聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第1章

第12話 街へ……

 秋の気配が濃厚になった頃、イステラにおいて、否、大陸において史上初の紙幣が発行された。
 各国でも過去において手形や為替が用いられたことがないではない。だが通貨としての紙幣を流通させたのはイステラが初めてである。

 ただし国内全域に一度に流通させられる程の枚数が用意出来た訳ではないので、まずは王都のみでの使用に留まった。
 国から各貴族家へ支払う供出品への代金や各商会に支払う手数料がまず紙幣で支払われることになったのである。

 事前に国王レイナートの名で通達があったものの、初めて紙幣を手にした人々は一様に困惑した顔をしていた。
 この「紙幣」は「金」であるから通常の商いや買い物に使用出来るという当然のことが告知されていた。現代からすればなんともおかしな話ではあるが、この当時とすれば史上初めてお目にかかるものであるから、無理もないことかもしれない。人々にはどうにも信じられなかったのである。
 もっとも国から扶持をもらう貴族や各省の役人の内、財務省の官吏は自分らが直接もしくは間接的に関わっていたのでそこまでではなかったが、しばらくは混乱するであろうことは十分想像出来たのだった。


 この紙幣は豚皮で作った紙に焼き印を押して作ったものである。
 焼き印となる金型は、財務省造幣局の職人が作った、この当時としてはかなり細かい模様が入った精巧なものである。これをいくつも用意して昼夜を分かたず財務省の官吏が豚皮に押し、定められた大きさに裁断したのである。
 紙幣の偽造ということを考えていなかったからこのような方法を採ったのであり、現代から考えると、なんとまあのどかな時代であったことかと言わざるをえないだろう。
 この紙幣、表面にはイステラ語で金額と発行元であるイステラ王国財務省、さらに国王レイナートの名が、裏面には発行年月と、その後一年経てば額面の金貨もしくは銀貨と交換出来る旨が記されている。すなわち兌換紙幣であるということが明記されていたのである。

 イステラでは過去に紙幣を発行させた経験がないので、これを金本位制と呼んでいいものかどうかは現代の専門家の間でも意見が分かれているところである。どころか、中には「これは史上初の管理通貨制度である」と、レイナートの施策であるがあまり、それを一から十まで礼賛する学者までいる、というのが後の世の偽らざる姿である。

 もっとも金本位制、もしくは銀本位制であれば発行紙幣と同額の金貨・銀貨を財務省は確保せねばならないが、紙幣そのものがその不足を補うために発行されたのであるから国庫にそれに見合う金貨や銀貨などなかった。それにこれは労働力不足から鉱山での鉱石の採掘が間に合わず、金属貨幣の鋳造が出来ないことによる措置であって、ただ闇雲に作ってバラ撒いた、という訳ではない。そういう意味では管理通貨制の萌芽がそこにあったと言えなくもないかもしれない。
 また発行後一年間は金貨に交換出来ないのでは、兌換紙幣とは呼べないのではという考えも現在ではある。
 だがこの当時、貨幣鋳造が復活する見通しがつかず、国としてはそうせざるを得なかったのであって、後世の人間の思惑がなんであれ、とにかくそうするしかなかったということである。


 紙幣の種類は五種類。額面百、五百、千、五千、一万である。
 イステラでの通貨は十進法を採用し、通貨単位はイラ。一イラが小銅貨一枚、十イラが大銅貨一枚、百で小銀貨、千で大銀貨、万で小金貨、十万が大金貨となる。すなわち銀貨以上を紙幣としたのである。
 それは銅貨まで紙幣に置き換えると紙幣の種類が増え過ぎる。また位取りが十刻みのままでは不便であるが、イステラでは五万イラの中金貨とか、五千イラの中銀貨なるものの発行は検討されても実現はしなかった。そこで紙幣発行を機に二五進法を採用したのである。


 さて、紙幣の発行・流通が始まってより半月ほど経ったある日、レイナートはレックを連れて街へ視察に出た。紙幣の利用状況検分のためである。
 本来であればこういうことは家臣か暗部の者にでもさせれば済むことだがレイナートは自ら赴いた。一つには日々の執務に忙殺され王宮から一歩も外へ出ない生活になっていたので息抜き、というか気分転換がしたかったということ。もう一つには好奇心旺盛な性格の故で、なんとしても自分の目で見たかったからである。
 腰には特級鍛冶師グレマンより得た剣を提げている。エレノアに下げ渡したものである。破邪の剣は装飾が凝っていて目立つからで、服装も貴族の普段着、すなわち完全なお忍びの姿である。

