聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第2章

第15話 危うい始まり

 レイナートの行幸の隊列が三の郭を通過中、隊列の中心の国王夫妻が目の前を通り過ぎると市民らは熱狂的な反応を見せた。
 イステラにおいて国王の行幸はまさに百年に一度の慶事である。しかも平素、顔を拝むことすら許されない国王陛下を間近で見られるのである。市民らの熱狂ぶりがわかるだろう。
 だが隊列の中心が通り過ぎると市民らは少しずつ家にと戻っていく。したがって最後尾が通過する頃には沿道には人影もまばらとなっていた。

 その、いつの間にか閑散とした大通りで、最後まで隊列を見送っていたショボくれた老人が呟くように言った。

「さて、我々も仕事に戻りましょうかね……」

 豪雪のイステラは建物の床を高くする。したがって通りから建物に入るにはわずかとはいえ階段がある。その、わずか三段しかない玄関前の階段を、老人は手すりに掴まって覚束ない足取りで昇っていく。
 周囲にはあまり覇気を感じられないというか、ショボくれた感じの小柄な男達が数人、老人に続いて中に入っていく。

 老人は白髪頭に丸まった背中。杖こそ突いていないが足取りはゆっくりで多少ふらついてもいる。おそらくかなりの高齢であろうことがその様子からも見て取れる。
 老人は建物に入ると奥の机へと向かう。ここは開業して間もない商会である。だが看板すら出しておらず、建物も商会にしては小振りで倉庫も隣接していない。したがって知らぬ者が見れば何を扱っているのか、否、商会であることさえ気づかないだろう。

 机に近づくごとに老人の背筋が伸びていった。足取りも別人のようにしっかりしたものとなっている。そうして全く危な気のない様子で椅子にすっと腰掛けた。
 背後に続いた男達はその老人が腰掛けた机を取り囲むようにして立った。だが、二人だけは違う。一人は入口の扉のところに留まり外の様子を伺っている。もう一人は建物の奥まで足早に進み、やはり裏口のところで外を伺っている。全員先程までと打って変わって眼光鋭く表情も厳しい。

 老人は目の前の男達を見回すと静かに口を開いた。

「お支配より指令が下された。我々はディステニアに潜入し活動する」

 老人の表情は引き締まり声にも力が漲り、外にいた時とは全くの別人である。

「先日、我々も携わった調査によって、あの砂金は上流の金鉱脈から流れ出たものということが判明した。
 そうしてこの新鉱山をディステニアと共同開発するという決定が政府内においてなされた……」

 老人の言葉に淀みはない。それにたった今口にしたことはいまだ政府の中枢でしか知られていないこと。それを知っているということは……。

「その共同開発に関する取り決めは今後正規の外交筋を通してディステニアと交渉するということだ。
 そこで我々の任務は、この交渉を有利に進めるため現在のディステニアの状況を詳しく調べるとともに、必要に応じて彼の国の世論を操作すべく工作を行うということだ」

 老人はそう言って一旦言葉を切った。
 それを聞いていた男の一人が嬉しそうに言った。

「ヤレヤレ、やっと暗部らしい……」

「おい、気をつけろ。俺達はもう暗部じゃないぞ!
 もっとも名目上だけだが……」

 脇の男が甲高い声でたしなめた。
 老人も頷きつつ言った。

「そうだ。我々は最早イステラ暗部の、何処の誰でもない影の存在ではない。
 リンデンマルス公爵家に籍を持ち、王国情報室に奉職し、『イステラ商会』に出向しているれっきとした『表の人間』なのだ」

 そう言った老人は、誰あろう、あのゴロッソである。
 新設された王国情報室。その長官はクレリオル・ラステリア侯爵。その配下で実働部隊の長、それが現在のゴロッソである。


 王国情報室に配備された元暗部は五十名。主任務は他国の間者の侵入に対する警戒である。
 したがって、常に国内各所に赴いて不審な人物が紛れ込んでいないかを探索する必要があり、城内に留まっているだけでは仕事にならないのである。そこで城下三の郭に新たに開業した商会を隠れ蓑に活動する事となったのである。

 このイステラ商会は、イステラ貴族の領地で生産される物品を国の内外で売買するという、他商会と何ら変わるところのない目的のために国営の商会として開設されたものである。そうしてそれは単なる建前ではなく実際に商取引を業務として行っているのである。
 これにはレイナートの意向が色濃く反映されている。
 せっかく暗部の者達を日陰の存在から陽の当たる所へと転換を図ったのに、影に隠れての諜報活動を主任務にしては何もならないではないか。したがって商会としての業務を主任務にし、対暗部活動は副次的に行うべしというのである。

 ただしそれは表向きである。
 レイナートの意向は確かにそうなのだが、王国情報室としてはやはり諜報活動をしない訳にはいかない。
 絶海の孤島に一つだけ存在する国ならともかく、周辺に国境を接する国が存在する以上その動向を調べることは不可欠である。突然国境に軍勢が集結し攻めこんで来ないと誰が言えよう。寝耳に水ということがあれば後手を踏み、多大な被害を被ることもあり得ないことではない。したがって必要に応じて他国に潜入・諜報活動を行うということは、国家戦略上欠くべからざることなのである。その点は宰相フラコシアス公爵とクレリオルの間で意見の一致を見ていた。
 そこで二人は、宰相と王室参謀長兼王国情報室長官の責任において、イステラ商会に諜報活動を行わせることにしたのである。
 そうしてこのことは幾重にも隠蔽工作が行われ厳重に秘匿されていたのである。


