女王を認める他国の場合はさておき、イステラにおいては国王となれるのは男のみである。そうして王統維持のため国王は必ず王妃を迎えることとされている。
そうして人というものは老いと病と死とは無縁ではいられない存在である。否、健康が取り柄で風邪もひかない、という人物はいるが老いと死と無関係の人間は存在し得ない。
したがって国王も必ずいずれは死ぬ。王妃も死ぬ。だがそこに順序は存在する。王妃が先の時もあれば国王が先の時もある。王妃が先の場合、残された国王が新たな王妃を迎えることもあるしそうでないこともある。年齢や諸状況、本人の意志など理由は千差万別である。
そうして国王が先に死んだ場合、やはり残された王妃は新たな夫に嫁す事もあればそうでない時もある。ただし再婚の時の相手は必ず死んだ夫の弟すなわち王弟である。それ以外はありえない。例えば王に弟も王子もない場合には五大公家から養子が迎えられ新たな王となる。その際新国王と未亡人となった前王妃の婚姻は行われない。そのように定められている。
一方未亡人を通すならその場合は王太后という地位になる。ただしそれを決定するのは王妃本人の意志ではない。新たな王となる人物と五大公家を中心とする重臣達によって決定されるのであり、その決定を王妃は拒否出来ない。理不尽であろうが何であろうがイステラではそのように定められ、将来王妃となる可能性のある五大公家の姫はそのように育てられる。
それがイステラという国である。
したがって先々代ガラヴァリ陛下の崩御の際に、残された王妃セーリアには王弟のアレンデルとの再婚という可能性もないではなかった。だがアレンデルがそれを拒否し、エオリアン大公家からエーレネ姫を迎え王妃とした。
そうして行方不明となったアレンデルの死が正式に決定された時、エーレネには王太后の道しか残されていなかった。
イステラの国法でそう定められていたからである。
だがもしイステラが、現状以上に血統を重んじ王統の維持を最優先する国であった場合には別の可能性も存在し得た。それはレイナートとエーレネの結婚である。
例えば新国王となったレイナートと未亡人となった義母エーレネとの間には血縁がない。否、厳密には王家と五大公家は複雑な姻戚関係にあるから全くない訳ではないが、レイナートの母親の故にそれはかなり「薄い」ものである。したがってこの二人を夫婦にするというものである。
もっともこの二人の場合、夫の私生児とその義母という関係である。それはたとえ血のつながりがなくとも人倫にもとるとされてもおかしくはない。だがこの時代は実の叔母と甥、叔父と姪の結婚がおかしいとはされない、血の濃さというものを重んじていたのである。したがってこれがイステラでなければ十分に起こり得たことでもあった。
そういう点からすると、王族の結婚というものには空恐ろしさを感じることを禁じ得ない。
ところで朝早くに突然その王太后エーレネの来訪を告げられたレイナートは狼狽した。
―― 何故突然? ええと、どうすればいいんだ!?
通常、国王へ拝謁を願う場合には事前に侍従を通してお伺いを立てる。そうして許可を得てからというのが定められた順序である。したがっていきなり訪ねるという不躾な真似をすることは許されない。ただし訪れる側が大臣や国軍司令官といった国の要職にある場合であれば、それは政治向きの話ということで手続きはかなり簡略されることもある。
だが王太后の場合は全く話は別である。
王太后はかつての王妃。現国王とその家族に次いで高い身分を有しているとされる。だが現実には国王と同格もしくはそれ以上とされることもないではない。それは「君に忠、親に孝」または「長幼の序」という点からである。
王太后とは先君の妻。したがって大抵の場合は現国王の母もしくは嫂である。したがって現国王よりも上の存在、という見方が出来るのである。それ故いきなり何の前触れもなく国王を訪れてもおかしくはない。ただしやはり国王が国の頂点という観点からすれば、順序を乱す軽率な行為とされるから、通常は避けられることである。
イステラでは女性は表向きの政治には口を出さないというのが原則としてある。だからと言って王妃が公式の場に姿を全く表さないかといえばそういうことはない。例えば外国勅使との引見や国賓を歓迎する宴などには王妃も国王と共に列席する。したがって謁見の間や宴の会場となる大広間には顔を出せるということである。
だが王妃には国王執務室や御前会議の場となる合議の間への入室は原則として認められていない。全く出来ない訳ではないが好ましくないとされているのである。
この事はイステラという国が身分制度を有し、年令による礼節を重んじ、男女の性別を重要視することから起きる、ある意味での不徹底なのであり、時と所と状況に応じて柔軟な対応がなされているのである。
そうして今レイナートがいるのはその国王執務室である。したがってここに王太后を迎えることは避けるべきだろう。
―― どこにする? 隣の居間か、それともいっそ北宮か?
