聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第2章

第11話 人事

 人は、時間を巻き戻すことは出来ない。過去に戻ってやり直すということは出来ない。
 どれ程つらい、苦しい出来事・現実に直面してもそこから逃げ出すことは出来ない。ただそれと向き合うしかない。だから人は同じ過ちを繰り返さぬよう、同じ苦しみを味合わぬように努める。それが人智を押し進め成長させることにもつながる。
 人の歴史はその積み重ねの上に成り立っている。

 もしもそこからどうしても逃げ出そうとするなら、それはレイナートの弟・アレグザンドのようになるしかない。すなわち外界の一切から目を背け、己の世界に入り込みそこで生きる。そうすれば本人はとりあえずそのつらい現実で苦しむことはなくなる。ただし同時にそれまでの全てを失うことになる。それは単なる「現実逃避」という言葉では済まない、多くのものを失わせる。そうしてそれは本人だけでなく周囲の者をも巻き込む。その母エーレネも、婚約者クローデラもそういう意味ではアレグザンドの被害者と言うことが出来るだろう。
 だがそれはアレグザンドが自ら望んだことではなかったかもしれない。あるいは己の意志で望んだことかもしれない。それを知る術は誰にもない。本人にもない。いずれにせよそこには来るべき、訪れるであろう未来は存在しない。流れる時間の中で本人だけが取り残されることになる。
 人は何があろうと逃げ出すことなく、恥じ、悔い、正しく覚り、天地を畏れるからこそ未来を作り得る存在なのである。

 そうしてレイナートはそのつらく厳しい現実から目を背けることなく、どころかそれに抗いながら、日夜人々のために働いている。


 短いイステラの春が終わりを告げ、初夏の気配が色濃くなってきた頃、レイナートの行幸が内定した。国内各所を視察したいという念願が叶えられることとなったのである。
 レイナートはそれを喜んだ。それはエレノアや家臣らも同様である。久々に領地へ行けるからである。

 行幸の予定は秋を目処に、王都から東街道沿いの貴族領を視察してリンデンマルス公爵領まで至るというものである。
 だがこれは震災直後の被害状況からすれば西部地区の方が優先されてもおかしくはない。
 ディステニアとの国境に近いロッセルテの街やレギーネ川流域の諸貴族。被った被害はこちらの方が大きい。だがその分国からの援助も王都に次いで最優先されていた。したがって復興著しいとも言える。
 一方の東地区は被害が少なかった分、援助物資の供出が求められてきた。したがって国からすれば東部地域の貴族達に対する恩義がある。それに報いなければならない。
 リンデンマルス公爵家はその最たるものだが、同じレイナートの所領ということでこちらは後回しに出来るが、周辺の貴族に対してはそういう訳にはいかない。求心力を維持するため王として謝意を表すことは不可欠である。
 だが貴族らはこの時期は大抵は領地に下向している。それを王都に呼び寄せて感状を渡す、というのではどうにも尊大さを拭い切れない。それ故東部への行幸となったのである。

 それにリンデンマルス公爵領内では、後の世にリンデンマルス札もしくはレイナート札と呼ばれた、領内独自の紙幣が漸次イステラ札へと切り替えられている。すなわち国内において最も紙幣が流通しているということである。その実態を見分するというのは国王として重要な事である。

 それとやはり領地の状態の確認。これも疎かには出来ないことである。それはリンデンマルス公爵としてのみならず国王としてもである。
 リンデンマルス公爵家は国に多大な貸しがある。それは震災後に供出した物品の代金であり、全イステラ貴族の中で最大のものである。これをきちんと回収しないとリンデンマルス公爵家が傾いてしまう。もし最悪そうなっても家臣領民を路頭に迷わせるような事があってはならない。それは単なる領主の意地とか名誉とかの問題だからではない。それは最終的には一貴族の話では収まらず廻り回って国の存亡に関わることとなるからである。

 国にとっては借金はなくなった方が良い。だが踏み倒すなど論外。そんなことをすれば国の威信は地に落ち国家が崩壊する。まさかそこまでしなくとも「無い袖は振れぬ」と先延ばしにすれば同じことである。
 もし万が一リンデンマルス公爵家が貸し倒れを起こしたら? そうなればその規模からして、国家経済がいまだ立ち直っていない現状では致命傷となりかねない。のみならず瞬く間に国に貸しのある他の貴族にも波及するだろう。そうなれば確実に震災直後以上に国内は混乱し、大多数の国民が飢えに苦しみ、食料を求めて争い殺し合うことになるかもしれない。それは直ちに国内全土を巻き込んだ内戦へと発展しイステラは滅亡するだろう。それは誰も望まぬ最悪の未来予想図である。これはなんとしても避けねばならない。
 したがって国家存続のためにリンデンマルス公爵家の現状をきちんと把握し取るべき手を打つ必要がある。もちろんリンデンマルス公爵家王都留守居役のコリトモスの報告を信用しない訳ではない。だがそれは領地からの報告にふるいが掛けられていることは否めない。もしかしたらコリトモスが重要視せず報告していないことに家の存亡に関わる重大事が潜んでいるという可能性がないではない。それを思えば領地を直接己の目で見る必要がある。
 レイナートの行幸の実現にはそのような背景があったのである。