「ところで……」

 ゴロッソが再び口を開いた。

「リンデンマルス公爵家のご領地は今年もブドウが豊作とのことだ。よってまた大量にブドウ酒を仕込む予定という。お前達は表向き、このブドウ酒の売り込みでディステニアに向かうこととなる」

 言われた男達は無言で頷いた。

「いまだ仕込んでもいないブドウ酒の売り込みだ。殊、イステラと違って彼の国ではかなり難しいだろうが、そつなくこなしてほしい。
 それと、これは私自身の自戒を含めてだが、浮かれて二度と失敗することのなきよう、皆、心して掛かってくれ」

 ゴロッソはそう言って再び配下の者達を見回し、全員がそれに頷いた。
 今度は表向き商会の職員を装ってのディステニア潜入である。変装・潜入はお手のものだが油断して同じ失敗は二度とすまじ、ということである。とくにイステラ商会は「国営」である。したがってもしも何かあればイステラが国家として非合法活動をしているということが明白となる。それは何があっても避けなけれならないことなのである。


 ところでゴロッソが言ったブドウ酒の件はいわゆる先物取引ということになるが、もちろんこれは投機目的などではなく、またイステラでは特別珍しいことでもなかった。
 大手商会の場合、顧客の貴族家は固定であり毎年の生産物の総量も大体は把握している。だが特に農産物でも穀物や野菜といった作物はその収量が天候に左右されやすい。特に不作となって収量が減ると価格が一気に跳ね上がるということも往々にしてあった。売る側としてはそれは当然のことだが、買う側からしてみれば価格の高騰は家の財政を圧迫する。といって値上った分購入量を減らすと領民が飢える。
 一応そうなった時のために備蓄はしておくが、万が一不作による食料の価格上昇が数年続き買い控えていると備蓄を使いきってしまうことになる。だから最終的には判断することになる。背に腹は代えられない、と高くても買うか、それでも備蓄で乗り切るか。
 逆に豊作となって品余りになると価格が下落する。皆が買い叩くからである。こうなると大量に販売しても思ったほどの売上にならないということも出てくる。

 そこでこういった問題による家の財政への影響を抑えるため、作付の段階から商会と貴族家が交渉して売買価格を設定しその取引量を決めておくのである。
 こうしておくと貴族家では、不作となって価格が高騰してもその差分を手に入れられない代わりに、豊作となって市場価格が下落しても値下げを要求されることがない。貴族家はこれによってある程度の収入が事前に見込めるから年間予算を立て易い。
 そうして取り決め量以上に収穫出来ればそれを売って収入を増やし、それは貯蓄に回すかもしくは別の用途に当てられるし、逆の場合でも、少なくとも必要最小限度の予算確保が出来るという利点がある。それ故このような契約を貴族家と商会では結んでいるのである。

 これはイステラでの話であるが他国も似たり寄ったりではある。
 多くの領民を抱える家ではそのための食料の確保は重要課題である。もしも領民をきちんと食わせることが出来ず逃散など起きたら面目まる潰れ、では済まない。
 元々貴族などというものは領民から吸い上げ、奪い取ることで暮らしているようなものである。その領民を失えば今度は自分の方が飢えてしまう。したがって領民に関しては、生かさず殺さずということはあるにしても、その食料の確保は不可欠なのである。

 だがそういう場合でも基本は国内産の売買であり、それを輸入品に頼るのは国家としてはかなり危険であると言わざるをえない。もしその食料の輸入が止まればどうなるか? そう考えればそれは輸出国に首根っ子を抑えられているようなものである。最悪の場合食料を餌にどんな無理難題に対しても首を縦に振らざるを得なくなる。
 それが現実に起きているのはル・エメスタであるが、これは地形的な要件の故に耕作地の拡充が図れない。もし新たな耕作地を得ようとすれば文字通り他国の土地を切り獲るしかない。だがそれが出来ないからル・エメスタは一方的に弱い立場となることを避けるため、古くからイステラと食料相互補完の関係を作り上げたのである。
 ル・エメスタには小麦を、イステラには塩の仲介を、ということである。


 ところでリンデンマルス公爵家はイステラ貴族最大の広い領地を有している。さらに旧ウォーデュン伯爵領の半分を委託統治しており、その耕作面積の広さは半端ではない。砂漠化の進む東地区においては植林も進めているが、主体は麦、豆、トウモロコシの栽培である。これによって生み出されている大量の食料が震災後のイステラの食糧事情を支えたと言っても過言ではない。
 だが震災後の厳しい状況に酒類の販売が劇的に落ち込んだ。「酒など飲んでる時ではない!」ということである。これはブドウ酒造りが主要産業であるユディコン、ドリアノス両村にとっては壊滅的な痛手となった。