レイナートはめまぐるしく頭を回転させている。執務室内の近衛兵や侍従らもどうしていいのかわからずアタフタしている。
「いかがしますか陛下? とりあえず隣室に……」
クレリオルも焦りながらそう言った。
「ああ、多分それしか……」
レイナートがそう言ったところで執務室と居間を繋ぐ扉が勢い良く開いた。
「王太后陛下の御成りにございます」
女官長サイラが眼尻をヒクつかせながら言ったのである。
―― ええい、情けない! たかが女が一人訪ねてきたくらいで!
そう言っているかのような表情であった。
「そ、そうか……。今、参る」
レイナートはそう言って歩き出し、腰に剣を提げていないことに気づいて戻る。あたふたと剣を提げ、わずかばかり服装を直して居間へと入った。
するともう既に王太后エーレネが女官を従えて姿を表していたのである。
慌てているレイナートに、エーレネはスカートの中程をつまみ上げると優雅に腰を屈め頭を下げた。背後の女官も同様である。
「国王陛下に於かれましては、わたくしの急な不躾な訪問にも快く応じていただき恐悦至極に存じます」
そこでレイナートはようやく落ち着きを取り戻した。王太后陛下に正式な挨拶をされたのである。国王たる自分がいつまでも慌てふためいていたら恥ずかしいことこの上ない。
「いいえ、ようこそお出で下さいました、王太后陛下」
レイナートは胸に手を当て腰を引き、背筋を伸ばしたまま身体をくの字に曲げて頭を下げた。
そこで両者身体を起こす。そうして王太后の背後の、女官と思っていた女性を改めて見てレイナートは驚いた。
「よ、ようこそ、クローデラ姫」
フラコシアス公爵家息女のクローデラ姫であった。
クローデラは静かな笑みを湛え無言のまま再び頭を軽く下げた。
「どうぞお掛け下さい」
レイナートは二人に椅子を勧めた。エーレネは二人掛けの長椅子に、クローデラは一人用にと腰を下ろす。
レイナートはエーレネに相対する位置の国王の専用席に腰掛けた。その背後にクレリオルが静かに立つ。
「サイ……、女官長、二人にお茶を……」
レイナートがサイラに命ずる。
執務室の隣の居間は国王の公的な部屋でも私室でもある。したがって女官が給仕をしても咎められることはない。
「どうぞお構いなく……」
エーレネが静かに言う。
少々ドタバタとした始まりだがここまではいわば形式的な遣り取り。ここからが本題である。
「ところで急なご来賀、何かございましたか?」
レイナートは随分と謙った口調である。
昨日の今日であるから、今度は王太后から難しい要求かとレイナートはたじろいでいた。急な訪問であるから何か緊急もしくは重大なこととであるのは想像がつく。だがまさかドリアン大公やシュラーヴィ侯爵のような解任の要請ではあるまいとは思う。「王太后」は職ではなく「地位」であり、死ぬまで失われることのないものであるから任を解くなどということは出来ないのである。
レイナートに問われエーレネはそれまでとは打って変わって疲れたような表情で言ったのである。
「実は……、大変厚かましいお願いなのですが、城内の塔を一つ、使用する許可をいただきたく……」
「塔を、ですか……。それはまたどういう理由でしょうか?」
レイナートの表情が曇る。塔を使用する、ということはまさか……。
「それは、アレグザンドとともに移り住もうと考えておりまして……」
レイナートの最悪の想像は的中してしまったのである。
城における塔の意義、それは物見、貯蔵、そうして監禁である。
高い塔は見晴らしが良い。遠くまで見通せるから敵の接近を知るには最適の場所である。その故に高さが重要であるから、建造物としてはかなり強固な作りである。すなわちちょっとのことでは崩れないように巨岩を積み上げて建てるのである。それは同時に貯蔵庫としての役割を果たし得る。簡単には破られることがないからである。
万が一城内に敵の侵入を許しそうになれば塔の上部へ避難する。援軍を待つ間籠城するのである。したがって塔の上部は居住出来る空間が設けられており、下部は籠城に必要な物資の保管庫として利用されているのである。
これは言葉を返せば塔は簡単に出入り出来ない建造物だということであり、それは牢獄としての役割を果たすことも出来るということである。
劣悪な環境の城の地下牢は重犯罪人を留め置くのが一般的で、塔の場合は特に貴族身分の者を幽閉するのに用いられるのである。
したがって「塔に移り住む」というのは自ら入牢するようなものである。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
レイナートはそう尋ねたが、それは半ば答えを予測した問である。
