若い娘を好む男は世に多いのも事実だが……。
 それにイステラ王家に血の連なる名門貴族家に仕えているとなると、その奥方はそれなりに教養と知性が必要である。その点リーデリアは長らく国立大学院に籍を置いているから芸術面のみならず学問もそこそこ出来る。それに、これはかなり重要な事だが、見た目も決して悪くない。要するに年齢だけが難ありであって人物は決して悪くないのである。それにロルトー男爵とすれば、厄介払いではないが本音で言えばお荷物、とまでは言わないけれど悩みの解決も出来る、ということであった。

 たださすがにこの話はそう簡単にうまくいくかどうか。そこでロルト―男爵はとんでもないことを思いついたのである。


「儂に考えがある」

 リーデリアは訝しんだ。まさか相手に直談判? いくら何でもそれは無理だろう。だって娘の結婚のためにわざわざ他国までノコノコと使いを出したら「どんな親馬鹿か」と言われかねない。第一それで断られたら目も当てられない。大恥をかいて終わりである。

 と思っていたら数日後父が笑顔で言った。

「大公陛下のお許しが出た!」

「えっ!?」

「イステラの国王陛下にお話をして下さるそうだ」

「父上!?」

 まさか一貴族の娘を、しかも相手国の直臣ではなく陪臣の貴族に嫁がせるのに、国王に話をする人間が何処にいる?
 どう考えてもあり得ることではない。

「大公陛下はトァニー子爵家に多大な思いを寄せておられる。いくらでも仲介の労を取ってくださると仰って下さったのだ」

「父上!!」

 開いた口が塞がらなかったリーデリアである。

 だがル・エメスタの干渉を快く思わないエベンスはイステラとの結びつきを深めたい。だがそれを表立って急激に進めるのは要らぬ軋轢を双方で起こし面白く無いのも事実。したがって密かに搦め手から進めるというのも国の方針として固まりつつあった。リーデリアの縁談はそこに上手く填め込まれてしまったということである。
 それは面白くないものをリーデリアに感じさせたのも事実である。

―― でも今まで散々わがまま言わせてもらったのだから仕方ないわね。

 諦めるしかなかったリーデリアである。


 結局イステラの雪解けを待って話が持ち込まれ、レイナートはギャヌースとともにわざわざ王都にまで呼び出されその話を聞かされたのである。
 なのでこちらも断れる話ではなかった。
 結果トントン拍子に話は進みなんと夏を前にして輿入れの運びとなったのである。


「よいか? お前は『娘』というにはもう無理のある歳なのだ。精々かわいがってもらえるように気をつけるのだぞ」

 全く失礼な父、と思わぬでもなかったが言われていることは確かにその通り。母は母で、

「いいですか? 決して離縁されるような真似だけはされてはなりませぬぞ」

 と、これまた外国に嫁ぐ娘にもう少し何か言いようがあるのでは、と思えるようなことばかり言う。


 さて具体的に話が進む上で、いい歳こいてあまり仰々しい支度もおかしいだろうと嫁入りの供揃えは少なく抑えられることになった。
 そこで護衛の兵はともかく、執事や侍女などだけ親戚一同から厳選された者が集められた。
 リーデリアも派手な嫁入りの道具を揃えるでもなく日常のもの以外は愛用の楽器ぐらいしか持って行かなかった。


 花嫁を載せた馬車はゆっくりと進んでいく。「大陸の至宝」と呼ばれる程美しい国土を持つエベンス大公国。だがイステラもそれに負けず劣らず美しい山並みが北部に広がっている。
 イステラ王都で国王アレンデル陛下に拝謁を賜り、仲介の労に対する礼を何度も述べ、一旦リンデンマルス公爵家の王都屋敷で休息。王都屋敷のあまりの巨大さに驚きつつ、日を改めて領地に向かったリーデリア一行である。
 そうして当主レイナートと、夫となるギャヌースの待つカリエンセス城へ。
 やはりその威容に驚き、謁見の間へ入ったリーデリア。玉座に立つレイナートに頭を下げた。

