聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

序章

第10話 イステラ王家

 大陸の北東部に位置するイステラ王国。伝説の古代王朝イシュテリア大王国の正統後継国家を自認するこの国の王家は、その古のイシュテリア大王家の直系であると称している。
 そうして古イシュテリアが突然謎の滅亡を遂げた後、後に初代イステラ王となった青年は苦しむ人々を救うべく、己に付き随う五人の騎士とともに兵を挙げたとされている。

 その当時群雄割拠していた古イシュテリアの貴族達およそ五十余に対し、時に肝胆相照らす言葉を以ってして協力を取り付け、時に武力を用いて平伏させ、レギーネ川北部を平定し王国を樹立し現在に至るという。その時この青年に下った貴族達は現在直臣と呼ばれており、したがって彼らは古イシュテリアまで遡る己の家の由緒と格式に対し一方ならぬ自負を持っている。
 後の世にその功が認められ平民から陪臣の貴族、さらに直臣へと取り立てられた貴族家二十余、例えば代々工務省に勤めてきたクレモンド男爵家や長いディステニアとの戦役で武功のあったシュピトゥルス男爵家などとは何もかもが違う、というのである。

 また一方でそうであるからこそ、同じ直臣とは言いながら、初代イステラ王の騎士だった五人、現在の五大公家に対しては、これを準王家扱いにすることにやぶさかではなく、羨望とも尊敬とも言い難い複雑な思いを抱いている。
 事実イステラ王家はその純血性の維持のため、可能な限り五大公家からしか后を迎えない。実際に四百数十年に及ぶイステラの歴史の間に、わずか二度しか五大公家以外から王妃になった者はいないのである。
 そうであるからこそイステラの王となることにはその血統が最重要視されている。特にイステラは側室を認めぬ国であり、側室の間とに出来た子は成人後「爵士」とされ、一生王国の飼い殺しとされていたのである。
 したがって庶子が王位はもちろんのこと、貴族の家督ですら継ぐということはあり得ない国であったのである。



 だがそれは余人の知らぬことであったが、古イシュテリア大王が後世に残した呪縛の影響であったのである。
 古イシュテリアの聖剣の内『破邪』『討魔』『斬鬼』とそれぞれの銘を持つ三振りを収めた三カ国、即ちイステラ、ビューデトニア、コリステロルリアにおいては側室を持つことを禁じられていた。それは王族貴族だけではなく、平民もすべからくそれに従うべし、とされていたのである。

 術式が収められたレリエルにおいては、呪縛によって男子の出生が極力抑えられていた。即ちレリエルは男子が生まれにくく育ちにくい国であったのである。したがってより多くの男子が生まれるべく、レリエルの男は三人の妻を持つことが半ば義務付けられ、生まれた男児は国が養育するという特殊な政策を取らざるを得なかったのである。
 だがこれらは他国とのつながりを持つと実現が難しくなる。そこでこれらの国では長く鎖国が続けられていた。その唯一の例外はイステラである。
 イステラは国土が海に面しておらず、また岩塩の産出もない。したがって塩は全量外国からの輸入に頼らざるを得なかったのであって、鎖国を敷くことはすなわち死に直結する。故にイステラは周辺国との友好を深めつつ、頑なに側室を持つことを戒めてきていたのである。それによってコリステロルリアの二の舞とならずに済んだということが言えよう。
 逆にイステラが鎖国を敷かなかったが故に「側室を持たぬ」という、普通では考えられないことが他国に知られ奇異な目で見られていたということもあったのである。



 そういう国であるから、レイナートに即位を打診、というか半ば強制したドリアン大公はイステラの貴族達に対する工作に慎重を期さざるを得なかった。本来庶子が王位に就く、などあり得ない国だからである。
 例えばレイナートの父王アレンデルは、リンデンマルス公爵家を継がせるべく三年もの月日を掛けたのである。だが今はそのような悠長なことを言っていられる時ではない。国家のあらゆる機能が滞り、異常なほど暖かい冬であるから凍死者こそ出てはいないが、餓死者や震災による傷病を原因とした死者がない訳ではないのである。したがって強力な指導者が直ぐにでも必要とされていたのである。

