「それでは、わたくしはこれで失礼させていただきます。お手間を取らせ申し訳ございませんでした、陛下」
現れた時とは打って変わって晴れ晴れとした顔で国王執務室を去った王太后エーレネである。残されたレイナートは狐につままれたような顔をしていた。
―― 一体全体、どういうことなのだろうか?
アレグザンドと共に塔に移り住む。それはいわば自ら己と我が子を幽閉することである。それが母親として望むことなのか?
確かに塔に押し込めてしまえば余人に迷惑を掛けることは減るだろう。だが本来王族というものは我が身の振る舞いが他人にどう影響を与えるかなど、あまりそういうことを気にしないという一面がある。
―― 親子水入らずの生活をしたいということであれば、それはまあ間違いないのだろうが、だが「塔」だぞ?
どうにもエーレネの考えがわからないレイナートである。
エーレネにしてみれば、もう他の雑事に煩わされたくない、ただひたすら我が子とだけ過ごしたいということである。それは見方を変えれば、自分とアレグザンド以外のことはどうでもいいという、至極身勝手な考え方でもある。
この時のエーレネには、王妃として「国のため、臣下のため、国民のため」という結婚前の決意などは全く姿を消していたのであった。
また、わからないといえばこの場に残ったクローデラもである。王太后と一緒に来たのだから一緒に帰るかと思いきや、そのまま行儀よく椅子に腰掛けているのだが、気になるのは王太后の残したセリフである。
「しっかりね、クローデラ姫……」
それは「しっかりやれ」ということなのだろうが、何をしっかりと言うのだろうか?
「あの……」
レイナートがクローデラに声を掛ける。するとクローデラは真剣な面持ちで言ったのである。
「陛下、お願いがございます。
わたくしを陛下の女官として、お側で仕えることをお許し下さい」
「ええっ!?」
「それは、いくらなんでも無理……」
レイナートとクレリオルが同時に驚きの声を上げた。公爵家の令嬢が女官をするなどありえないだろうという思いからである。
だがクローデラはその美しい顔に、これでもかという厳しいものを湛えながらクレリオルを一瞥した。
―― 貴方に文句は言わせないわ。
そう言わんばかりであり、その鋭い目つきにクレリオルは言葉が接げなかった。
王室参謀長という要職をレイナートから拝命したクレリオル。本来であれば王族にのみ許されたこの職をクレリオルが拝命することには周囲からの抵抗が少なからずあった。それは従来からの規則とは違うというのである。
重臣らも元々レイナートを見知っていたが、日頃領地に引っ込んでばかりでちっとも社交の場に姿を表さなかったレイナートと深い付き合いがあった訳ではない。それに大臣を拝命してからは自分の仕事で手一杯であったし、レイナートの参謀、相談役が務まるなどという考えははなから頭になかった。なので誰かはその役目を果たさなければならないだろうとは考えた。そこへレイナートがクレリオルの名を挙げたのである。
重臣達は当初クレリオルには反対であったが、その理由をクレリオルが庶子であるということに求めることは出来なかった。それは自分達が新たな君主として戴く人物も同様の出自であったからである。そこを否定したら新王をも否定することになるからである。かと言って他に適当な人物も思いつかない。
ただ救いだったのはクレリオルが名門エテンセル公爵家の血に連なる者だったことである。
イステラにおいて数少ない公爵家の一つ、武門の誉れ高きエテンセル公爵家。これを後ろ盾に持っていたからこそ重臣達は最終的には口をつぐんだのであった。
もっともクレリオルは自分の父がエテンセル公爵であるなどと吹聴して回った訳ではない。ではどうしてそれが世人の知るところとなったかといえば、クラムステンでのレイナート行方不明事件がきっかけである。
アガスタからクラムステンへ向かう途中川へ転落し行方不明となったレイナート。クレリオルの必死の捜索も虚しくレイナートを見つけることは出来なかった。失意のまま帰国したクレリオルを待っていたのは実家預けという処分である。