「リンデンマルス公爵家御家中のトァニー子爵家へ参ったエベンス大公国はロルトー男爵家のリーデリアにございます。以後よしなにお引き回しの程宜しくお願い申し上げます」

 その美しい古イシュテリア語はさすがエベンス貴族の娘と思わせるに十分だった。

「どうぞお直り下さい、リーデリア姫。
 改めまして、私が当家の主レイナートです。こちらこそよろしくお願いします」

 レイナートは笑顔を見せながらそのようにリーデリアを出迎えた。答礼使でレイナートがエベンスを訪れた時に二人は一応顔は合わせているから初対面ではない。


―― 初めてお目にかかった時もそう思ったけれど、本当にお若いご当主様……。

 リーデリアがそう思うのも無理は無い。この時レイナート十八歳。答礼使から帰った翌年で、ようやく幼さが取れ始めたばかり。イステラ有数の貴族当主としてはいまだ風格と呼べるものまでは身についていなかったのである。

 そうして簡単ながらカリエンセス城で結婚を祝う祝宴が施された。
 こうしてイステラ暦四六一年、初夏のある日にギャヌースとリーデリアは結婚したのである。二人は初々しさには幾分欠けたが、それはまあ仕方ないだろう。何せ新郎が三十六歳、新婦が二十五歳であったからである。

 そうして二人は今度は新居となるゲステロム城へと移動した。その最初の夜にギャヌースはリーデリアに改めて伝えた。

「ここは夏期の任地で冬期は主城に移動する。来て早々忙しないだろうが我慢してほしい」

「はい」

「現在ご領地は先代の放漫で非常に経営状態が苦しい。したがって普通の貴族の暮らしが出来るとは思わぬように」

「はい」

「殿下はお若いがイステラ王家のお血筋にあらせられる。そうして王室参謀長の要職にあらせられる」

「はい」

「したがって急にご領地を離れられることもあるが、その際私が主城留守居役を拝命することが多い」

「……はい」

 リーデリアは目を瞠った。自分の夫がそれほど重要な立場にあるということにもだが、しかもそれが外国人なのにということにもである。

「とにかく主家は外国から来た者が多い。それは家臣のみならず使用人や領民もだ」

「はい」

「殿下は苦心されながら何とか領内をまとめていなさるし、我々五士は良いのだが、領内には常に治安に不安がつきまとっているということだ。過去にも一度あったしな。それを常に頭に置いていてほしい」

「畏まりました」

 リーデリアが頷いた。
 どこの貴族家でも多かれ少なかれ不安や問題はある。だがリンデンマルス公爵家のように外国人の方が多いという領地は滅多にあるものではなく、それだけ難しい領地経営を迫られているということであった。

 夫の言葉を聞いてリーデリアは自分に何が出来るかを考えた。そうして思いついたのが子供達に音楽を教えるということである。というか音楽ばかりやってきた自分には他に何もなかったとも言える。
 それをギャヌースを通してレイナートに許可をもらい子供達に音楽を教え始めたのである。

 音楽というものは、否、他のものも何でもそうだが心を合わせてやらなければまとまらない。まして音楽は芸術であるからそうでなければ美しさなど現れない。
 結果としてこれは領民の子供達の情操を高め、また協力し合うということに少なからず貢献したのである。

 リーデリアは楽器演奏を中心に学んだが声楽もそれなりにやっている。竪琴やリュートなどを使って伴奏しながら古イシュテリア語の詩を歌った。それは吟遊詩人などのとは違う「本物」の音楽であって、その透き通るような美しい声に、子供はおろか大人たちも魅了された。

 リーデリアは中々上手く声が出せない子、音が外れる子に対しても丁寧に教えた。笑顔を絶やさず、厳しく叱るでなく、子供をやる気にさせるのがうまかった。したがってたちまち子供らの人気者になってしまったのである。