 一の郭は西宮の門から出たレイナート主従。人目を避けるように二の郭の西大通りを歩いている。

 一の門は警戒が厳重であるし、ここにレイナートが、国王が姿を表したら大騒ぎになる。侍従達が吹っ飛んできてレイナートを諌めるだろう。「玉体に何かあったらどうするのか!?」と……。
 そうなれば女官長サイラにもこってり絞られるに違いない。それは是が非でも御免被りたい。その点、西宮から二の郭へ出る門は現在、基本的に通行不可になっている。西宮の建物が半壊したまま放置されているからである。


 イステラの王城・トニエスティエ城の一の郭に建つ王宮は四つの区画に分かれている。
 王と王妃の居所である北宮、皇太子の居所である東宮、政庁のある南殿、そうして離宮となっている西宮である。
 そうしてこの西宮は先王妃、すなわち王太后が存命の場合はその居所として利用される事が多いが、そうでない場合には迎賓館とされることになっていた。そうしてレイナートの養母でありこの西宮の主であった王太后セーリア陛下は先の大地震で失命されてしまった。それ故、西宮の再建は後回しにされていたのである。
 したがって通常であれば警備の近衛兵が周囲を固めているが、現在は二の郭との境の城壁と門の周辺に僅かな警備兵が配されているだけである。なのでレイナートが通過しようとしても大騒ぎになる可能性が低いと思われたのである。


「久々の外の空気はさすがに美味いな……」

 そう呟きながらレイナートは歩いている。一方、供を仰せつかったレックは内心ドキドキである。
 もしも誰かに見咎められたら? それを考えると気が重くなっていた。

―― まったくレイナート様は王様になっても、ちっとも変わんねぇんだから……。

 腰の軽いレイナートの後ろで、ついついボヤきたくなるレックである。

 もっとも供はレックだけ、という訳ではない。
 陰供が二人ついていた。否、正確には両手の指でも足りない程の人間が周囲にはいたのである。ただし表立った陰供 ― というと言い方は変だが ― はクレリオルだけ。残りはゴロッソ以下の暗部の者達である。

 さすがにいくらなんでも、レイナートも家臣らにも内緒で街へ出るということは出来ない。だが言えば必ず皆がついてきたがる。それでは御大層な御一行様になってしまう。第一、家臣らまで一斉に姿を消したらそれだけで王宮内が大騒ぎになる。
 そこで代表としてクレリオルが陰供をし、暗部が人知れずレイナートを守るということで他の者達を納得させたのである。
 もっとも最初から全員が納得した訳ではなかったが……。

「何だよ、オレは留守番かよ?」

 アロンがさも面白くなさそうに言う。

「こういう時はいつもクレリオルばかりじゃあねぇか!」

 レイナートが即位して国王となっても、アロンは言葉遣いを一向に改めるつもりはないようである。

「まあそう言うが、たしかに今回は王都内。クレリオルの方が勝手がわかっているというのはあるな」

 ギャヌースが言う。

 アロン、エネシエル、ギャヌースの三人は元々外国人。イステラに来たばかりの頃に比べればイステラ語にも慣れたし、王都内の勝手も大分わかるようにはなっている。だが元々王都生まれで爵士として王都で生活していたクレリオルの比ではない。

「どうせ陰供なんだし、どうですか、いっその事全員でというのは?」

 エネシエルはエネシエルでそんなことまで言い出す。

「おいおい、それはいくらなんでも無理だ。お前達全員が姿を消したら大騒ぎになるし、第一、各省との連絡が完全に滞ってしまうじゃないか!」

 レイナートが慌てる。

 王の七騎士と呼ばれるクレリオルらは多忙なレイナートの手足となって、国内を縦横無尽に駆け巡りもするし、王城内にあっては事務官として各省との窓口にもなっている。各省からの使者がいつもいつも直接レイナートを訪れてきたら、レイナートの方で対処しきれない。それ故レイナートに取り次ぐ前に、ある程度ふるいにかける役目を彼らは担っているのである。実際一から十まで全て国王の判断を仰ぐ必要があるのか、ということである。
 各省の役人や大臣にすれば、大事なことを独断で勝手に進めた、などと言われたら後々責任問題になりかねない。特に今の大臣達は年若く未経験な者が多いのでそう思うことが常である。したがってつい自分で責任を取ることに躊躇してしまうのである。
 だがそれではレイナートが溜まったものではない。それ故のことである。

