聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第1章

第8話 常識破り

 イステラは夏の盛りを迎え、例年のごとく乾燥した暑い日が続いている。

 この夏、イステラ王都もかなり寝苦しい夜が続いているが、それでも高い城壁がところどころ崩れ落ちていることもあって風の通りが良くなっており、以前に比べれば大分しのぎ易くなっている。とは言うもののそれは、大人にとっては、の話。生まれて一年にも満たない赤子には厳しい暑さである。
 そのため王妃の寝室は昼夜の別なく窓を大きく開け放っている。王妃・王女の就寝時は天蓋から垂れ下がる薄い布をまくり上げ、ネイリら侍女達が夜通し扇でゆるやかに寝台に風を送っている。それは途中で交代するとはいえ、決して侍女らにとっては楽と言える仕事でもない。
 だがそのお陰でアニスはオシメ以外では目を覚ます事なく、朝までぐっすりと眠ってくれている。エレノアにとっては非常にありがたいことである。
 一方のレイナートは別室で一人寂しく寝ている。親子三人揃って寝るのは暑苦しいし、アニスの夜泣きに付き合っていては朝の早いレイナートの体が保たないからである。


 レイナートは、最近では夜明けの半刻ほど前には起床し、洗顔、身支度を整えて執務室に入る。そうして前夜遅くまで目を通していた書類などを改めて確認する。そうこうしているうちに、日の出に鳴らされる刻《とき》の鐘と共に姿を見せるアロン、エネシエル、ギャヌース、キャニアン ― 彼らはこの時「王騎士」と呼ばれていた ― 以外にも、各省の大臣、役人達が立て続けに執務室に現れ順次前日の報告をする。およそ一刻に亘ってそれらを聞き指示を出すと、ようやくレイナートは朝食となるのである。

 王宮に移り住んでからもレイナートの食事は質素であった。さすがにリンデンマルス公爵家の時と同じ、とまではいかないが、それでもとても国王の食事とは思えないものである。食糧難とも言える状況が起きており、多くの人々に我慢を強いている現状である。それなのに王が贅沢するのは言語道断、という訳で、レイナート自らの指示である。

 食事は特別なことがなければエレノアと一緒に摂ることにしているが、実際朝食を共に出来るのは二~三日に一度ほど。アニスがむずがったり打ち合わせが長引いたりで中々実現出来ないのである。それでなくとも待たせることに心苦しさを感じているレイナートであるから、朝食の時間は日の出から一刻後と定め、それ以上レイナートが遅くなる時は先に食事を済ませるようにエレノアに告げてある。料理長にも侍従にもそのように準備するように指示してある。
 逆にこれはエレノアを恐縮させるのだが、レイナートは忙しくなるとほとんど昼頃まで食事が出来ないでいる。それに付き合っていては出産後の体調管理の面から、エレノアにはいいことではない。そこで「気にすることなく食事をせよ」と言っているのであった。

 その食事、すなわちイステラの食糧事情は厳しい状況を迎えていた。


 冬が異様と思えるほど暖かった大陸北部だが、夏は例年通りの気候となった。それ故大地震によって川からの用水路や、深井戸に据えられた揚水風車が破損した所では厳しい状況を迎えていた。
 用水路の方はとりあえず人足が確保出来ればなんとか修復工事は出来るが、揚水風車の方は修理に技術と知識と交換部品を要する。そうしてそれは直ぐにどうにか出来るというものではない。工務省の専門技官の数には限りがあって、常の時でさえ順番待ちせねばならなかったし、部品を作るにも熟練した職人と時間が必要である。しかもそれがイステラ国内で確保出来ないからといって、ル・エメスタから調達という訳にはいかない現状である。
 したがってこの揚水風車の方が状況としては深刻であり、レイナートを悩ませる大きな問題の一つであった。だがこれを何とかしないと、暑さで体力を消耗しているところに食料不足から国民が餓死という、決して起こってはならない結果を招きかねないのであった。それ故レイナートは食料の確保に頭を悩ませ続けていた。

 大震災直後から少しずつ落ち着きを取り戻し、橋の完成もあって王都への物品の搬入も滞り無く行われるようになった。ところが品物そのものがないのでは話にならない。それに王都のみ優先すれば地方領主の反発を招くのは火を見るより明らかである。