貴族が何らかの罪を犯し処断される場合、死罪に次いで重い処分は改易 ― 身分剥奪・領地没収である。以下、降格、減封 ― 領地の一部没収、実家預け、蟄居・謹慎と続く。
したがって実家預けというクレリオルの処分はさして重くないものに見えなくもないが、貴族として不名誉であることはもちろんであり、世に出る上では汚点となるのは間違いない。
そうして預かった実家はエテンセル公爵家であったが、初めは誰もがクレリオルをエテンセル公爵家の支族の庶子だと思い込んでいた。まさか名門エテンセル公爵家本家の庶子だなどとは思いもよらなかったのである。
元々庶子の存在を疎ましく思うイステラであるから、婚外子の存在を世間に詳らかにするということなどない。それは庶子の民籍簿には父親の名が記載されていないということにも明らかである。そうしてクレリオルは爵士、奴隷、平民と経て、リンデンマルス公爵家の勲爵士クレリオル・ラステリアとなり、最終的にリンデンマルス公爵家支配のラステリア侯爵となったのである。だがそのいずれの段階でもエテンセル公爵家の名は出てこない。
ところがクレリオルが実家預けとなって突如としてエテンセル公爵家の名が出てきた。しかもクレリオルの失態に、当時の国王アレンデルに謝罪するエテンセル公爵の態度が、本家の当主が支族の不始末を詫びるにしては大仰に過ぎたのである。
―― これはもしかすると……。
それ故貴族達はそう思い至ったのである。
元々クレリオルの父は三男で、本来であれば家督を継ぐ立場にはなかった。それ故早くに国軍に志願し職業軍人を目指したのである。そうして公爵家の人間にありながら、身分を鼻にかけることもなく平民の同僚達とも親しくしていた。そのこともあって平民の愛人に子を産ませていたとしても不思議ではあるまい、と思われたのである。
武門の誉れ高きイステラの名門貴族エテンセル公爵家に血の連なる者。それがあったからこそ、クレリオルを王室参謀長にというレイナートの言葉に対し、貴族らは釈然としない思いを持ちつつも最終的には納得したのであった。まさか最後まで反対し王家と公爵家を敵に回すなど自殺行為だからである。
もっともクレリオルと実家の関係は、実はそれほど深い結びつきは今ではない。
クレリオルの腹違いの弟 ― もちろん嫡流である ― が現エテンセル公爵家当主だが、互いに会えば挨拶をするくらいで同じ一族という意識はない。
だが他からすればやはりクレリオルはエテンセル公爵家一門なのである。
だがクローデラにすればそれはさしたる問題ではない。
―― 貴方がエテンセル公爵家の血筋というのなら、私はフラコシアス公爵家の娘。何を怯む必要がありましょう。
イステラでは数少ない公爵家。他国においては公爵ともあらば国王とも血縁のあるいわば準王族とも言える存在。だがイステラには五大公家がある故そこまでのものではない。だがやはり貴族社会の頂点の存在であることに変わりはない。したがって同じ公爵家であれば何の遠慮をする必要があるというのか。
クローデラの自信はそこから来ている。
ところで予想外の申し出に呆けている二人に比べ、より現実的な思考の持ち者がクローデラに尋ねた。
「そう致しますと、クローデラ姫様は女官長たるわたくしの下でお働きになられるということでございましょうか? 平民であるわたくしの下で?」
茶の支度を終えた後、壁際に控えていたはずのサイラが前へ進んでいた。その鉄壁の無表情はいささかも変わっていない。
「そうね。そういうことになるかしら?」
生ける人形が如き端正な顔立ちのクローデラも負けてはいない。レイナートと初めて出会った時の、おとなしく幼い少女の面影はそこにはなかった。
「いくらなんでもリンデンマルス公爵家存続の立役者を押しのけて女官長になろうというつもりはないわ」
レイナートが継ぐ前のリンデンマルス公爵家は最早貴族としての体をなしていないほどであった。それをどうにか支えていたのは当時侍女頭だったサイラである。
クローデラはそのことを言っているのだが、その声には冷たい響きすら感じられた。