「じゃあ、陛下がご自分で行かなけりゃいいんじゃないかね?」

 アロンが食い下がる。

「いや、それはそうだが……」

 それを言われるとレイナートの旗色が悪くなる。だが史上初めてのこと故、己の目で確かめたいレイナートであった。

「元々イステラは治安もいいし、陰供自体が……」

 と、今度はレイナートの方でそんなことを言い始める。
 だがこれには家臣らが猛反対した。

「何を馬鹿なことを! 陛下は国王。以前の一貴族と立場が違います!」

「そうです! それに今のイステラは以前と同じという訳ではありません!」

 これは家臣らの方が正しい。貴族と国王ではその生命の重みが違う。それは身分制度ということだけではなく責任の重さという点からもである。
 それに確かに以前のイステラは治安がよく、王都内の犯罪というものはあまりなかった。だが地震による被害で家族や家、職、さらには食料を失った人々は不安に駆られ、王都内は一時期騒然とした。
 今でこそ食料が無事に王都内に入ってくるようになったが、そうなるまでは王都内の雰囲気はかなり不穏だったのである。だが国軍兵士も衛士もいまだに直轄地の復興事業に派遣されており、王都内におけるその数は完全に元には戻っていない。したがって決して油断をしてはならない状況なのである。
 故に、十分な護衛を、という家臣らの気持ちは単に自分も行きたい、というだけのものではなかったのである。

 そういうことで結局、暗部がその陰供の任を担う事になったのである。となればレイナートが最もよく知る暗部の者、ゴロッソの出番である。
 しかしながら以前ゴロッソらはアガスタからクラムステンに行く途中に大失態を演じている。故にその人選には皆が眉をひそめた。
 だがそれでもレイナートはゴロッソに、と命じたのである。

「同じ失敗を二度と繰り返すなと命じてある。それに彼らもイステラの男……、いや、女かもしれないが……、まあそれはともかく……、とにかくむざむざとは失敗すまい」

 要するに汚名を返上させようということも兼ねてのレイナートの考えなのであった。


 こうしたやりとりを経てレイナートは街へ出たのである。
 ただしそうは言っても、基本は通行禁止の門を通ろうというのである。しかもいくら警備の近衛兵が少ないとはいえ無人ではない。故にこの時、西宮の門ではギャヌースが門兵を言い含めた。

「さるお方がここを通る。お前達はそれを妨げてはならぬ。どころか、何も見ず、何も聞かずを貫くように」

 だが言われた兵士は素直に首肯出来ない。
 何故なら近衛の兵士は全員が貴族もしくはその子弟である。平民からなる衛士などとは比べ物にならないほど誇り高い。したがって相手が貴族だろうが、王直属の騎士だろうが、納得しなければ絶対に首を縦には振らないのである。

「さるお方とは誰方のことか? この門は何人も通すなというのが国王陛下のお達しである。
 我らにその命を違えよなどと言うことは誰にも出来ぬ」

 門を守る近衛兵はそうギャヌースに言い放った。

 貴族身分にありながら門を守るという職務を全うするのである。それはその門の先が王宮であり、これを守るのは貴族にこそ相応しいという自負心から以外の何物でもない。
 だがギャヌースもそう言われると返す言葉がない。レイナートが街へ出るのはお忍び。なのでレイナートのことを明かすことは出来ないと考えるからである。

 しかしながら問題は至極あっさりと解決した。
レイナート自身が姿を見せ門兵に直接命じたからである。

「その方達の忠誠心、しかと受け取った。だがこれはどうしても私自身、しかも密かにしなければならぬことなのだ。だあらあえてここは通らせてくれ」

「陛下……」

 さすがに国王その人にそう言われては近衛兵もダメとは言えなくなった。

「ただ後々の事を考え、ここにギャヌースを残す。何か問題があれば全てギャヌースに任せよ」

「陛下!」

 今度はギャヌースが目を瞠る。

「心配ない。私はちゃんと無傷で帰ってくるから……。
 では頼むぞ」

 そう言い残してレイナートはそそくさと門を出たのであった。

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