 摂政ドリアン大公は宰相兼内務大臣のシュラーヴィ侯爵の案を採用し、早速、摂政としての自らの署名に王妃エーレネの署名の入った書状を認め各貴族に送らせた。
 それは即ち、新当主が十三に満たない家に対してはリンデンマルス公爵の即位決定のみを通知し、その他の貴族に関しては即位決定の通知とそれに対する異議の申し立てを一応認めるというものであった。
 ただしリンデンマルス公爵の即位に反対する場合は、当主本人が登城し直接摂政と宰相の前で適任と思われる代わりの人物を推挙せよ、というものであった。

 それはある意味で強引かつ不公平ともいうべき内容であるが、「文句があるなら自分らで対案を提示しろ」といことであった。
 だが現実問題として当主が十三歳にも満たないというのは本来ならイステラではありえない。「他に人がいなければ養子を迎えろ」という考え方が根底にあるからであり、事実王家も五大公家もそのようにしているからである。大体そのような当主に国政に対する意見があるとも思えない。なのでこのような家に対しては「特例を認めたのだから黙って従え」という国の強い意志の現れである。

 一方、当主が死亡しても元服を済ませていた嫡子が家督を継いだ家や、当主がそもそも健在の家に対しては「一応意見を聞いてやるぞ」という形式だけではあるものの譲歩を示してはいる。
 とにかく古イシュテリアの末裔という意識が強いイステラであるから、純血性にこだわる貴族がいないとも限らないからである。だが異議を申し立てる、どころか不平・不満だけなら誰にでも言える。なので文句があるなら自分で解決してみろという国からの挑戦でもあった。



 いずれにせよその公式文書、いわば勅書に等しきものを受け取った貴族家では、当初はっきりと二つに分かれた。
 全面的に国の命令に従う家と、やはり、いくら先王の血筋とはいえ庶子の即位に戸惑いを覚えた家である。

 貴族は確かに王に対し臣下の立場をとっている。だが貴族自身がその領地では王であり、国王とは自分達が認めるから「王」なのだという意識があるからであった。
 ではと言って、他の誰が代わりに即位するのが相応しいのか? と問われれば、これまた考えがまとまらない。
 公式文書には皇太子アレグザンドの不予、及びドリアン大公の身体の状態についても記されていた。しかも王位継承権を持つ者がこの二人を除くとレイナートしかいないということもである。

 貴族からしてみればこれは半信半疑であった。国王の親征に伴い五大公家の成人男子が多く死亡したことも、また貴族の当主が地震によって多く死んだことも知ってはいる。だが生き残った貴族の多くは冬が暖かいこともあって中々王都へ移動しなかった者達がほとんどである。それに地震後の領地の混乱で王都の様子は直接確かめている訳でもなかった。
 したがって皇太子の不予ということが本当なのか? という疑問である。とは言え王妃の連名の公式文書である。まさか我が子を即位させたくない母親などいないだろうから、もしかしたら真実なのかもしれないという考えも浮かぶ。
 それにイステラでは摂政を置くということも稀である。摂政は王がその任に堪えられない時にだけ置かれるものであるからで、通常は宰相と各省大臣のみで事足りると考えられているからである。



 そこでレイナートの即位に素直に賛同出来ない貴族家は王都に向けて使者を送った。特に当主が領地に残っていた家では、どうしても領地中心で王都の状況にまで手が回っていなかったということがある。だがいずれにせよ王都屋敷の状態も細かく把握する必要があるのは当然である。そこで有能な家臣を王都に赴かせ、ついでに公式文書の内容が正しいかどうかも確認させたのである。

 だがこれは国としては迷惑な話であった。それは摂政と王妃連名の公式文書の内容の真偽をわざわざ確かめに来たということであるから当然であろう。特に皇太子へのお見舞いと称した拝謁希望は王妃にとってはいわば不愉快とも言えるものであった。
 どこの世界に腹を痛めた我が子の病んでいる姿を他人に見せたい母親がいるものか。第一、相手は陪臣である。突っぱねるのは簡単であった。だが王妃という立場だからこそ未曾有の国難に直面している現在、無碍に拒絶することも出来ない。そこで不承々々拝謁を許可した。だがそれも度重なると当の皇太子アレグザンドが癇癪を起こし手が付けられなくなってしまったのである。

