聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第2章

第18話 帰国

 後世の歴史家が挙げるレイナートの業績には幾つもの事柄がある。その中でも特に初期のイステラ王としての時期、その最たるものは紙幣と国債の発行と、もう一つ王都外側の橋の建設であるとして、この三つを挙げる者が多い。特にこの前者二つは当時としては画期的なことであったが故に異論がほとんどない。


 東部貴族らとの会見を通し、この二つの経済政策が広くイステラで軌道に乗りつつあったことを実感出来てレイナートは大いに安堵した。また行幸が「それなりに」順調であることもあってレイナートの足取りは大層軽くなっていた。

 そうしてリンデンマルス公爵領に到達した時、領民から熱狂的な歓迎を受けたことでレイナートの気分は最高潮に達した。
 国に対し多くの負担を行ってきたリンデンマルス公爵家である。レイナートはその経営状態には常に神経を尖らせていた。だが国王となってからは多忙の一語に尽き、全てが家臣・領民任せとなってしまっていた。確かに領地からもたらされる報告は深刻なものではなく、その点では安心ではあったが、それはまさに隔靴掻痒、常にもどかしさを感じていた。
 だが国債と紙幣によって国からの支払いが行われ、領内だけで流通させていた独自紙幣から国の紙幣に順次切り替えることが出来るようになると、リンデンマルス公爵家の経営状態も安定の度を増した。もちろんぶどう酒の売れ行き不振など懸案事項もいまだ残っているが、これはいずれ好転するだろうと半ば楽観していた。元々その味の良さには定評があったのである。質さえ落ちなければ何も問題はないだろうし、新設されたイステラ商会にも動いてもらっているからである。
 リンデンマルス公爵家はとにかくその規模が大きい。いまだ領民は最盛期ほどまでに増えてはいないが、それでもイステラ有数の大貴族であることに違いはない。そうしてその広大な面積から生み出される物品がこの未曾有の国難の時を支える中心と言っても過言ではなかった。
 その家臣・領民らの労をねぎらうためにもリンデンマルス公爵領への「帰国」を切に願っていたレイナートである。故にレイナートにとって今回の行幸は何にも代えがたく、また絶対に実施しなければならないことであったのである。


 レリエルへ出立以来の帰国となるレイナートを領民らは盛大に歓迎した。
 領地の入り口であり領内一の商業都市シャトリュニエの街は沿道に領民が所狭しと居並んでレイナートを出迎えた。

「ご領主様、バンザイ!」

「国王陛下、バンザイ!」

 口々に叫ぶ熱狂的な市民に馬上のレイナートも満面の笑みが溢れる。

 もう何年も領地に戻っていなかったレイナートは領地経営を家臣達、特に家宰のゴストン男爵に任せきりであった。ゴストンはその期待に応え、国に対しても、また領民に対しても遺憾なくその才を発揮していた。
 そのゴストンは主城カリエンセス城ではなく、シャトリュニエまで出向きレイナートを出迎えた。
 家宰である以上、城の謁見の間で主君を出迎えるのが本来の務めである。だがゴストンは待ちきれなかったのである。

「無事のお戻り、恐悦至極に存じまする」

 ゴストンは深々と頭を下げてそう言った。背後には各郡長、村長らも控えており、やはり恭しく頭を下げている。

「ゴストンも皆の者も、出迎え大義である」

 レイナートも鷹揚に頷く。

「恐れいりまする。まずは今しばらく、お城までご辛抱下さいませ」

 ゴストンが一同を代表し再び口を開き申し訳無さそうに言った。だがレイナートは首を振る。

「何の辛抱か。再び領地に立つことが出来たのだ。嬉しくて嬉しくて辛抱することなど何もない」

 レイナートは心底からそう答えた。
 シャトリュニエの街から主城までの景色を眺めることもレイナートにとっては喜びであり、我慢を強いられることなど何もないというのは掛け値なしの本音であった。

「それは重畳であります」

 ゴストンもそう述べ一行は再び動き出した。

 近衛の兵士や国軍兵站部隊、更には各省から派遣された官吏、侍従・女官に至るまで、初めてリンデンマルス公爵家の領地を訪れる者は興味津々といった面持ちでいながら粛々と進んでいく。

 そうして行幸の隊列に各郡長や村長らが加わり、一行はさらなる大所帯となって主城カリエンセス城を目指した。
 城下へ至る道の両側には領民達が集まっていてやはり熱狂的な出迎えをしている。
 随員らはそのあまりの熱狂ぶりに、レイナートが如何に領民から慕われているかを驚きとともに実感出来ている。

―― 領民にこれだけ慕われる領主というのも、あまり例がないのではないか?