 そんなリーデリアであるから、王都へ引っ越すとなったら、子供達が一斉に集まってきてしまった。

「リーデリア様、本当に行ってしまわれるんですか?」

「先生、行かないで!」

 子供らは馬車の窓から顔をのぞかせるリーデリアに向かって口々叫んだ。
 リーデリアは柔らかな笑みを見せつつ言った。

「ごめんなさいね。でもご当主様のご命令なの」

「じゃあ仕方ない……」

 子供らは項垂れた。ご領主様のご命令とあらば従わなければならない。

「でも、きっといつか、また歌を教えて下さい」

「ええ、約束するわ」

 リーデリアがそう言うと馬車は動き始めた。
 子供らはその後を追い、いつまでも手を振っていた。

―― この国へ来て本当に良かった……。

 本心からそう思うリーデリアである。


 後世イステラが芸術、特に音楽面で他国に引けをとらない国になったのは、後に宮廷楽師長となったリーデリア・トァニー子爵夫人の功績が大である。


(二)ル・エメスタ出身の女
「おい喜べ、レイナート殿下が無事に戻られたぞ! しかも即位されるってえ話だ!」

 貴族にしては相変わらず言葉の乱暴なアロンである

「それは、おめでとうございます」

 妻が笑顔を見せる。

「ああ。それで早速家族連れて王都に来いってことだ。直ぐに準備だ!」

「はい」


―― それにしても、これは今まで以上に気を引き締めなければ……。

 アロンに嫁いで五年。シャーキン子爵夫人のネーリアは、二人の子供の相手をしながら落ち着いた雰囲気で執事や侍女に指示を出した。

 エネシエルとネーリアのヌエンティ伯爵家兄妹。兄妹の仲はよく、妹は近く輿入れが決まっていた。
 ところが先のル・エメスタ国王の側室であった継母が己の独善からこのエネシエル殺害を画策。事もあろうにレイナートと共に行動しているところに刺客を差し向けた。結果ヌエンティ伯爵家は取り潰されエネシエルは国外追放、ネーリアは生涯の親戚預けとされた。
 ところがレイナートは多額の賠償金を放棄する代わりに、ル・エメスタの深井戸と揚水風車の技術供与を要請、ついでにネーリアもリンデンマルス公爵家で譲り受けるということにしてくれた。
 その後紆余曲折を経てエネシエルはイステラの準直臣貴族の立場を得、ネーリアは同じレイナートの家臣アロンのもとに嫁ぎ幸せな日々を過ごしていた。
 したがって自分達兄妹は決してレイナート様の恩顧に背いてはならないと考えている。


 ル・エメスタにおいて名門の一つに数えられたヌエンティ伯爵家。その故もあって国王の側室が降ってきたということもあった。
 そのヌエンティ伯爵家の亡くなった正妻の娘のネーリアはごく平凡な容姿の、社交の場でも目立たない娘であった。したがって宮廷内で話題になることもなく親戚から持ち込まれた縁談に、おとなしく気弱な父は何ら考えることもなくその話を受け入れネーリアは輿入れすることが決まったのである。
 相手は家格相応の伯爵家の惣領。ただ女性関係にはあまり面白くない噂がいくつかあった。だが貴族の娘など政略の道具。本人の意志など顧みられることなどない。流れに身を任せているだけといえば聞こえは悪いが自分ではどうすることも出来ない。受け入れるしかなかったのである。

 それでもおとなしいネーリアが、唯一決められた己の運命に逆らおうとしたのは親戚預けとなった身の上を恥じ、兄の手に掛けてもらおうとしたその時だけである。

―― あの時もしアニエッタ様が現れなければ……。

 レイナートに思慕を抱き、髪を切って小姓の格好までしてレイナートについてきたシュピトゥルス男爵家の長女アニエッタ。結局彼女が二人を止めてくれたから兄も自分も今こうして生きている。そうしてアニエッタはレイナートへの思いを断ち切り兄の夫人となってくれた。決して頭の上げられない相手である。

 そのアニエッタとネーリア、そうしてギャヌースの夫人リーデリア、キャニアンの妻シェスナ、クレリオルの妻アメンデは仲が良かった。だがシェスナとアメンデは元々平民女性。どうしても根っからの貴族の娘である三人に対しては遠慮がちだった。
 別段アニエッタもリーデリアも、そしてもちろんネーリアも貴族であることを鼻にかけるような女ではない。だが生まれついた身分というのは如何とも為し難いところがある。まして平民が貴族になると萎縮するか、逆に図に乗るか。シェスナとアメンデは前者だったのである。
 それ故ネーリアは普通の貴族相手のとは違う他人との付き合い方、距離の取り方をシェスナとアメンデから学んだのである。