 だが国王の行幸となるとその準備だけでも簡単なことではない。また国王不在の間にも揺るぐことのない執務体制の確立が必要である。そのためにはまず、解任を願い出た二人の人物、ドリアン大公とシュラーヴィ侯爵の後任人事を何とかしなければならない。一応、秋に行幸を実施と内定したがそれはあくまで内定であって、これが解決されるまでは実施を見合わせるとされたのは当然のことである。


 ところでその解任願いだが、何故「解任」かと言えば、イステラでは基本的には大臣ら諸役の辞任が認められていないのである。
 実力主義を掲げるイステラで大臣を拝命するのは経験と実力に満ちた見識のある人物である。そういう人物であるから特別落ち度がない限りはその職に留まることが求められる。
 したがって長期に亘って在職するからどうしても年齢が高くなってくる。一方で医療未発達のこの時代、寿命は長いとは言い難い。したがって大臣という激務をこなすうちに老いと病でその重責に耐えられないということも起こり得る。その時には解任を国王に願い出て王がそれを認めればその任を解かれるのであるが、やはりそれは形式上本人の意志による辞任ではなく国王による解任なのである。何故なら国王の人事権に口を挟むなど言語道断という建前からである。そうしてもしも途中で解任されなければその死まで職にあることになるのである。
 だがレイナートはそれを二人に強要することは出来なかった。そこで二人の解任を決定したのである。


 ドリアン大公は摂政を解任され国王の相談役となった。この相談役も新設のもので、要するにドリアン大公家にわずかでも役料を支給するための非常の措置である。それは五大公家存続を図るなんとも不公平感が漂う決定だが、他に収入の道のない五大公家を無役にして放り出すことは出来ない。そんなことをすればたちどころに家が傾くだろう。それは官吏採用試験を自ら受験するというリディアン大公の言葉からも明らかである。それ故の決定である。
 いくら身分制度に反感を持つレイナートであっても、身分制度を廃止出来る環境を整えてからならともかく、まさかいきなり「滅ぶなら滅んでしまえ」と言わんばかりのことは出来ない。それでは国家の転覆を図る過激な革命指導者と同様である。レイナートはそこまで過酷なことを言う人間ではない。

「そこまで配慮していただいては言葉がありませんな」

「どうぞお気になさらずに。
 五大公家はイステラに欠くべからざる家であり、私にもその血が流れています。当然のことです」

「ならば儂に出来ることは少しでもさせていただきましょうぞ」

 ドリアン大公はレイナートの配慮に感謝し、レイナートも今後共自分を支えてくれることを期待したのである。

 そもそもこの摂政職は本来常設ではない。国王の統治に不安がある場合にのみ置かれるものであるから、その解任は今回のような場合でもさして難しいものではない。
 もっとも国王自身が変わり者のレイナートであるから、逆に摂政が必要だと密かに言われていたほどである。だから諸大臣達はドリアン大公の摂政解任に多大な不安を抱いた。
 五大公家は他貴族のみならず王家に対しても強い影響力を行使し得る存在である。したがってドリアン大公がいなくなると誰がレイナートに物申すのか、と不安を抱いたのである。それ故、なんだかよくわからない役職の「相談役」であっても、ドリアン大公が政府内に残るということに大臣達は安堵したのであった。

 一方、内務大臣に留まることが決まったシュラーヴィ侯爵 ― これはレイナートの「説得」によって受け入れざるを得なかった ― の宰相職を誰に任せるかが大きな焦点になった。
 大臣を拝命出来るのは五大公家および直臣貴族家の当主のみである。そのとりまとめ役ともいうべき宰相となると五大公家の専任職と言っても過言ではない。だが現状五大公家に相応しい人物はいない。では、非常時だからということで貴族に目を向けてみれば、こちらも目ぼしい貴族は全て大臣職など諸役に就いていると目されていた。その数は全て合わせても二十に満たないにもかかわらずである。それ故誰にも「この人であれば」と思いつく人物がいなかったという。
 これにはレイナートも頭を抱えたのである。