 夏のイステラは高温故に農作物の水管理が重要である。少しでも水が途切れたら直ぐにでも作物は枯死しかねない。だが水が思うようにならなければ潅水も出来ぬ。

 用水路工事もただ人手があれば済むとはいえない。高温下での作業であるから人足の体力消耗が激しい。奴隷のように酷使したら直ぐにでも皆命を落としかねない。
 第一レイナートは奴隷制度を忌避している。直ぐにでも制度そのものを廃止したいところだが、社会の実情はまだそれを許す状況ではない。したがって奴隷制を廃止しない代わりに可能な限りその待遇を改善し衣食住をよりよいものとするように指示していた。
 それ故平民・奴隷の別なく作業に当たる人足の体調を優先させて行っているので、その進捗は決して早くないものであった。


 当時のイステラの夏の主要農作物というと豆類、イモ類、小麦、それにリンデンマルス公爵家で始まり国内各所に広がりを見せていたトウモロコシであった。この中で豆はあまり高温でも花落ちが激しく収穫には漕ぎ着けない。イモ類も小麦も暑さに強い作物とは言えない。そういう点からすると積算温度を必要とするトウモロコシはイステラに合った作物と言えるが乾燥には弱い。したがって栽培には大規模な灌漑を要するのである。
 それ故、水利が滞った地域では農業生産量の低下は著しいものがあったのである。

 それに輪をかけたのが災害による労働人口の減少である。
 レイナートがビューデトニア城においてライトネル王子と戦ったことによっておきた巨大地震。その結果イステラを始めとする諸国において甚大な被害を被った。イステラではレイナートの即位後の調査によってその全容がおおよそ掴め始めていたが、それは目を覆わんばかりのものであった。

 死亡もしくは行方不明がおよそ二万余人。これにはレギーネ川で行方がわからなくなったアレンデル前王や五大公、エテンセル公爵に同行した各軍兵士も含まれている。
 重軽傷者は八千にも及ぶ。医療未発達のこの当時、重傷者は最早死人に近いと言っても過言ではなく、一命を取り留めても重度の障害を残し、元の生活に戻ることは絶望的である。
 全壊もしくは全勝した建造物二千余。半壊もしくは半焼したもの五千。
 これらの大半はビューデトニアに近いイステラ西部においてであり、王都、ミベルノ、ロッセルテの三大都市もここに含まれる。

 この三都市は国の直轄であるが、各貴族は王都には表屋敷を、ミベルノ、ロッセルテには商会との取引のための小さな屋敷も構えていて、それらも当然ながら被害を被った。故に被害を被った者の中には直轄領の市民だけでなく、貴族領から来ている者も多く含まれていたのである。
 これらの者が死傷によってその職務を果たせないとなると代わりの者が領地から派遣されることになるのだが、あまり大量に領地から人を引き抜くと今度は領地経営が追いつかなくなる。まして農業などはまとまった人数で作業を行うから大規模面積の作付が可能なのであって、人が減った分は確実に収量の低下を招くのである。
 それ故各貴族家においても人事面での苦労が大きかったのである。

 ここにはイステラの特異性、すなわち側室・愛人を持たないということも影響を及ぼしている。
 イステラにおける貴族。平民を含めた全世帯あたりの平均的な子供の数はおよそ三・四人である。一人の女性が生涯に産む数としては限界、とは言わぬものの、これ以上となるとかなりきつくなることは確かだろう。
 これがディステニアなら複数爵位を持つ貴族もおり、それぞれの家を継がせる必要から男子を多くもうけることが要求され、したがって側室を持つことは貴族においては普通である。それ故、子供の数が七人、八人などというのは決して珍しいことではない。

 ところがイステラの場合側室を認めず、庶子には家督相続権が与えられないので、男子が生まれなければ養子を取ることが普通である。これは平民であっても同様で、娘しか生まれない家は養子を迎え家を継がせるのである。それ故男子をもうけることは家の存続のために最重要視されるが、生まれなければ生まれないで、養子を取ればいいと妙に諦観しているところがあるのである。それが子供の数に現れていると言っていいだろう。
 それがこの未曾有の災害時に仇となった。子供の数、特に一件あたりの男子の数が他国に比べて少ないため、王都で減った代わりに領地から連れて来るということがままならないのである。

 かと言って人がいなければ屋敷の維持管理は出来ない。それは王都も領地も同じである。
 それともう一つイステラにおいて仇となったのは貴族に仕える執事、侍女のあり方である。
 各家の執事、侍女の大半は領地から選抜されて勤めているのが普通である。ところが彼ら、彼女らはその職にある間は基本的に結婚が認められないのが普通であった。それ故、執事や侍女には通常は子がなく、高齢化や死亡などで人の入れ替えが必要な場合は領地からの新規採用が普通なのである。それは言い換えれば適齢期にありながら未婚という成人男女を多く抱えているということにほかならない。