 これはレイナートの依頼で冬期学校で子供達、特に十三~十五歳の少女らに行儀作法を教えることに役立った。
 自分は生まれながらの貴族。もちろん貴族社会にも階級があるからそれは弁えなければならない。だが平民からすれば貴族などどれも一緒。とにかく畏れ多い相手である。
 したがって少女らはとにかく自分の前で萎縮する。それに対しこちらは普通に接しているつもりでも、相手はこちらの一言、一挙手一投足に過剰に反応する。とにかく怯えるのである。

 ある時盆の上に茶器を載せて歩く練習をさせた時、緊張した手が震え茶碗を落としてしまった少女がいた。茶碗は陶器、床は石を敷き詰めたもの。当然ながら茶碗が割れた。
 少女は顔を蒼白にしてその場で跪き、額を床にこすりつけるようにして平謝りに謝った。

「も、申し訳ございません!」

 ネーリアはそれをなだめ、厳しく叱ることなく言った。

「いいえ、誰にでも失敗はあるわ。でも、落としてしまうと確かに割れてしまうわね。ですから落としてもいいように木椀を使いましょう」

「ですが奥様、それでは練習に……」

 侍女総取締役サイラが異を唱えた。

「決して落としてはならぬ。その緊張感がありませんと再び落としてしまいます」

「でもいきなりでは可哀想よ。まずは慣れるところから始めないと」

 ネーリアは決して柔らかな笑みを崩そうとはせず、サイラにそう言ったのである。

 ネーリアはリーデリアから子供達との接し方について助言を得ていた。

「慣れないことをさせて、それが出来ないからと厳しく咎めれば萎縮して余計出来なくなるし、やりたいとも思わなくなってしまうわ。
 唄を歌うのも一緒。ただ音が外れているとか拍子がズレていると言うと子供は二度と歌わなくなってしまうわ」

 実際、リーデリアが歌を教え始めた頃は聞くに耐えないほど酷いものであった。だが冬の間根気よく丁寧に指導することで、春が訪れる頃には見違えるほど良くなっている。

「だから失敗を咎めるのではなく、どうすれば出来るようになるか教えてあげるの。そうすると子供達も出来るようになるし、自信につながるわ」

 それを実践したネーリアである。

 侍女の動き方と貴族の娘のものでは当然違いがある。そうしてネーリアのような貴族の女性のような動き方というのは本来は幼い頃から身につけているものである。だから平民の子供、しかもある程度の歳になってから身につけさせようというのも無理があることは否めない。
 だがしっかりと訓練さればある程度は出来るようになる。そうした侍女の動きは確かにキビキビとして小気味よさを感じる。だがそれは時に優雅さに欠けるのである。

 この点リーデリアに伴って来たエベンスの執事や侍女は別格とも言えるほど違う動きをする。
 サイラはこれを少女達に身につけさせたかったのであった。

「さすがは王国貴族筆頭のリンデンマルス公爵家。使用人の動きもぜんぜん違う」

 誰にもそう言わしめたかったのである。
 それは仕える主家のため。ひいてはレイナートの名誉を守ることにもなる。

「使用人も満足に教育出来ずに何が名門貴族か! やはり所詮は庶子の出よ!」

 そう言わせないためである。

 そういう意味ではサイラの指導はとにかく厳しかった。ネーリアは聞いた話でしか知らないが軍隊の鬼教官のように思えた。
 だがサイラはそうやって厳しく指導することで少女らをどこに出しても恥ずかしくないように育て上げていた。もちろん指導を受けた娘らが全てそのまま生涯リンデンマルス公爵家の侍女として仕える訳ではないのはわかっている。でもそれは商家に働きに出るにしても決して無駄にはならない。まして例えばレイナートの子が他家へ嫁に行く場合、御附侍女として他家へ移っていくこともありうる。その時には絶対に必要なのである。
 つまりサイラは目先のことだけでなく、十年、二十年、そうしてそれ以上長い目でリンデンマルス公爵家の将来を見据えているのである。