「お褒めいただき恐縮ですが、本当に可能だと思われますか? 公爵家のご令嬢が女官をなさるなど。まして平民の下で働くなど……」
「何事にも例外とか、初めてのことというのはあるのではなくて?」
「それはそうでございますが、やはりあってはならぬこと、ない方がよいこと、というものはございます」
「あら、そうすると私が女官になるということは、あってはならないことなのかしら?」
サイラはクローデラの言葉にいささかも動ずることなく、またクローデラもサイラに少しも負けていない。
「貴女様のご身分ではそうでございましょう。さもなければあらぬ憶測を呼ぶことにもなりましょう」
「確かにその恐れがない、とは言えないかもしれないわね」
大体にして女官をするのは既婚未婚を問わず精々伯爵家の女性までである。したがって公爵家の姫が、たとえ国王のとはいえ、女官をするなどということは未だかつてなかったことである。
しかも二人共まだ若い。となると「愛人として近くに侍らせている」などという、あらぬ疑いを持たれることが出てくるかもしれない。
「そうなると色々と困ったことになるのは確かね」
混乱した状況下で国王が白い目で見られる、もしくは求心力を失う、などということがあってはならないだろう。
だがそこでクローデラはもっと周囲の度肝を抜く事を言い出した。
「だったらいっその事、陛下、いえ、殿下の奥方としていただいても構わないわ。というよりその方が嬉しい事ですわね」
そう言ってクローデラはレイナートを見遣る。
「それは無理です!」「それは無理だ!」
クレリオルとレイナートが同時に声を上げた。そうして鉄壁の無表情を誇るサイラですら目を見開いていた。
確かにレイナートはリンデンマルス公爵の身分のまま即位した。そうしてエレノアはレイナートの帰国までは正式には内縁すなわち愛人という扱いであった。
そうしてレイナートが「エレノアを自分の正妻と認めよ」というのを即位の条件に出し、それが認められたのでエレノアはリンデンマルス公爵夫人となる前に王妃となってしまったのである。そうして王妃は王族であるが故に貴族身分を持たないというイステラの慣例に従いエレノアはリンデンマルス公爵夫人ではない。つまり表向きリンデンマルス公爵夫人の座は空席である。
だが側室ですら持たぬ、がイステラの男である。たとえ身分立場は異なれど複数の妻を持つなど余計にありえないことである。
「クローデラ殿、まさか本心ではないでしょうね?」
レイナートが一応確かめてみた。とても本気だとは思えなかったからである。
だがクローデラは表情を変えずに答えた。
「さて、どうでしょう。わたくしはそれほどおかしなことを申したとは思いませんけど……。ねぇ、リンデンマルス公爵レイナート殿下?」
そう言ってからようやくいたずらっぽく笑った。そこには若干の媚びたものも見えた。
だがそこでクレリオルが抗議した。
「ご冗談が過ぎませんか?」
言葉は短いが口調は大層厳しかった。
こちらも庶子とはいえ名門公爵家の縁者。しかも王室参謀長の要職にある。国王の居間でのこと故周囲には人目がある。クローデラの言っていることは簡単に口にしていいものではない。
「あら、冗談が過ぎるのはどちらかしら?」
だがクローデラは再びきつい目をしてクレリオルを睨みつけた。
「なんですと?」
クレリオルが気色ばむ。だがクローデラはそれを意に介せずに続けた。
「わたくしは何故、行かず後家になってしまったのかしら?」
クローデラが挑むような目つきでクレリオルを一瞥した。
大体においてイステラ貴族の姫は早ければ初潮を迎えて直ぐ、通常は十五~六歳で輿入れすることが多い。あのコスタンティアでさえ十七にもなって縁談を全て断っていて半ば白い目で見られ始めていたのである。したがって二十歳過ぎまで皇太子の婚約者という立場のままを、しかもはっきりとした理由もわからず、先方の都合で余儀なくされたクローデラとしても文句を言わずにはいられない。
そこでレイナートが表情を曇らせた。
「それは……、大変申し訳無いことであったと深く陳謝いたします」
何とレイナートはクローデラに頭を下げたのである。