 また特に女性の場合、ある年齢に達すれば妊娠・出産が出来なくなる。それでは人口減少を招くことになるので、侍女の場合ある年齢、通常は二十代半ば過ぎくらいに達すると職を辞し、家庭に入り子をなすということも多い。
 確かに屋敷勤めの者が妊娠・出産となればその間は職務に着けないのは当然であるし、出産後も体を酷使すれば最悪の場合生命にも関わる。それを避けるため、そうやって女性を守ってきたと言うことも出来なくはない。
 いずれにせよ侍女の中には、例えばサイラのように独身のまま生涯勤め上げるという者と、職を辞め家庭に入る者の数は大抵の貴族家では半々となるようにして人材の確保と世代交代を図っていたのである。
 故にレイナートの祖父ユーディンと祖母メレーネのように、在職したまま結婚しエミネ、マリアス姉妹を産んだことの方がイステラでは稀有なことであったのである。

 このようなイステラにおける決まり ― それは明文化された法ではなく不文律での社会常識 ― の故に、この非常時にいざ人材不足になった時に新たに確保出来る人材に乏しいということを意味したのである。
 いずれにせよ人手不足が深刻な家では人材確保がままならず、多くの貴族家では難儀することを強いられたのであった。

 そこへ持ってきて貴族の家では体面とか体裁にこだわる。それが貴族というものだと言ってもいいだろう。
 もちろん家ごとにそれぞれの家訓やら何やらあるが、いずれにせよ貴族として「こうあるべき」もしくは「こうするべき」といううるさい決まり、伝統がある。それをあまり無視すると貴族社会から爪弾きになることさえある。

 レイナートがリンデンマルス公爵家を継いで直ぐに先代が物故し、その葬儀を出したことがある。その時もレイナートはイステラのしきたりに則って葬列を組み、先代の亡骸を墓地にまで運んだ。もしこれをしないでいたらどうなっていたことか?
 おそらくは式務省から役人がやって来てこう言ったことだろう。

「イステラ貴族には踏むべき道と、守るべきあり方というものがございます。
 ご存じないのであればご教授させていただきましょう」

 それがあるからレイナートも、つい目と鼻の先の貴族家を訪れる際に、「無駄なことだ」と思いつつ馬に乗り、供回りを整え、威儀を正して出かけたりもしたのである。

 馬一頭飼うだけでも馬丁やら餌代やらで結構な物入りとなるのである。まして当主用ともなれば馬も一頭だけという訳にはいかない。その維持管理だけでも相当な出費となる。多額の借金を背負っていた頃には本当に頭の痛いことであったのである。
 だが、だからと言ってこれを怠ると「ほれ見たことか、やはり下賤の生まれよ」と嘲笑されたことだろう。それは父王や養母である王太后の顔に泥を塗ることになる。だからレイナートは己のためにではなく、自分を支えてくれた人々のために、「おかしい」「無駄だ」と思いながらも貴族社会の常識に合わせる努力をしたのである。それがあったからこそ、式務省に目をつけられるとか貴族達に白い目で見られるということはなかったのである。
 まあ、それでもかなり風変わりというか、型破りなレイナートではあったけれども……。


 いずれにせよ有職故実を管理する式務省の仕事といえば、まさにその一点、貴族に体面を守らせるということに尽きると言っても過言ではない。
 イステラには宗教がない。したがって宗教典礼などないから、儀式・儀礼や典礼というものを仰々しく行う機会に乏しい。それだけに特に冠婚葬祭には至極うるさいのである。

 なので災害に見舞われたからといって、貴族の体面維持を疎かになどしようものなら忽ち式務省に目をつけられてしまう。それでなくとも急な代替わりで国に無理を認めてもらったという負い目がある貴族にすれば、これ以上目をつけられるのは御免被りたいのである。
 そこで王都屋敷の責任者、家宰とか留守居役とかが領地に対し人材派遣を命じるが、領地を預かる者としては素直に首肯出来かねる。そんなことをすれば領地領民全体が飢えかねないからである。
 まして当主は幼い、経験もないいわば子供。周囲の言いなりである。親戚も同じような状況であてにならない。なので余計に自分がしっかりしなければという気概が生まれる。
 そこに当主の生母などが絡むと話はどんどんややこしくなり、それが嵩じて家の主導権争いにでもなれば悲惨である。ただでさえ混乱し落ち着かない家の中が全く収まらなくなる。
 もしも家臣による家内の主導権争などが起きお家騒動にでもなったら、それこそ面目丸つぶれどころか家の存続自体が危うくなる。
 そこで貴族家の家臣、王都、領地それぞれの者達は国に陳情すべく独自に画策した。