 その宰相の後任人事に頭を悩ませる一方、クローデラを罪滅ぼしも含めて女官として迎え入れることに決定したレイナートは、その父である現フラコシアス公爵を王宮に招いた。
 皇太子との婚約を済ませながら成婚とならなかったクローデラ。気がつけば二十歳を過ぎ、アレグザンドは廃太子。今更他に嫁ぐことも出来ず、文字通り行かず後家であった。そのことへの謝罪のためである。

 本来であれば謝罪のためであるからレイナートが出向く方が筋かもしれない。だがその時フラコシアス公爵は領地にいた。したがっておいそれと会いに行く訳にはいかない。
 第一、リンデンマルス公爵としてならともかく、たとえ王都内であっても、国王がわざわざ出向いて頭を下げるなど決してあってはならない。そのような悪しき前例を作ってはならない。クレリオルを始め諸大臣はそう言い、新たに相談役となったドリアン大公も同意見であった。

「玉体を御自ら運んで貴族に頭を下げるなど言語道断! こればかりは決して賛成出来ませんぞ!!」

 という訳である。

 レイナートにすればクローデラの件は父王の不手際。実際には不手際ではなく意図的なものであったがそれはレイナートも知らぬこと。そうしてこれは国として謝罪すべきことだろうと考えた。

 ところでこの当時、「国」もしくは「国家」という概念はある意味では至極曖昧で、多分にそれは「国王」と置き換えることが出来た。それは「朕は国家なり」というほど強力なものではないが、王が国の頂点であり支配者だからであることと無関係ではない。
 国として出される一切の通達。それは全て国王の名で行われる。外国に対するものでもそれは同様である。それはつまり「国として」ということは「国王が」ということである。
 また貴族領は原則として貴族のものだが、それも国王の「思し召し」によって、と言うことが出来るのである。したがって「国の一切は国王のもの」という考えが根底にあると言っても過言ではない。

 そうして謝罪するのなら、人を呼びつけた上で、というのは違うだろう、とレイナートは考えた。それはレイナートにすれば至極当然の考えなのだが、当時の身分社会では受け入れられないものであった。
 それ故フラコシアス公爵への謝罪も当初は書面で行われるはずだった。まさか領地から呼び寄せて、というのはさすがに憚られたのである。ところが偶々その公爵が所用があって王都に登ってくるという。そこでそれを待って王宮までご足労願ったという訳である。


 王宮謁見の間に姿を表したフラコシアス公爵は玉座の前で跪いた。その娘クローデラは父の数歩後ろで同様に跪いている。これは作法に則ってのことであって特別なことではない。

「国王陛下のご尊顔を拝し恐悦至極にございます」

 フラコシアス公爵はそう言って頭を下げた。ここまでは何も特筆すべきことはなかった。
 だが異変はその次であった。

 普通であればここで国王、すなわちレイナートの口から言葉が発せられるはずであった。「ご苦労」とか「大儀である」と……。そうしてレイナートが呼び出したのだから当然用件を切り出すのはレイナートの方。だがレイナートは無言のままであった。
 これではフラコシアス公爵は頭が上げられないばかりか自分から口火を切ることも出来ない。黙って頭を下げているしかないのである。

―― どこまでも我らを愚弄するか!

 王の呼び出し故拒否は出来ぬ。そこで渋々王宮までやって来たのにその対応はどうか。娘だけでは飽きたらず今度はこの俺をもか!  フラコシアス公爵は心中怒りに打ち震えたのだった。

 その頭を下げたままのフラコシアス公爵の視界に人の足が見えた。誰かが眼前に立ったのである。と、その人物が静かに膝をついた。

「ご息女の一件、父、先王アレンデルに成り代わり心よりお詫び申し上げる」

 自分の直ぐ頭の上から聞こえるその言葉にフラコシアス公爵が思わず頭を上げた。すると自分の直ぐ目の前、わずか上方に端正な青年の顔があった。

「済まない、という言葉で済むことではないが、この通り心底より謝罪させてもらいたい」

 レイナートはそう言って静かに黙礼した。決して頭を下げる素振りは見せなかった。言葉も謙り過ぎないように慎重に選んだ。だが国王が臣下に膝をついて詫びの言葉を言った。この事実だけは動かせない。
 この異常事態にその場に居合わせる全ての人々が瞠目した。

「へ、陛下……」

 フラコシアス公爵も唖然として二の句が継げなかった。

「悪しき前例となるから決して頭を下げるな」と言われたレイナート。だから頭を下げることはしなかった。だが膝をついた事は動かしがたい事実であり、あり得べからざることである。

「さて、由緒ある公爵家の息女を女官にという志、誠に殊勝である。願いを叶えて遣わす」

 立ち上がったレイナートの言葉は一転して尊大なものに変わっていた。それまでとはまるで別人である。だがフラコシアス公爵はその前の出来事に度肝を抜かれていて思わず叫ぶように言ったのである。