「陛下!」
クレリオルが目を丸くした。それはクローデラも同様である。
「父王陛下のご心中、何があってアレグザンド皇太子殿下とクローデラ姫殿との挙式を行わなかったのかは私にはわからない。
だが父上の跡を継いだ者として、その点に関して深くお詫び申し上げます」
「そんな、陛下! どうぞ頭をお上げ下さいまし!」
さすがのクローデラも大慌てである。確かに嫌味ったらしくクレリオルには文句を言ったが、まさかレイナートに頭を下げさせようということまでは考えていなかったのである。
ただ一方でクローデラの祖父も両親もアレンデルの「仕打ち」に大層憤慨していたということがあった。それ故一族を代表して嫌味の一つでも言わなければ気が済まない、ということもあったのである。
家の娘を皇太子妃に、という国からの申し入れがあった時、クローデラの祖父は外務大臣の要職にあり一家の長であった。
だがその祖父は最初レイナートにクローデラを嫁がせようと画策していた。しかしながらアレグザンド皇太子の相手となるべき五大公家の姫がいないということになって考えを改めた。それは、レイナートは所詮、一貴族で終わる男である、と考えたからである。
確かにレイナートにも王位継承権は与えられた。だがそれは常に末席である。五大公家の男子が元服するとやはり王位継承権を与えらた。そうしてその順位は必ずレイナートの前に組み入れられたのである。それはまるでレイナートに王位を継がせたくないかのようであった。
そういう人物に一族から輿入れさせるということはどうか。必要以上に力を付けさせることは要らぬ火種となりかねないだろう。となれば外戚としてそこに巻き込まれてはなるまい。
クローデラには大したジジバカ振りを見せた祖父もやはり貴族で政治家であった。損得を抜きに物事を判断することなどなかったのである。
そうしてクローデラは皇太子妃に内定し婚約もした。親族、姻族、支族に、その他の貴族からも祝われ、時に妬まれたのである。
なのに挙式は行われずじまい。その上皇太子は廃太子され婚約も自然解消。気がつけばクローデラは二十歳を過ぎ、今では年増と言われるような年齢となってしまっていたのである。
―― この責任はどう取ってくれるつもりだ!
あの震災後体調を崩し寝たきりの祖父は額に青筋立てて愚痴るばかりだし、クローデラの父・現フラコシアス公爵も、出来ることならそうねじ込みたい所である。
だが表立って王家を非難すれば角が立つ。だけでなく王家に弓を引くつもりありなどと取られたら家の存亡に関わる。かと言って何も言わずには済ませられない。という板挟みなのである。
当のクローデラにしてもレイナートに思いを寄せたがそれは叶えられなかった。そうしてその弟アレグザンドに嫁がされることになった。いくら相手は皇太子とはいえ自らの想い人ではない。だが貴族の娘は政略の道具。己の意志が斟酌されることはなかったのである。
それでもそこは割りきってアレグザンドとともに生きようと気持ちを切り替えた。なのにいつまでも待たされた挙句、アレグザンドは精神が破綻し、結婚など出来る状態ではなくなってしまった。それでもこの一年、エーレネの側でアレグザンドの身の回りの世話などを手伝ってきた。だが到頭それすらも不要とされてしまったのである。
―― 私の日々を返して!
クローデラがそう考えても不思議ではないだろう。
一方のレイナートも深く考えざるをえない。
―― 何故、父上は挙式を行わせなかったのだろうか?
それがどうにもわからないレイナートであった。
今のような国内の混乱という事態が訪れることを予見していたのか? それとも別の理由が何かあるのか。それは全くわからないレイナートだがクローデラには頭を下げるしかなかったのである。
―― となると、クローデラ殿の申し出、と言っても私の妻にというのは無理だが、女官となるというのは受け入れるしかないか? だが「愛人」などと疑われるのは心外だし、クローデラ殿の名誉にも関わる……。
―― さて、どうしたものか……。
頭を抱えざるをえないレイナートであった。
|