 それまではリンデンマルス公爵家の収入の柱として、他村の収益不足を補うところまであった両村である。それが震災後一転して他村の売上で食わしてもらう立場になってしまったのである。その屈辱感といったら言葉に出来ないほどである。
 とは言え売れないものは売れない。領主に直訴しても何とかなるものでもない。だが一年経って状況が改善されず、二年が過ぎようとしても好転する兆しがないとなれば深刻である。
 リンデンマルス公爵家の商務担当オイリエも奔走しているが目立った効果は出ていなかった。国内はもとより外国に輸出出来るほどの量を在庫として持っているのである。とにかく販路を開いて欲しい、というのが両村の村長、さらにその二村を支配下に置く郡長の偽らざる本音であった。

 このことがイステラ商会の設置の後押しにもなっていた。国内の状況がどうであれ、物品を作れるところでは作っている。だがそれが必ずしも売れているかというと、この二村の例に見ても明らかである。
 国として貴族家の物品販売の後押しをすることは税収の増加につながり、結果的に国家財政の健全化もしくは安定化へとつながっていく。そのこともあって創設されたイステラ商会であり、決して国として他商会の縄張りを侵そうとか、利益を横取りしようというものではなく、現在の商会では手が廻りかねているところを補完するという目的である。したがって確かに王国情報室の隠れ蓑でもあるが、きちんと商取引を行う商会でもあるのである。
 そうして現在はリンデンマルス公爵家からこのイステラ商会にブドウ酒販売への助力が要請されている。そこでこれを表向きの理由としてディステニアに向かい、そこで情報収集と工作を行うというのがクレリオルより下された命令である。


 ところでクレリオルとゴロッソの関係はといえば、これは中々微妙なものがある。

 元々クレリオルは暗部という存在を快く思っていなかったところがある。
 己自身も日陰の身である。だがその境遇を嘆いたり、恨んだり呪ったりして何になる? それで何かが変わるのか? 自分の立場が良くなるとでも言うのか? いかなる境遇にあろうとも己の道は己で切り開くもの、そう考えていた。
 もちろんクレリオルとて世の中の全てが正々堂々、綺麗事だけで成り立っているとは思ってはいなかった。だが暗部とは陰でこそこそと立ち回り人目を忍んで画策する輩、組織でしかないではないか。そう思ってきたのである。かてて加えてそのイステラ暗部は、レイナートがレリエルからの帰国途中、アガスタからクラムステンに向かう時に大失態を犯している。余計に暗部に対する反感が強くなった。
 だがその時の責任は己にもあり、結果実家預けとなって幽閉された。その後レイナートの消息が知れてからはレイナートの下に復帰し今に至っている。そうしてレイナートはクレリオルを許したように暗部も許している。
 そうして暗部の者達は自分以上に厳しい境遇に生まれたということも、後になってからだが知るに至った。それ故考えを改めようとするに至ったのである。
 したがって王国情報室の長官を拝命した際も驚きはしたが、それで部下となる元暗部の者達を虐げようとか苛もうとは考えなかった。だがそうは言っても、全く自然に普通に接することが出来ているかというとこれがなかなか難しい。しかも上官と部下という立場であり、王国情報室長官としてはやはり暗部的な働きをさせざるをえない。それ故のことである。

 一方のゴロッソはそのレイナート行方不明事件での失敗で死を覚悟した。同行していた他の暗部達も同様である。
 レイナートの従者として正々堂々、隊列 ― と言えるほど大掛かりではなかったが ― に加わった。それは確かに変装はしていたが潜入でも何でもない、日の当たる明るい仕事であった。それに浮かれてしまい賊の襲撃を許してしまった。
 その後クレリオルからは全く信用されず、大した役目も与えられず、結果、自分達で必要と思われるところへ使いに走った。もちろん叱責され死罪を賜る覚悟で、であった。
 帰国後は過酷な罰を受けたがそれでも死罪となることはなかった。レイナートのために再び働くことを許されるようにもなった。だがそこにクレリオルの力添えはなかった。クレリオル自身、同様の立場で何かを言える立場ではないということもあったろうが、それにしても「何もしてくれなかった」という思いが心の奥底にある。

 しかも今ではレイナートは基本的には「表の仕事」をだけさせたいと考えている。だがクレリオルは「裏の仕事」もさせようというのである。
 もちろんクレリオルは私欲の少ない人間であることはゴロッソも知っている。クレリオルは常にリンデンマルス公爵家を第一に、今ではイステラを第一に考えている。そこに私利私欲はなく、時にはレイナートに対しても強いことを言うほどである。
 またゴロッソ自身諜報活動は絶対に必要なことだと考えており、イステラのために諜報活動を行うことにやぶさかではない。

 だが両者のそういう間柄故に、そこに信頼関係があるかというと、これが微妙なのである。
 ただ共に戴くのがレイナートであり、レイナートに対しては絶対の忠誠心を見せている両者であるから成り立っているというところがあった。

 それがなければこの組織は直ぐに瓦解するのではないかと思えるほどの危うさを秘めた始まりなのであった。

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