 領主は恐れられ崇められるもの。そういう「常識」からすれば、どうもその熱狂的な歓迎ぶりは確かに崇めてはいるが恐れているようには感じられなかったのである。


 やがて遠目にリンデンマルス公爵家の主城カリエンセス城が見えてくる。
 かつては城下の街も、城そのものも無人で寂れていたが、今では大勢の人間が起居する、まさに公爵家の中心地である。
 その白亜に輝く城の中心部に到着するとレイナートは城を見上げ、また振り返って眼下の手入れの行き届いた庭を一瞥する。

―― ようやく還ってきた!

 貴族にとって領地は自分の「国」である。レイナートにとって外国からイステラに戻った時よりも、領地に戻った今の方が「帰国した」と強く感じられていた。なのでしばらくその場に佇み、感慨無量で周囲を眺めていたほどである。

「さて、そろそろ参るとしようか」

 ようやくそう呟いてレイナートは謁見の間へ入り、赤絨毯を進み玉座に向かう。
 絨毯の両側には家臣・領民らに随員の主だった者達が既に配置を済ませて居並んでいる。およそ百名近い人間が並んでいるが、カリエンセス城謁見の間は、その程度ではちっとも手狭に感じることはない。
 レイナートは玉座の前で振り返ってすっくと立つと、居並ぶ人々を前にしてよく通る声で言った。

「長らく不在をし、皆には多大な不便・難儀を強いたことに心から謝意を表したい。
 この通りだ」

 先ずレイナートはそう言って頭を下げたのである。

 唖然とする郡長、村長達である。
 ご領主様の今回の帰国は国王陛下となってである。それだけでも驚きなのに相変わらず自分達に頭まで下げられている。何も変わられていない。それが大層嬉しく、また畏れ多いことでもあった。
 したがってこれはもう恐縮するなと言う方が無理である。慌ててこちらも深々と頭を下げていた。

 だがクレリオルやギャヌースといった、同行していた家臣達は目新しいことではないからさして驚いた様子はない。途中の街の代官所や貴族との会見でも見られたことだからである。

 国王が臣下に頭を下げる。それは本来決してあってはならないことである。だがレイナートは頓着しなかった。
 これが王城トニエスティエ城であったら口うるさい重臣らがいるからそう簡単には出来なかったろう。だが一旦城の外に出てしまえばこっちのものと言わんばかりに、レイナートは行幸の間、思うがままに振舞っていた。

「人に謝意を表するのに頭を下げないなどあるか!」

 レイナートに言わせればそういうことであり、別に自分がおかしなことをしているという意識はなかった。

 だがその夫人達はやはり驚愕を隠せないといった表情であった。
 家臣らの内、いまだ妻帯していないナーキアスとヴェーアの二人以外は、その妻子を領地まで先行させていた。したがって夫とともに彼女らもこの謁見の場に居並んでいるのであった。


 行幸が正式決定した時、レイナートは家臣らに妻子の同行を許可した。せっかく領地に戻るのである。彼女らも久々に領地で羽根を伸ばしたかろう、と……。
 平素は狭い ― と言っても建物自体は巨大だが ― 王都のフォスタニア館でひしめくような暮らしを余儀なくされている。したがってどうしても窮屈さを感じることは無理からぬ話である。だから久々の息抜きということで同行を許したのである。

 だが、これには宰相が反対した。

「物見遊山の旅ではありませんぞ!」

 確かに行幸は国費で行われる。それなのに随員が家族を伴ったら職権濫用と言われても文句は言えない。そこで妻子らはナーキアスとヴェーアの護衛の元、別途リンデンマルス公爵家の一行として隊列を組んで先行し、カリエンセス城にてレイナートを出迎えたのであった。

