演説と巡幸の後、御前会議で恩赦に対しての検討が進められた。事前の会議で恩赦が行われることは決定された。だが具体的な内容の調整に手間取り、レイナートの演説においては詳細を発表するまでには至らなかったのである。
王の代替わりの時に恩赦が行われるのは取り立てて珍しいことではない。だが恩赦と一口に言うが、その範囲をどこまで適用するかには慎重な検討を要する。
何年前まで遡るのか、どの懲罰までを対象とするのか? さらにその対象を貴族・領主によって処断された者にまで適用するのか? だがそうすると貴族の治外法権を侵すことになる。そこまでするのか? 特に奴隷の場合は判断が難しい。国の決定で奴隷とされた者が貴族に買い取られたということもある。それらにも適用するとなると貴族の反発は必至である。
第一、一律に全てを赦免の対象とすると極端な話、まず国の奴隷が存在しなくなるということが考えられる。王都のみならず直轄地における汚物処理、さらに鉱山など劣悪な環境での重労働も奴隷の仕事である。すなわち、いわゆる「きつい、危険、汚い」仕事の一切は奴隷に押し付けられているということであり、これは貴族領においても同様である。なので奴隷がいなくなったら誰がこれをするのか? という深刻な問題に直面することになるのである。
また今から二十数年前、アレンデルが即位した時にも恩赦が適用されない、すなわち赦免とならなかった者もいるのである。これらの者をどうするのか? 含めるか? 含めないのか?
それらの点について詳細な検討を加えながら内容を決定するということが必要なのである。
街で紙幣の使用状況と奴隷の視察の後、レイナートはしばらく一人で何か、もの思いに耽っていた。だが突然クレリオルを呼び出し尋ねたのである。
「そういえばあの、アレモネル事件で処罰された者の内、未だ存命の者達はどうなっているのだろうか?」
それに対しクレリオルが答えた。
「労役や重課金が命じられているはずですが?」
「ではそれらの者達の現況も調査してくれ」
「はい……」
アレモネル商会事件の公式処分は、首謀者のアレモネル商会会頭グラン・エッペルとその全親族・姻族は死刑。元のリンデンマルス公爵家家宰ジョイノル伯爵の七親等内血族及び四親等内姻族全ての奴隷身分への降格。
そうしてドリニッチ子爵家の七親等内血族である当主及び四親等内姻族となる当主全てに、王国直轄領での鉱山開発に領民人口二十分の一の労役と納付する全人頭税の二十五分の一相当の科料を課す、というものであった。
それ以外にも商会に勤める者とその家族が全て死刑になっているし、ドリニッチ子爵家の生き残った家臣は全員平民に落とされ、領民らとともにリンデンマルス公爵家への移住を余儀なくされている。
それはすなわち近年稀に見るほど多くの者が処分された大事件であったということである。
御前会議の開催の前にレイナートはクレリオルと再度相談した。事前に参謀たるクレリオルと相談なしに会議に臨むとというのは今のレイナートには考えられないことであった。
そうして恩赦について話し合ったのである。
「陛下、彼らにまで恩赦を与えるのですか? それに労役を免除すると直轄地での鉱石の産出がさらに減りますが……」
クレリオルが確認する。
「それはそうかもしれん。だがそれはそれ、これはこれだ」
レイナートはキッパリと言う。
「ですが……」
「まだ何か言いたいことがあるのか?」
「本当によろしいのですか?」
「どういうことだ?」
「アレモネル商会事件ではアニスを始め陛下に多大な損害とご不興をもたらしました。それでもあえて……」
「わかっている。だがあの事件の者にだけ恩赦を与えないというのは不公平だろう?」
王の代替わりに恩赦が行われるのは確かに珍しいことではない。だが今回の場合、自分に直接・間接を問わず関わった者達である。しかもそれは決して少なくない被害をレイナートに与えたのである。にも関わらず恩赦を行おうというレイナートの度量の大きさというか寛容さに、クレリオルは改めて目を瞠ったのであった。
イステラにおける刑罰法の中で最も重いものは死刑である。これはその罪の軽重によって本人一人で済むこともあれば、家族を巻き込むもの、更には親族や姻族の全てを巻き込むものまである。いわゆる尊属殺人、侮辱罪、不敬罪がこれに相当する。そうしてそれはこの時代のどの国においてもほぼ同じである。
次いで重いのが市民籍の剥奪、すなわち奴隷身分に落とされるというものである。イステラの場合これは税金の滞納、公金の横領、尊属以外の殺人を犯した者に、さらに意味合いは違うが戦争捕虜にも適用される。
それより軽い刑罰では鞭打ち、強制労働、罰金などの科料がある。
例えばアレルトメイアでは窃盗の場合、両腕を切り落とす ― レイナートの剣を狙ったネイリがそうされそうになった ― というのがあるがイステラにはそういう刑罰はない。
そうして現在、イステラにおいて犯罪もしくは何らかの事件の関係者として懲罰処分を受けている者はおよそ千名に上る。その大半は市民籍の剥奪、すなわち奴隷とされたというものであり、それ以外は奴隷とまでは至らぬ身分の降格、強制労働もしくは科料などである。
この場合の科料とは一時的な罰金ではなく、数年に亘って継続的に課されているものである。
レイナートにすればこれらの刑罰の対象となった者全てを一律に放免にしたかった。だが御前会議においては強硬な反対意見が多かった。否、それのみだったと言っていいだろう。そのような状況であった。