 ネーリアもそのことには反対する気はない。だから、多分に後ろめたさを感じながらも、鞭はサイラに振るってもらい、自分は飴をあげる方になろうと思ったのである。これで自分まで厳しくなってしまったら、少女らは萎縮するだけでは済まないだろうからである。


 だがそれも王都に移動するとなると出来なくなってしまう。それは少々残念であった。

―― でもレイナート様がご即位……。これはまた時代が動くのでしょうか……。

 ネーリアは深く考えずにはいられない。

 だがこの五年間、考えてみれば世の中は凄まじい勢いで動いていた。
 イステラとディステニアの和平。それから五カ国連合の成立。リューメールが再独立を果たし、五カ国はそれぞれ駐在官を置くまでになっている。ロズトリンの一部とも交易が始まっている。その全てに多かれ少なかれレイナートが関わっている。

 今回の巨大地震もどうやらレイナートによるものということらしいが、さすがにネーリアもそこまでは信じられないものの、だがレイナートが即位してイステラ王になるとなれば、決して何事も起こることがないはずはないと思うのであった。

―― とにかく私はレイナート様のために働くことに変わりはないわ。

 それはレイナートに対する報恩の気持ちと全くの忠誠心からであって、夫のアロンもそれは理解してくれている。

―― 私は本当に幸せだわ。良き主君、良き夫、そうしてかわいい子供達に恵まれたのだから……。

 心からそう思えるネーリアであった。


(三)イステラ出身の女
「殿下が戻られた。即位なされるそうだ」

「なんと! まことでございますか?」

「ああ。それで家族を連れて直ぐに王都に登れということだ」

 相変わらずぶっきらぼうというか、口数の少ない夫に若干の苛立ちを覚えながらも、ヌエンティ伯爵家夫人のアニエッタは言った。

「わかりました。直ぐに準備させます」

 父親譲りの燃えるように真っ赤な髪、母親譲りの幾分つり目気味の碧い目。レイナートに初めて出会った頃に比べて身体も女らしさを増し子も産んだアニエッタは、堂々の貴族の奥方様という貫禄に満ちていた。


 レイナートがレリエルに向かい行方不明となった報はクレリオルが訪れたディステニアから直ぐにもたらされた。
 その事実にリンデンマルス公爵家は天地がひっくり返るほどの驚愕に包まれた。直ちに夫エネシエル、ギャヌース、アロン、キャニアン、ヴェーアにディステニアから戻ったナーキアスが、レイナート捜索に向かうべく準備を始めた。とは言うもののレイナートから預かった城とその支配地を後先考えず放り出してという訳にはいかない。それなりに準備が必要であった。
 それに国境を越えるとなると色々なものが必要である。身分証明証、国境の通行許可証、もしくはその嘆願書。これらは本来主人たるレイナートが発行したり、レイナートの名前で国に申請される。その当のレイナートがいないのだから手続きに時間がかかってしまったのである。その時のエネシエルのいらだちと言ったらなかった。

 もっともアニエッタもエネシエルの気持ちは十分に理解出来た。
 レイナートに刺客を向けたエネシエルの継母。
 それだけでも本来ならエネシエルは死罪となってもおかしくないほどであった。それがル・エメスタ国外追放で済んだだけでなく。リンデンマルス公爵家において変わらぬ勤めを許されたのである。
 それを思えばエネシエルがどれほどの恩義をレイナートに感じているかは想像に難くない。

 アニエッタもかつてはレイナートに惹かれた。
 だが陪臣から成り上がった男爵家の娘と古イシュテリアまで遡る王国有数の大貴族でしかも王家の血を引くレイナートの妻になどなれる訳がない。そう思って諦めたアニエッタはすっかり気持ちを切り替えた。
 所詮貴族の娘は政略の道具。自分の意思や感情で行動出来る訳はない。もしそんなことをしたら生家に多大な迷惑をかける。そんな無責任なことが許されるはずはない。
 貴族の娘というものは初潮を迎え嫁入るに問題のない年齢になれば当然そのように考えるのである。だからエネシエルの妻となったのである。
 確かにエネシセルは言葉数が少ない、というか絶対的に足りなすぎるところがある。
 それでも一緒に暮らしていれば何を考えているのか、何を言いたいのかは少しずつわかってくる。子供も生まれまずまず幸せな毎日であった。