二人の父アレンデルがビューデトニアへと向かう途中レギーネ川の渡河中に大地震が発生し、アレンデルは周囲を固める多数貴族の当主や子弟とともに川に投げ出され濁流に飲み込まれた。結局アレンデルはその後見つからず、レイナート捜索を断念した国軍第三軍司令官シュピトゥルス男爵によってその報がイステラにもたらされたのであった。
その巨大地震は人々の度肝を抜き多くの被害を与えた。それは建造物のみならず人命にもである。
当時皇太子だったアレグザンドは父の留守を預かる身として指揮に当たっていた。だがこの心優しすぎる青年の精神はじつはギリギリであった。そうして父王の行方不明、おそらく生還は期し難しの報に、ついに精神の均衡を失ってしまったのであった。己を七歳と言い、幼い言動を繰り返したのである。
医師の判断では幼児退行であり、回復するか否かは不明ということであった。
そうしてそれはレイナートの帰還によっても改善されなかった。どころかこの一年でさらに悪化し最早三歳児が如くとなってしまっていたのである。
おとなしく玩具で遊んでいたかと思うと、突然感情を昂らせ周囲に当たり散らす。訳の分からない、道理の通らないことを言いそれを押し通そうとする。
これが本当に幼児であればまだ何とかしようもあるがアレグザンドは二十歳を越え、しかもイステラの男であるから当然剣技の修練もしている。したがって近衛兵数人掛かりでも取り押さえることが出来ない。廃太子されたとはいえ王族であることに変わりはない。どうしても遠慮が出てしまうのである。
最近では気に入らない相手であれば男女を問わずに手を上げる。さすがに女性にまで襲い掛かり乱暴しようとはしないが、このままではそれも時間の問題のように思えた。
したがって東宮内では刀剣の類はもちろん厨房で使う包丁や小刀でさえ鍵の掛かる所に厳重に保管されており、許可無くそれを取り出すことさえ禁じられている。また身の回りの世話をする女官の数もギリギリまで減らされているのであった。
エーレネからそう聞かされたレイナートは唇を噛みしめる。
―― 私のせいだ……。
ビューデトニアでライトネル王子と刃を交えなければこのような事態は起きなかっただろう。そう考えると身の置き場が無いように感じられるレイナートであった。
―― 私を慕ってくれていたのに……。
レイナートは思わず椅子に立てかけた破邪の剣を見つめた。
―― 破邪の力が失われていなければ、あるいは……。
失われたネイリの腕を取り戻し、全身を覆うモーナの痣を跡形もなく消し去った威力。それがもし残っていたなら、アレグザンドの心を元に戻すことも出来たかもしれない。そう思われてならない。
―― そうであれば、私の即位もなかったろう。だがそれでも良かったのは確かだ……。
アレグザンドが己を取り戻し即位したなら喜んでその臣下、リンデンマルス公爵として膝をつき頭を垂れよう。そう考えるレイナートの気持ちには一点の嘘偽りはなかった。
―― 領主として領民のために心を砕く。それだって十分に充実した日々であった……。
国王であってもそれは何ら変わるところはないことだろう。だが現実は執務室に閉じこもり書類の山と格闘する日々である。
一方で領内を巡り直接領民と触れ合い、その生活の向上のために尽力した日々の方がどれほど心躍ったことか。それからすると臣下として弟に頭を下げることなどなんでもない。
レイナートはかつてディステニア国王スピルレアモスの語った言葉を思い出した。
―― 王というものはなってみて初めて分かることだが、誰かが代わってくれるなら直ぐにでもその座を明け渡し一貴族に収まりたい。そう思えるほど責任が大きい。目の色を変えて玉座を狙うなど、今にして思えば愚の骨頂だな……。
その言葉には大いに賛同する。
だがレイナートは何も責任逃れをしたいのではない。どころかその責任を果たすため日や奮闘しているのである。
レイナートがもの思いに耽ってしまったのをエーレネは黙って見つめていた。
レイナートは我に返り頭を下げた。
「申し訳ございません。お話の途中で……」
「いいえ、それは構いませぬが……。
して、いかがでしょうか、陛下?」
エーレネは努めて柔らかな表情みせつつそう言った。
エーレネがアレグザンドを産んだのは十七歳の時。したがっていまだ四十歳前である。だが疲れと苦悩に満ちた顔は十歳も二十歳も老けて見えたのである。
―― お美しい方であったのに……。
レイナートの養母、先の王太后セーリアは清楚で可憐な花の美しさに、エーレネは色鮮やかな大輪の花の美しさに喩えられていた。だがそれも今では見る影もない。
「それはお好きに使っていただいて構いませんが、本当にそれでよろしいのでしょうか?」
「ええ、構いません!」
レイナートの言葉に突然エーレネの表情が明るくなり、まるで若返ったかのように活き活きし始めた。
―― えっ? どういうことだ!?