 そうして夫人らは平然と構えている夫らの脇腹を小突いたりつねったりしていた。
 仮にも貴族の当主、まして国王が平民に頭を下げる。そういうことがあっていいはずがない。そう思うのに自分らの夫が泰然自若、悠々と構えていたからである。

 だが家臣らにすれば、とにかく主人は変わり者。今さら何を言ったところでどうにもならないのはわかりきった話である。となれば要は、レイナートの振る舞いによって必ず何かが起きる。それが怒涛のような大波であろうが、微かな小波(さざなみ)であろうが、その時に適切な対処が出来ればいいということであった。


 皆と共にその場に並んでいるクローデラもつくづく思う。

―― レイナート様はちっとも変わられていない……。

 レイナートの女官となったクローデラも今回の行幸には同行していた。
 イステラ国内有数の貴族、しかも公爵家の令嬢がたとえ国王のとはいえ、女官を務めるというのは前例がない。だがレイナートが受け入れた以上、女官として働かせなければならない。そこには女官長サイラの並々ならぬ苦労があった。

 レイナートとクローデラの過去の経緯を知らないサイラではない。それからするとクローデラを北宮において、すなわちレイナートの私生活の場で働かせるというのはどうにも問題がありすぎる。エレノアも決して快くは思わないだろう。サイラにはそう思われた。
 そこでクローデラは正殿の女官として配属された。正殿は公の場として常に誰かの目がある。決してないことだとは思うが、焼け木杭(ぼっくい)に火がついては困るし、人目があれば間違いの起こる可能性は相当低いはずだからである。

 女官となったクローデラは嬉々としてレイナートに仕えている。正殿での女官の仕事といえば、女性でも入室が許される部屋での茶の給仕くらいのものである。だがクローデラは少しも不満な様子を見せずにせっせとレイナートにお茶を出している。それがサイラには不気味でもあった。

 クローデラにしてみれば、一旦は皇太子の婚約者となりながら婚期を逸し、今では全くの行かず後家である。今更実家に帰って肩身の狭い思いをするくらいなら、すっかり住み慣れた王宮で働く方がよほどいいのである。
 しかも女官という立場でありながら住まいは再建なった西宮の一室が与えられている。
 元皇太子の婚約者、公爵家令嬢。その立場を鑑み、レイナートがそう決定したのである。

 クローデラにとってこれは何よりもありがたいことであった。西宮は世話になりながら何一つ恩返しの出来なかったセーリアとともに過ごした場であり、また幼い頃のレイナートの生活の場でもある。今ではその面影は殆ど残っていないが、それでも故人を偲び、またレイナートのために働くにはこれほどの場所はなかったのである。

 もちろん女官とはいえただのお茶くみの毎日に全く不満がないとは言えない。
 だがレイナートの側に誰憚ることなくいることが出来る。それが何物にも代えがたいことであったのである。


 さて、帰国早々の謁見も束の間、直ぐに宴が催された。仕方ないとは言え、放置してきた家臣・領民らに対する、また随行してきた者達へ対するレイナートの労いからである。

 とにかく当初の予定が変更され、一行は領地では正味二日しか過ごすことが出来なくなった。復路に貴族との会見が多数盛り込まれたからである。
 これではゆっくり領地を見て回る ― もっとも初めから領内全域を見るだけの時間的余裕はなかったが ― ことも出来ない。レイナートにすれば家臣や郡長・村長達から直接話を聞きたいし、かと言って彼らを労うための時間を削ることもしたくない。

 そこでレイナートは領地へ到着する前に指示を出し、到着したその日はとにかく宴としたのである。先ずは皆を労うことを優先させるというレイナートならではの心配りであった。

 そうして領内の全員に酒を振る舞うようにも指示を出していた。それは正式には領民でなく領内で商いをしている者達にもである。到着時の熱狂的な出迎えも実はそれが一因であった。
 特に酒に関しては最近売れ行きがさっぱりで在庫を多数抱えている。これを多く放出させたのであるから誰もが喜んだのは言うまでもない。領民らは酒など年に一度、秋祭の時ぐらいでしか飲めないからである。