 元々のイステラ貴族の娘ということもあって、リーデリアやネーリアからは何かと頼りにされた。国が違えば決まりも常識も違う。彼女らにしてみれば己の無知で夫に恥をかかせてはならない。そう思うからアニエッタは一番年下ながら頼りになる存在であったのである。
 逆にじゃじゃ馬のお転婆だったアニエッタにしてみれば、リーデリアやネーリアのようなおしとやかな貴婦人と過ごすと自然とそういった所作が身についてくるのでありがたかった。
 シェスナやアメンデは元が平民ということで悩んでいたが、アニエッタにしてみれば貴族の娘なのに行儀作法とか礼儀作法とかの先生から逃げ出しては剣を振るったり馬に乗っていたのである。こちらの方が余程恥ずかしく深刻に思えたほどである。
 であるからこれらの女性は折に触れては文を交わし、冬期主城で再会すると互いに部屋を訪ね合って親交を深めていたのである。

 そうしてそれはこの先も変わらず続くと思われた。ところがレイナートの行方不明の後は大陸全土を揺るがしたあの大地震である。
 幸いにして夫エネシエルも父シュピトゥルス男爵も生還し、ほっと胸をなでおろしたアニエッタである。
 だがそれからが大変だった。
 エネシエルが任されている城はギュリアジム城。リンデンマルス公爵家領地の東部地区を支配下に収める。それは農耕中心すなわち、領民の胃袋を支える最も重要な地域である。ここへ王都屋敷のエレノアから矢継ぎ早の指示が届いたのである。

 エネシエルは郡長・村長を集めこの指示を伝えた。そうして自ら農地の様子を見にも出かけた。だが東部地区は砂漠が開墾され植樹されたり作物を育てたりで面積が大きくなっている。ヴェーアも忙しく働くがそれでも追いつかない。
 そこでアニエッタも馬に乗って出掛けたのである。

