聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第2章

幕間 とある少年の苦い思い出

 イステラ王国、王城トニエスティエ城二の郭。大通りから少し奥まった所に内務省の庁舎が建っている。その正面玄関、馬車寄せに一台の馬車が停まった。
 総黒漆塗りの箱型馬車の扉には金泥を塗られた、交差する二本の剣の上に羽を大きく広げる鷲の浮き彫りが施されている。一目で貴族のものとわかる紋章である。
 御者が御者台から素早く降り、踏み台を置いて扉を開ける。中からは端正な顔立ちの金髪の少年が降りてくる。
 少年は十三歳。いまだ成長途上の身の丈に合わぬ長剣の柄をしっかりと握り、鞘の先が馬車や地面に当たらぬように気をつけている。

「行ってらっしゃいませ、旦那様」

 御者は少年に向かってそう言うと深々と腰を折る。
 少年は気恥ずしさからか顔を赤らめているが、意を決したように声を張り上げた。

「行ってきます!」

 内務省に出勤してくる官吏達も馬車の紋章に目を瞠り、遠巻きにしつつ少年に向かって腰を屈め頭を下げる。
 今日は秋期官吏採用試験に合格した者達の初登庁日。故に五大公家の一つ、リディアン大公家当主エネオアシスも皆に混じって登庁してきたのであった。


 レイナートの王都帰還と相前後して行われた秋期官吏採用試験。今回は今までで一番志願者が少なかった。しかしながらその顔ぶれは前回の陪臣貴族の子女、そうして前々回の平民と異なり直臣貴族の子弟が多く含まれていた。そうしてその中の一人にリディアン大公エネオアシスもいたのである。

 エネオアシスが官吏採用試験を受験すると聞いた貴族らは一様に顔をしかめたものだった。

―― 五大公家ご当主御自らが官吏となるなどなんとお痛ましいことやある。だがそれ以上に、そのような真似をさせて、国は一体何をしておるのだ!

 五大公家はイステラの全貴族の更に上に君臨し、王家に準ずる存在として特別視されている。事もあろうにその当主が試験を受けて一官吏になるなど前代未聞である。国は何故そのような軽挙妄動を許すのか、というのである。
 だがレイナートはそのような声に対してにべも無く言ったのである。

「五大公家というお家柄、御年十三歳というお若さ。それでも国のために働いて下さろうというお気持ちである。勿体無くもありがたきお志であり頭の下がる思いである。その御希望を踏みにじれと?」

 それでも納得出来ず、実際エネオアシスに思い留まるように進言した貴族も少なくない。だがエネオアシスは首を振った。

―― わたくしは五大公家当主としての務めを何も果たせてはおりません。それはもちろんわたくしが子供だからです。ですからわたくしは、わたくしに出来ることをしようと思い試験を受けるのです。

 それは半分は本音である。だが残りの半分はと言えば、無役故に役料が入らず家の経営が覚束なくなっている事を少しでも補おうということであった。
 だがさすがにそのような恥ずかしいことを言える訳がない。そこであくまで殊勝な態度を示したのであったし、レイナートもそれがわかっているから反対しなかったのである。


 だがこのことは全省の役人達を震撼せしめた。
 五大公家当主といえば大臣として省の頂点に君臨する存在である。それが試験受けて一官吏として配属される? 冗談ではない、とてもではないがそんな部下は持ちたくない、真平御免! というのである。したがって官吏達は心の底からエネオアシスの落第、不採用を祈った。

 だがその願いは叶わなかった。
 五大公家といえばまさに準王族。男子は国王に、女子は王妃となる可能性を秘めている。したがって人の上に立つ者として恥ずかしからぬ素養を磨くため、幼少の頃から教師について勉学に励んでいる。
 それ故エネオアシスは若干十三歳、最年少ながらこの時の採用試験を最優秀の成績で合格したのであった。そうしてその優秀なるが故に内務省に配属となったのである。