 そこでドリアン大公は摂政として皇太子への拝謁を禁じた。それでは主君の命を果たせない使者達は当然ながら抗議した。だがドリアン大公の姿を見て沈黙せざるを得なかった。
 片足を失い杖をつきつつ侍従らに支えられて歩く姿。これを見ればさすがに何も言えなくなってしまったのである。そうして君命半ばにして領地に帰り、主人に報告をしたのである。

 その報告を受けた各貴族は、複雑な思いを深めるだけであった。
 庶子が家督を継ぐ。それはあり得べからざることというのがイステラの決まりである。もちろん各貴族としても特別レイナートに含むものがある訳ではない。



 様々な公式の場で見かけた若きリンデンマルス公爵家当主のレイナート。家督を継いで直ぐの頃は恥ずかしいのか気圧されているのか、俯き加減でそそくさとまるで逃げるかのように早足で歩いていた少年。
 それが年を経るごとに自然と自信のようなものが備わり、また他家においては信じられないような幾つもの出来事に対しても真摯に向き合いその解決に尽力してきた。その姿を見ているからレイナートに対する評価そのものは決して悪いものではなかった。

 特に年頃の娘を持つ親にしてみれば、レイナートは好青年として目に映り、しかもリンデンマルス公爵家といえば五大公家を除く直臣貴族の中でも名門中の名門である。それなりに家格が合えば是非にも娘を輿入れさせたい家である。
 そうでない家格の吊り合わない家であればせめて女官として仕えさせたい。もちろん側室を認めぬ国柄であるから、それを狙ってのことではない。だが多少でもつながりを深められれば何もないよりはるかにマシである。

 だがそれもレイナートがリンデンマルス公爵家の当主のままであれば、ということであり、即位して王になるというのはやはり抵抗が出てしまう。レイナートの庶子の生まれがどうしても引っかかってしまうのである。
 だがそれを単に狭量と責めることは出来ないだろう。



 人間とはとかく保守的になるものである。特に日々の生活が安定し大きな変化を必要とせず、敢えて冒険をする必要がなければ当然のことであろう。それが長く続けばそれは習慣となり、やがて慣習となり、そうして常識となる。さらにそれが規則、法律ということであればそれに従うのは当然であり、それに逆らうことは犯罪であり、処罰の対象になってしまうのである。
 だがそれを今は、国自体がその禁を破り前例のないことをしようとしている。もちろん国のすることだから素直に従えばいいのかもしれない。だがそれは長い歴史の中で絶対に許されないこととして、決して行われなかったことである。
 この話に乗るべきなのか、乗らざるべきなのか?

 もしこの決定に従った結果が思わしくないものであったら?

 逆に決定に逆らい、その結果必要のない損害を被ることにでもなったら?

 それを考えればどうしても二の足を踏んでしまうのである。安定期を迎えそれなりに成熟した時代。どうしても保守的、言い換えれば消極的にならざるを得なかった。だが今は非常時。このままでいいはずがなかった。

―― 仕方がない。賭けてみるか……。

 レイナートの即位に抵抗のあった貴族もそのように思い至るようになったのである。

 こうして、イステラの全貴族がレイナートの即位に合意したのであった。



 だが彼らは大変なことに気づいていなかった。
 それはレイナートが普通の貴族の常識では測れないほどの「変わり者」であった、ということである。

 即位後、否、即位前からレイナートが次々と打ち出した新機軸の政策。それに驚き、唖然とし、振り回され、翻弄されつつも、半信半疑ながらそれに従った貴族達。結果は予想に反すると言っていいほどの効果を上げた。
 と同時に彼らは最終的に悟ることになる。

 それは自分達が王と戴いた青年が、史上まれに見るほど優秀であり、そうして最も優れた偉大な王であったということにである。

 全イステラ貴族は後に世に誇った。

「我らがレイナート陛下は、史上最も優れた偉大な王である。己はその臣下であることに誇りを覚え、その下で働けたことは無上の栄誉である」と。

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