 真っ赤な髪をたなびかせ、馬に乗りやすい男物の服に身を包んだアニエッタが現れると皆が目を丸くして驚いた。

「これは奥様、いかがなされました? 御用がお有りでしたらお呼びいただければ……」

「いいえ、忙しい中を一々お前達を呼び出していたら仕事にならないでしょう?」

「ですが……」

「気にしないで。それより作物の育ち具合はどうかしら?」

「はい、それはもう順調でございます」

 郡長のワッテイは胸を張る。

「例年でしたらこの時期、すでに雪が降っていてもおかしくはございません。しかし今年は……」

「そうね異常なほど暖かいわね。私も生まれて初めてだわ」

「ええ。おかげでよく育っております」

「どうかしら? 追加の種播きは出来そうかしら? 大奥様・エレノア様から食料増産のご指示が来ているのよ。とにかく王都始めイステラ全域で食料が足りていないようなの」

「さようでございますか……。種はありますから播けますが、播いた後に温度が下がると……」

「そうね。それで全てダメになったら大変だものね」

「ええ。ですから少しづつ時期をずらしていくというのであれば……」

「そう? ならばそうして頂戴。これは殿もご存知のことだから」

「畏まりました。早速そのように致します」

「ええ、お願い。ではわたくしは行きます。手を止めて申し訳なかったわね」

「いいえ。では奥様、お気をつけて」

「あなた達もね」

 このようにしてアニエッタは少なくない地域を自ら回り夫を助けたのである。

―― おかしなものね。こんな時に昔、馬の稽古をしたのが役立つなんて。

 こうして城代夫人が自ら足を運んで激励したのだから、領民達の奮起と言ったらなかった。こうして収穫された作物が連日馬車に山積みにされて東街道を進んだのである。


 後にアニエッタがエネシエルと子供達と王都に登り両親と再会した時に、目を丸くした父ロムロシウス・シュピトゥルス男爵・現軍務大臣に言われてしまった。

「何だお前、昔のお転婆の頃より真っ黒ではないか」

「あら父上、当たり前です。
 貴族の女子《おなご》だからと家の奥深く、おとなしくしていればいいという時代ではありませんわ」

「それはそうだが……」

「それより父上、感謝申し上げますわ」

「何をだ?」

「とても面白くて楽しい家に嫁がせていただいたことをです」

「そうか。それは何より」

「ええ」

 そう言って満面の笑顔を見せたアニエッタである。


(四)レリエル出身の女
「はー」

 深い溜息を漏らしたエレノアに、イェーシャが声をかけた。

「いかがなされました、大奥様?」

 すっかりと落ち着きを見せ女らしくなったイェーシャの言葉にエレノアは首を振った。

「何でもない、気にしないで……」


 だがエレノアの胸中は複雑だった。

―― レイナート様のためにもっと色々しておくんだった……。

 レイナートが帰ってきてこれ程嬉しいことはない。我慢して歯を食いしばって待った甲斐があった。
 だがそのレイナートは王宮に出かけては難しい顔で帰ってくる。女の身であまり差し出がましく口出しは出来ないから不用意に口は開かないようにしている。
 それにリンデンマルス公爵夫人という立場上、何もかも自分で思い通りにするという訳にもいかなかった。だがそれでは自分がレイナートの役に立っていない気がするのである。

―― 夜の方もあまり機会がないし……。

 リンデンマルス公爵家の王都屋敷フォスタニア館は巨大である。部屋数も多い。だが一つ一つの部屋はそれほど大きくない。
 したがってレイナートの寝所もさして広くなく寝台は一人用のもの。家督を継いで直ぐに購入した、天蓋なしの貴族用とは思えないような極普通の作りのものをそのまま使っている。

 それ故エレノアは夜は自分用、すなわち当主夫人の寝室でアニスとともに休んでいる。普通なら貴族家では専属の乳母が赤子を育てるものだが、あいにくこの王都屋敷には子を産んだばかりの女性がエレノアの他モーナしかいない。彼女にアニスまで任せるのは憚られた。ではと言って領地から呼び寄せるのはこのような状況下では無理がある。そうかと言って人を雇おうにも王都内は混乱が激しい。したがって自分の乳で育てるしかなかったエレノアである。
 もっともそれはレリエルでなら当たり前のこと。別段苦労だとか嫌だとかは思わない。

 だが困ったことがひとつ。
 それはレイナートが寝室に来てさあこれからという時になると必ずアニスが目を覚ます。いきなり泣き出すこともあれば、泣かずにじっとレイナートとエレノアを見つめていることもある。まさか親がこれから何をするのか赤ん坊がわかっているはずもないだろうが、じっと見つめられたまま事に至るのはさすがに気まずい。
 エレノアがあやして寝かしつけようとするが中々アニスは寝つかない。イェーシャに抱かせ、部屋から連れ出そうものならそれこそ狂ったように泣き出してしまう。
 結局レイナートは恨めしそうにアニスを見つめてぼやくのである。

「出来ることなら独り占めしないで、お父さんにもお母さんの相手をさせておくれ」

 するとアニスはぷいと横を向く。

「はぁ」

 溜息しか出ないレイナートである。


 レイナートのために何かしたい。そう思うエレノアだがこれが中々思いつかない。元々若くして軍に入ったから女らしいことがあまり得意でないエレノアである。

 それでも普段レイナートが口に食事 ― 肉と野菜たっぷりのスープ ― なら出来そうだと思い厨房へ向かうとさあ大変。

「大奥様、何か粗相がございましたか!?」

 料理人達が血相を変え顔面蒼白でおののいてしまう。

「いや、なんでもない……」

 エレノアはすごすごと帰るハメになる。

 裁縫など全く出来ないし、何もレイナートにしてあげられることがない。

―― 私はとんだ半端者だ……。


 がっくりと肩を落とすエレノアであり、そんな妻を出来る限りいたわるレイナートである。

 ちなみに後にアニスが乳離れして寝所がエレノアと別になって直ぐに、エレノアが次女レーネを身籠ったのは言うまでもない。

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