母子二人での、塔でのいわば幽閉生活が本心での願いであったというのだろうか? レイナートにはエーレネの表情の変化が理解出来なかった。
だがこれはレイナートの想像通りであったのである。そうしてエーレネの精神もこの時既に一部が壊れていたのである。
アレンデルはエーレネを女としては見ていなかった。いや、この言い方は正確ではない。それは「人としての女」ではなく「道具としての女」と見ていたということである。
アレンデルに嫁いだ十六歳の少女は初夜に出鼻を挫かれた。いや、そんな生易しい表現では済まない。まさに人としての自分を否定されたのである。
もしこれが並みの女であったなら、アレンデルに対する恨み、マリアスに対する嫉妬、そうしてレイナートに対する憎しみに我を忘れ周囲に当たり散らしただろう。だが五大公家の姫としての矜持がそれを許さなかった。「そんなみっともない真似は出来ない」と。
そうして迎えた妊娠・出産。生まれてきたアレグザンドこそが生き甲斐であり人生の全てとなってしまったのである。
やがてアレグザンドは成長し元服して立太子した。その誇らしさは筆舌に尽くし難かった。
だがそこで寂しさをも覚えたのである。
―― 我が子と常に共にいることが出来ない……。
アレグザンドが東宮に移ってからは日に日にその思いがエーレネを蝕んでいった。アレグザンドが元服してからもアレンデルの態度は変わらなかったしそれはもうどうでも良かった。ただ我が子と一緒にいたい。そのことだけを考えるようになっていたのである。
そうしてアレグザンドは当時の外務大臣の娘、フラコシアス公爵の孫娘と婚約した。
―― 大事な我が子を他の女に取られる! 取られてしまう!
だがそれでもエーレネはクローデラに辛く当たったりはしなかった。それはその婚約が完全にただ周囲を安心させるためだけのものであったからである。
本来であればイステラ王家は五大公家から后を迎える。ところが一度は后に内定したイオニアン大公家のメリューヌ姫当時十歳は、線が細くあまり健康と言えなかった。しかも、愚鈍ではないが会話中言葉が遅れたり少し吃音があったのである。それ故クローデラが皇太子妃に選ばれ、婚約の儀が行われ国の内外に知らされたのであった。
だがアレンデルはその挙式を急がせなかった。安定した王統の継続という観点からすれば皇太子の結婚を急がない理由はない。事実重臣らはアレンデルを急かしたがアレンデルはどこ吹く風。全く応じなかったのである。
そこには様々な憶測が飛び交った。
―― やはり五大公家の姫が相応しいということなのだろうか? だからその成長を待っているのだろうか?
だがメリューヌ姫の次となるとその八歳も年下である。アレグザンドとは実に十一歳も差がある。その姫が適齢期を迎える頃までアレグザンドを待たせるというのは考えにくかった。
―― では外国の王女をお考えなのだろうか?
これはこれでありそうだった。
何せ庶子のくせに貴族となったアレグザンドの兄レイナートには外国王公女との結婚話が引きも切らなかった。ただでさえ古イシュテリアの聖剣を持つ人物である。これに外国王家が後ろ盾となったら王国にとっても王家にとってもかなり厄介な人物である。
それからするとアレグザンドに外国の王女を、というのはあながち穿った考えでもなかろう。
だがアレンデルはそれをも一笑に付した。
―― 陛下のお考えが一向にわからん……。
重臣らは首を捻ったのである。
だがこの時のアレンデルの本心はただひとつ。皆が「皇太子の次の世継ぎを早く」と急かしたからに過ぎない。
―― 第一、エーレネからアレグザンドを取り上げたら、あの女は絶対に狂うに違いない。それは必ずレイナートに仇なすに決まっている。そんな真似が出来るか!
要するにクローデラは重臣らを安心させるために単に利用されただけなのであった。
もちろんアレグザンドも我が子。可愛くない訳ではない。だがアレンデルがレイナートに掛ける思いとアレグザンドに対するそれとはその比重があまりにも違っていた。
それはすなわちアレンデル自身も古イシュテリアの聖剣の故に狂っていたということである。
レイナートが生まれたこと。そうして古イシュテリアの聖剣「破邪」を手にしたこと。
実はこの時からイステラという国は少しずつ「壊れて」いたのである。
それは奇しくもレイナートが砂漠で出会った魔導師の言葉そのものである。
「二つの血を併せ持つ者が現れ、その剣を手にした時、世は乱れ破壊が始まると言われておる」
もしレイナートがそれらの真相を知れば、今度はレイナート自身が「壊れて」しまったかもしれない。事はそれほど重大であったのであった。
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