それ故まず確認されたことは、アレンデルの即位後からレイナートの即位までの懲罰のみが対象ということである。ついで赦免される懲罰であるが、奴隷を除く、ということに決定された。
だが当初これにはレイナートが反対した。
奴隷制度の廃止にはクレリオルとエレノアに反対され断念せざるを得なかったレイナートである。だが恩赦であれば制度そのものを変えることなく奴隷を解放出来る。その思いから奴隷に対しても恩赦の適用をレイナートは訴えた。
例えばかつてレイナートが父王から賜った奴隷百人。レイナートはなんとかこの者達を平民に戻そうと努力していた。その意を汲んだ家臣らも、レイナートがレリエルに向かっている時に数名の奴隷を市民に戻している。
だがそれでも未だ八十名に上る奴隷が残っている。これらを市民に戻す金がリンデンマルス公爵家にはない。だが恩赦が適用されればそれが一気に解決する。
レイナートはそういうこともあって奴隷にも恩赦を与えたかったのである。
だがそれは重臣一同の反対で却下されたのである。
「そうは仰いますが陛下、では王都の汚物処理は誰にさせるのですか?」
宰相兼内務卿のシュラーヴィ侯爵がレイナートに尋ねる。
内務省は貴族や平民の血統の把握・管理だけでなく、直轄地の様々のことに関わる役所でその職掌範囲は広い。そこには奴隷の管理・監督も含まれている。
そうして奴隷がいなくなり、汚物処理が出来なくなれば、それは重大な問題を引き起こしかねないのは目に見えていると言うのである。
「それについては人を雇い……」
「ありえません! 誰が好き好んで他人の汚物を片付けようなどと思うものですか!
さらに、それを奴隷以外の誰かにやらせようとなれば、それなりの、いやかなりの報酬が必要です」
レイナートの言葉を遮り財務大臣が声高に訴えた。
「今の国庫にそんな金はありませんぞ!」
「それは……」
レイナートが口ごもる。
この大陸において王権神授説を唱える国は少ないが、レリエルを除く各国では絶対王政が敷かれている。したがって王の口から出る言葉は全て実現されるべしということが前提にある。そのために行政を司どる各省があり各大臣以下行政官が存在するというのが各国において共通している。
レイナートは国王であるが強権をふるって我が意を通すということを好まない。また誰に対しても己の意見を遠慮することなく開陳せよと告げてある。それ故大臣達はレイナートに対して自由に意見具申することが許されている。
「陛下、お気持はわかりますが……」
クレリオルが申し訳無さそうに言う。
事前の打ち合わせでも反対せざるを得なかったがここでも反対しか出来なかった。それ以前にもレイナートから奴隷制度廃止を諮られたクレリオルである。本当にレイナートの思うところは理解しているつもりである。
だが今回もやはり反対せざるを得ないクレリオルであった。
「陛下、今のイステラの社会は奴隷がいることを前提に成り立っているのです。それを……」
「わかっている!」
レイナートは吐き捨てるように言った。そうして己の無力に唇を噛みしめる。
一方で各大臣はレイナートの考えがわからない。何故、奴隷を許そうというのか? 奴隷は欠くべからず、使役してこその存在。それを解放してどうするというのだ?
身分制度ということが骨の髄まで染みこんでいる貴族にとって、奴隷など家畜と同様の存在であり居て当たり前である。
それは平民にとっても同じこと。自分達は虐げられている。だがその自分達よりもさらに下層の人間が存在する。その優越感が身分制度を支えていると言っても過言ではない。
したがってレイナートの考えはそれを根底から崩すことにつながりかねないのである。
故に社会の機構、仕組みを根底から変えることがない限り、奴隷に対する恩赦はもちろん、奴隷制度の廃止などは痴人の夢に過ぎないということである。
結局、恩赦の対象となったのは鞭打ち刑、強制労働、科料のみとなった。レイナートが最終的に譲歩したのである。否、せざるを得なかった。今それを強行すれば社会の混乱は一層酷くなる。王としてはそれは絶対に避けねばならないことであった。
もっとも鞭打ち刑など、刑罰はなかったことに出来ても鞭で打たれたという事実はなくならない。そういう意味では現在も強制労働させられている者、科料を命じられている者に対する恩赦ということも言える。
だがそれによっておよそ百数十人の貴族・平民が解放されることとなったのである。そうしてそこにはアレモネル商会事件で処罰された者も含まれていたのであった。
レイナートにとって誰にも代え難かったアニスを奪ったアレモネル商会事件。それ以外にも多くの人が連座して生命を、財産を失った忌まわしい出来事である。それはレイナートにとって許しがたき所業であったのは確かである。それでも恩赦が行われることが決定され施行されたのである。
即位演説後しばらくして国王レイナートの名で恩赦が発表された。それはやはり一部の者にのみ限られたが、それでもそれによって課されていた処分が全て消滅し元の状態に復帰することになったのである。
だがレイナートには深い失望しか感じられなかった。
―― 私は無力だ……。
制度の廃止が無理ならせめて恩赦によって奴隷を解放したい。そう思ったのに結果はどうか。
―― どうすれば、奴隷制度をなくせるのだろうか?