 そうしてそれは行幸の随員らも同様である。
 リンデンマルス公爵家のぶどう酒といえばその味の良さもさることながら、その高額なことでも有名で、滅多に口にすることの出来ない、いわば垂涎の的である。それが惜しげも無く振る舞われたのであるから当然であろう。
 そこで早速、飲めや歌えやの大騒ぎ、にはさすがにならなかった。

 何と言っても主催者が国内有数の大貴族であり国王なのである。その前で醜態など晒したらイステラでは生きていけなくなる。随員は皆公式の任務として行幸に参加しているからであって、無礼講であっても羽目を外すなど論外だからである。

 とにかく城内は何処も彼処も人だらけ、といった感がある。
 特に中庭は冬期学校のための学舎が多数建てられているから、かなり手狭になっているということも影響した。
 だがこの学舎は貴族身分を有する人々の興味を引いていた。近衛兵や各省派遣の官吏、侍従、女官達などである。
 先の新規官吏採用では多くのリンデンマルス公爵家領民が登用されている。その実力を支えているのがこれなのか、ということである。彼らは許可を得て交代で学舎の中を見学させてもらったり、寄宿舎となっている建物内部を見て回ったりと、宴でありながら城内の「視察」に余念がなかった。
 そうして一通り見学が済むと、再び食事に勤しんだのである。

 出された料理は牛、豚、羊、鶏が多数丸焼きにされ、採れたての野菜を軽く塩で茹でたものも供された。料理とはいえその程度である。宴で飲み食いする人数からすれば当然のことだろう。まさか手の込んだ料理を数百人分も用意など出来ないからである。
 だがそれでも皆おとなしく料理に舌鼓を打ち酒を楽しんだ。殊に同じ随員と言いながらほとんど口を利いたこともないような者達は、この時を利用して大いに交流を深めていた。


 当のレイナートといえば家宰ゴストンや商務担当オイリエ、主城会計役クスト、またシュルムンド、グレリオナスが不在となっているため公爵家主席教育担当となったガミロなど、公爵家の主要職にある者達や、郡長、村長らと代わる代わる話し込んでいた。
 話し込むとは言いながらも彼らから即位の祝を述べられ、それに対して礼を述べるという程度のものである。

「とにかく皆の者には迷惑を掛けた。その上これからも迷惑を掛け通しになりそうだ。それがなんとも心苦しい……」

「いいえ、迷惑などとんでもない。ご領主様、いえ、陛下のお陰で私達の暮らしも年々安定しおります。今はぶどう酒の売上が落ち込んでいますが、いずれはそれも取り返すでしょう。どうぞ心安らかにお仕事にお務め下さい」

 ひとしきり頭を下げるレイナートに皆が首を振ってそう言ったのである。

 確かにレイナートが領主となる前、先代の頃は最悪のどん底であった。何時奴隷とされるか、はたまた飢えて朽ち果てるか。明日をも知れないとはまさにこの事という日々だったのである。それからすれば今はとても同じリンデンマルス公爵家とは思えないほどの変わり様である。

「出来れば皆の話をじっくりと聞きたいのだが、あいにく予定が替わって明日一日しか時間が取れぬ。
 申し訳ないが明日は各人簡潔に要点だけの報告を心掛けて欲しい」

 レイナートは再び申し訳無さそうにそう言ったのである。


 ところで彼らはそれまでと同じように立ったままレイナートと話をしていたのだが、ふと思い出した者がいた。

―― そうか! ご領主様はもうただのご領主様ではないんだ! 国王陛下となられたんだ。私は今、国王陛下に親しくお言葉を頂いているんだ!

 国王となって周囲からやいのやいの言われるから言葉遣いが若干尊大となったレイナートである。
 だがそれはようやく貴族らしく、国王らしくなったというだけのもので、それ以外は少しも変わるところのないレイナート。それ故彼らは目の前の人物が国王であることをすっかり忘れてしまっていた。
 だがレイナートがそれを咎めるようなことはない。極々気さくに以前のように話をしている。

 それがいかにもレイナートらしく、その場の一同改めて「この御方のために」という思いを強くした夜であった。

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