―― 諸事、略式になることをお許し願いたい。それと当家に御用の際は必ず私めを通してお申し付け下さい、と……。

 訴える先としては一番好都合なのは国王、でなければ式務大臣である。何せそこが元締めだからである。とは言え陪臣が正々堂々王宮に乗り込み国王や大臣に直訴するなど言語道断である。となると陳情先は大臣の側近か、はたまたレイナートの家臣かということになる。
 そうなるともちろん手ぶらで、などということはありえない。ただでさえ困窮している財政を省みることなく袖の下を用意する。そうしてそれを携えた使いが大臣達の屋敷やリンデンマルス公爵家のフォスタニア館を訪れるようになったのである。

 各大臣はドリアン大公、シュラーヴィ侯爵やシュピトゥルス男爵らが選んだ人物であるから、賄賂を受け取るようなことはない。ましてレイナートの家臣なら全くありえない。

「何を考えているんだ、こんな時に!」

 皆、呆れてものも言えない。
 そうして当然ながらそれはレイナートに報告しないという訳にはいかないことである。

 報告受けたレイナートも唖然とした。

「本末転倒も甚だしい……」

 人手不足、領内設備の破損。それ故に農業生産量が落ち込み国内の特に西部地域で食料不足が起きている。それを解決するために被害の少ない東部地域の貴族領から食料の移送に頭を悩ましているのである。それなのに当の西部地域の貴族達が内輪もめなどして何になる!

 レイナートは直ちに式務大臣のシャンテス伯爵を呼び出し命じたのである。

「貴族としての威容、威儀を正し体面を重んずること、これこそが貴族たる所以であるとされている。だが現在のような非常時にそれにこだわるのは愚かの一言に尽きる。
 よって当分の間、貴族は冠婚葬祭始め諸行事に多額の費用を費やし、大仰な儀式・典礼を営む必要はないものとする。
 そのように申し伝えるように」

「しかし陛下! それではあまりに……」

 シャンテス伯爵が絶句する。摂政ドリアン大公、宰相兼内務卿のシュラーヴィ侯爵も同様である。それは貴族としての面子を疎かにしていいというのと同義だからである。

「そんなくだらないことが元で内輪もめしている暇があったら食糧増産に勤しめ。そう言ってやれ!」

 吐き捨てるように言ったレイナートである。

 本来であれば賄賂を持ってきた家の者に対して懲罰を与えたいくらいである。だがそんなことをすれば人手不足の家の中がさらに混乱するだろう。
 貴族としての体裁を整えるために多くの執事や侍女が必要だというのなら、全てを略式にすればいい。そうレイナートは言うのである。

―― 大体、何もかも上げ膳据え膳で自分では何も出来ない事自体がおかしいのだ。己の身の回りのことくらい自分で出来なくてどうする!

 貴族社会の常識からすればいささか、否、かなり乱暴なことを考えるレイナートである。

 だが翻って考えてみれば、レイナートもリンデンマルス公爵となってからは、何もかも自分でしてきた訳ではない。周囲がそれを許さなかったからである。
 だが元服前、まだ爵士となると目されていた時には、王太后セーリア陛下はレイナートに対し、己のことは己で出来るようにと様々なことを学ばせた。故に、礼服に飾緒を着けるとか懸章を下げるという場合には人の手を借りないとならないが、着替えとか身支度を整えるなどという、平民なら自分でやって当たり前のことは自分で全部出来るのである。

 そういう素地があるからこそ貴族というものが情けなく見えて仕方がない。
 貴族がいい服を着て、旨いものを食って、いい暮らしをする。それを支えているのは一体誰か?
 それに思い至れば、今その平民、領民達が苦しんでいる事に対し何とかしようと思わないでどうする? 体面だの体裁などを気にする余裕が有るのなら、いかに領民を食わせ、余力をもって他の者達を助けようとは思わないのか?