忙しい執務の合間にもレイナートはそれを考え続けた。だがこれといった回答は得られなかった。
そこでレイナートはシュルムンド、グレリオナスの兄弟を王宮に呼び出し相談した。表向きは今後設置が発表された教育省に関する打ち合わせで、そのついでと言うと何だがそこで口にしたのである。
家臣の中でもアロンやエネシエル、ギャヌースは根っからの貴族で奴隷については当り前のこととして半ば容認しているところがある。彼らに諮っても結局はクレリオルのように反対されるだけだろうと考えたからである。
「奴隷制度はもちろん身分制度です。身分に貴賎があるということが前提にあります」
シュルムンドはレイナートの相談に半ば唖然としながらも答えた。
シュルムンドもグレリオナスも優秀な教育者ではあるがやはり貴族である。奴隷という存在に関しては他の貴族と同様の考え方しか持っていない。したがって全ての奴隷を解放したいというレイナートの考えには、領地で実際に見てはいてもやはり驚きを隠せない。
「それは同時に『職業』もしくは『仕事』にも貴賎があるということです」
「職業にも?」
「ええ。……いいえ、職業に貴賎があるから身分にも貴賎があると言う方が正しいかもしれませんが……。
誰もが嫌がる仕事をさせるために奴隷は存在する。そうではありませんか?」
「確かにそう言えるかもしれないな」
強者が、己のしたくないことを弱者にやらせる。それが身分制度の発端とは必ずしも言えないだろうがそれも背景にあるのではないか。そう言われているのであり、それはレイナートにも十分納得出来ることである。
「それは長い歴史の中でそうされてきたことですから、人々の意識の中に『そういうものだ』と刷り込まれています。これを変えようというのは至難の業です」
「やはりそうか……」
レイナートが肩を落とす。
そのうちひしがれた姿にグレリオナスが言う。
「申し訳ないことだとは思いますが、兄の申す通りです。これは教育をもってしても難しいことでしょう」
「教育でもダメか?」
レイナートがさらに悄然とする。
「過去の歴史から見て、おそらくは長い時間をかけつつ、しかも社会の構造そのもの、すなわち、奴隷を必要としないというように社会の仕組みそのものを変えなければその実現は難しいのではないでしょうか?」
そう言ったシュルムンドの言葉は追い打ちをかけっるようにも聞こえる。だがレイナートがふと顔を上げた。
「時間をかければなんとかなるか?」
そう問われてシュルムンドは一瞬口ごもる。しかしゆっくりと口を開いた。
「それはなんとも言えませんが、職業、仕事に貴賎はない、ということを地道に教えていくことは肝要でしょう」
「それしかないのか……」
レイナートはやはり落胆している。
そこでシュルムンドがレイナートの顔を見据えて聞いた。
「陛下……、いえレイナート様。
レイナート様は身分制度そのものを廃止することも眼中において、奴隷制度の廃止をお考えですか?」
「……」
これにはレイナートも直ぐには返事出来ない。
人払いをしているから今この場にはレイナート、シュルムンド、グレリオナスの三人しかいない。だがこれが万が一他に漏れれば貴族達の猛反発を受け追い落としを掛けられてしまうだろう。
だがシュルムンドは重ねて聞いた。
「レイナート様。
それが今直ぐのことではないにしても、もしそこまで考えてのことであれば国民に対する教育方針も自ずと変わってきます。だから重ねてお尋ねします。
身分制度の廃止も視野に入っておられますか?」
両者の視線が交差する。
レイナートはシュルムンドの目を見返しながらはっきり答えた。
「今は『まだ』そこまでは考えていない」
「さようですか。わかりました。ありがとうございます」
シュルムンドは微かな笑みを浮かべながらそう答えたのである。
レイナートはこの時はまだ一国の王となったばかりである。したがって何もかもが己の思い通りに出来る訳ではないし、そのことも十分承知している。
したがってこの時はそう答えるに留まらざるを得なかったのである。
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