「ありがたき幸せ!」

 狙ってのこと、ということであればレイナートも相当の策士と言えるかもしれない。だが現在の国家の仕組みが王を頂点とした身分社会である。したがって国王が舐められ侮られてしまったら国が収まらなくなる。
 このことは考えに考え抜いたレイナートの策であり、フラコシアス公爵はその術中にはまってしまったと言える出来事であった。

 その後レイナートはフラコシアス公爵とクローデラを居間に招き歓談した。
 そうして話をするうちにフラコシアス公爵が非常に有能な人物であることに思い至った。

―― この人であれば宰相を任せられるかもしれない。

 その思いとともに……。


 クローデラの祖父は長らく外務大臣の職にあり、外国との折衝に多大な功績があった。コスタンティアがディステニア王スピルレアモスへ輿入れしたのもその尽力に因るところが大きかった。
 ところがその先代フラコシアス公爵は先の震災で腰を強打し動けなくなってしまったのである。幸い命に別条はないがとにかく動けない。しばらく様子を見ていたが回復の兆しはなく、それはまるでいつまでも治ることのない重症のぎっくり腰のようなもので、半ば寝たきり同然となってしまったのであった。そこで嫡男に家督を譲ったのだが、この嫡男、現フラコシアス公爵は元々外務卿であった父に代わって公爵家と領地の管理・監督をしてきた。要するに既に実質的なフラコシアス公爵家当主であった。
 これは大臣を拝命している家では珍しいことではない。大臣は貴族家当主本人でなければならないとされている。だが大臣をしながら自家のことをするなど不可能である。大臣は名誉職でもなければ閑職でもない、激務だからである。それ故家督を譲るべき嫡男に家を任せるというのが普通のことであったのである。

 ところで、実質的な当主であっても家督を継ぐ前では公式には部屋住み。総登城を必要とする公式行事に出席することも、そもそも公の場で何かをする、言うということがあり得ない。したがって大臣職に必要な知識や経験があるとは見做されないのである。
 それ故親が大臣だからといって、否、そうであればこそ余計に家督を継いだばかりの息子が大臣に登用されることはない。イステラではそういう形で大臣職の世襲化を避けてきたということがある。
 もっとも震災直後はそういうことを言ってはいられなかった。だがフラコシアス公爵家で家督相続がなされた時には新たな大臣人事が既に終わっていたのであった。それ故現フラコシアス公爵は無役であり、心置きなく家の建て直しに専念出来たのであった。


 思いの外長い時間の会話となった後、フラコシアス公爵は恐縮して言ったのである。

「これは大変失礼いたしました。ご多忙の陛下のお時間を無駄に致し……」

「いいえ。有意義な時間でした、フラコシアス公」

「恐縮にございます」

 フラコシアス公爵が頭を下げた。

「それではそろそろお暇を……」

 そう言って立ち上がったフラコシアス公爵にレイナートが尋ねた。

「公は国のために働くお気持ちはありませんか?」

 そこでフラコシアス公爵がそれまでと打って変わって表情を険しくした。

「国と王のために働くは貴族の務め。改めてのお尋ねは、我が忠誠をお疑いの故でしょうか?」

 国王にも直接そう言えるフラコシアス公爵は中々気骨のある人物であるということがこの一事でもわかる。

「いいえそうではありません。
 これは失礼な物言いでしたね。私が言いたいのは、宰相として国政に参与されるお気持ちがあるか、ということです」

「何ですと!? 私に宰相を、と仰せでございますか!?」

 レイナートに跪いて詫びを言われた以上に驚きの声を上げたフラコシアス公爵である。

「ええ。貴方になら安心して任せられそうですから……」

 レイナートはにこやかな顔でそう言ったのであった。


 イステラでは数少ない公爵家。五大公家はおろか他貴族に比べても広大な面積の領地と多数の配下・領民を有する。したがってどの家も ― リンデンマルス公爵家も本来の力を取り戻せばだが ― その実力は侮りがたいものがある。
 その経営をそつなく無難にこなすということですら簡単なことではない。まして状況が状況である。それにもかかわらず領内を安定させ、国にも十分な物品の供出を行っているフラコシアス公爵家。現当主の力量は推して知るべしだろうとレイナートは考えたのである。
 そうしてフラコシアス公爵の宰相就任に反対する大臣は一人もいなかった。ドリアン大公も諸手を上げて賛成したのである。


 後々までイステラ王レイナートの治世を支えた名宰相フラコシアス公爵。彼が表舞台に出るきっかけとなったのは誰あろうクローデラだったのである。

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