―― 本当に情けない……。

 こうなると貴族など無用の長物ではないか。そうとまで思えてくる始末である。

 レイナートは己の言葉を裏付けるように、式務省の人事配置に手を入れた。失われつつある過去の有職故実。それを残すために貴族の長老達から聞き取り調査を行わせていたが、そのための人員を半分に減らしたのである。そうしてその余剰人員を財務省に配置転換させたのである。
 理由は現在進めている紙幣の発行を円滑に確実に推進するためであった。

―― 陛下は本気だ!

 貴族らは戦慄し、レイナートをまるでバケモノか何かのように思ったのである。それほどまでにレイナートは貴族社会の常識を平然と覆そうとしたのである。
 レイナートの父、先王アレンデルも中々強面の君主であった。だが貴族社会の根幹を揺るがせるような施策を行ったことは一度もない。
 だがレイナートは非常時であることを理由に貴族らには思いもよらない、想像も出来ないことを次々と政策として打ち出している。ドリアン大公以下のイステラ貴族達はここへ来て初めてレイナートに対し空恐ろしさを感じ始めていた。

―― これは性根を据えてかからんとならんな……。

 今更ながらそう思うようになったのである。


 さて、様々なことで頭を悩まされるレイナートであるが、わずかな憩いをエレノアに求めるのは当然のことだろう。夜遅くまで執務室にあるレイナートが北宮の私室に戻るまでは必ず起きて待っているエレノアである。

「本日もお疲れ様でした」

 疲れた顔をしているレイナートにエレノアは掛けるいい言葉が見つけられない。元々兵仕上がりの剣士であるエレノアには政治面での協力など初めから無理な話である。それでも妻としてレイナートを支えることに腐心している日々である。

「ああ、今日は参った。まったく貴族というものは度し難いものだな……」

 そう言ってレイナートは腰の剣を外しどっかと椅子に腰掛ける。他人の前では気を張り、決して見せない素顔をエレノアの前だけではさらけ出す。

「御酒を召し上がりますか?」

 エレノアに尋ねられてもレイナートは首を横に振る。相変わらず酒には弱く、自分から飲もうと思うことなど滅多にないレイナートである。
 エレノアにしてみれば、自棄酒とは言わぬまでも、何かで気を紛らわせなければレイナートが辛かろうと思うのだが、我慢強いレイナートは愚痴も弱音もほとんど吐露することがない。せいぜい先ほどのようなセリフをポツリとこぼすのみである。

「申し訳ありません、あなた……」

 エレノアの弱々しい言葉にレイナートが顔を上げる。

「何故謝る?」

「だって私はあなたのためには何も出来ていなくて……」

「そんなことを気にする必要はないよ。今はアニスのことだけ考えていてくれればいい」

 レイナートはそう言って笑顔を見せる。

「はい……」

 エレノアも頷いた。
 多忙故のすれ違い、とまではいかないもののゆっくりと話も出来なくなっている二人である。
 このようなごく僅かな、些細な時間であっても二人にとってはとても貴重で何物にも代えがたい一時である。

 だがそれを台無し、というのは酷か、にするのは娘のアニスである。

「申し訳ございません、陛下。姫様がお目を覚まされてしまって……」

 アニスを抱いたイェーシャが申し訳なさそうに姿を表した。

 母親に似た黒髪と黒い瞳。色の白いレイナートと明るい褐色の肌のエレノアの中間の肌色のアニスは、くりっとした目を見開きながらエレノアに向かって手を伸ばす。

「あ~、あ~」

「仕方のない子ね。今はお父様とお話中なのに……」

 エレノアがそう言うとアニスが一瞬にして泣き出しそうな顔をする。

「まあ、そう言いなさんな。子供にとって母親は無条件に必要な物なんだから……」

 レイナートは愛娘を温かい目で見ながらそう言う。母の記憶のないレイナートにとって、子供が母親とともにいられるというのは幸福の象徴のように思えてならない。

 レイナートは帰国後、エレノアが乳母をもうけずに自分の乳で育てていると聞かされた時にそれを咎めるような事はせず、かえって喜んだくらいである。

「絶対にその方がいいと思う」と……。

 それはレイナート自身がそうだったと聞かされていたからかもしれない。もしそれすらもなく乳母の乳で育てられていたら、レイナート自身が母マリアスとの繋がりを一切感じることも出来なかったかもしれないだろう。

 だがアニスはレイナートのそのような思いを知ってか知らずか、レイナートと目が合うとプイと目をそらす。

「この娘は私に何か恨みでもあるのだろうか?」

 母の腕に抱かれキャッキャと笑う娘を見て、ついそんなぼやきの出るレイナートであった。

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