 内務省は王家から全貴族、国民の全てに至るまでその血統を把握し、国内の多岐に渡る多くの事柄を管掌する。
 具体的には王家の日常生活、王子・王女の 教育、財産の管理。
 貴族・平民の戸籍管理。
 王都および直轄地の統括。
 近衛隊(王城及び王家の警護)及び衛士隊(警察機構・王国直轄地守備隊)の統括。
 その他、他省とは別に許認可を要する事案の統括である。
 したがってその権力は絶大であり、その故を以って、内務大臣は五大公家の中でも最も高潔とされる人物が任命されるのが通例であるし、配属される役人達も他省の者よりも優秀とされている。

 ところが現在、五大公家には大臣適任者が存在しない。最も年長のドリアン大公は震災で片足を失った上、今では後進を育てるという理由で半ば隠居しているし、その次がこのリディアン大公エネオアシス、十三歳である。
 イステラは実力主義を標榜する。したがって十三歳の少年に大臣職を任命することはなく、現在の内務大臣は元は国軍第二軍司令官だったシュラーヴィ侯爵である。
 そのシュラーヴィ侯爵が訓示を垂れた後、内務省の新人官吏は配属先の各部署に分かれた。
 エネオアシスは系統管理局勤務を命じられた。
 ここはイステラの王族に全貴族、全市民といった文字通り全国民の戸籍を記録し管理する部署であり、まさに内務省の中枢とも呼べる所である。ここで作成・管理されている民籍簿は全国民を記載した台帳であり、これを元に徴兵名簿、納税者名簿が作成され運用されている。更に新たに就学者名簿も作成されることになっている。
 またこの民籍簿に貴族と記載されているから貴族を名乗ることが出来るともされており、まさに己の身分の根拠を証明するものとも言える。したがってその取り扱いは省内きっての最重要事項とされているのである。


 イステラにおいて、奴隷を除く全国民の出生・結婚・相続・死亡は必ず内務省系統管理局に届けることが義務付けられている。それは「変更があり次第速やかに行うべし」とされているが、具体的に何日以内と明確に規定されてはいない。それ故貴族の場合、領民の出生や死亡の届けをその都度行うのは面倒なので、ひとまとめにしておいて折を見て行うことが多い。
 イステラの冬はその積雪の故に人の移動が出来ない。それ故貴族は冬は領地ではなく王都で過ごすことが多い。領地に閉じこもっていても何も出来ないが、王都は奴隷によって不断に除雪が行われている。したがって他家の屋敷を訪ねることも不可能ではない。そうやって社交の機会を設けているのである。
 そうして秋の収穫が終わると家族を引き連れ王都に移り住むのだが、この時に領民の届けをまとめて出すのである。

 とは言うもののやはりイステラの冬は誰もが家の中に閉じ込められていると言ってもいい状態である。となると冬期はどうしても子作りが盛んになる。それら子供が生まれるのが夏から秋にかけて。したがって貴族の移動にちょうど時期も合うのである。そうしてそれに間に合わなかった子や冬の間に生まれた子供が春に届けられるのである。
 したがって届け出が出されるのは春先と秋の終わりに集中しているのが実情である。そうして今は秋も終わりに近づいており、連日、王都に登ってくる貴族から多数の届けが提出されているところであった。


 系統管理局の執務室に顔を出したリディアン大公エネオアシス、緊張の面持ちを隠せない。他の新人と一緒にぎこちない挙動で室内を歩く。
 まずは各自、局長に着任の挨拶をし、次いで課長にと順々に挨拶をして回るのだが、エネオアシスから挨拶を受ける誰もが非常にやりにくそうだった。
 イステラにおける階級社会の中にあって、国王を頂点に一番上から数えても数番目にエネオアシスは位置するのであり、内務大臣であるシュラーヴィ侯爵よりも上なのだから当然のことだろう。

 だがエネオアシスは決して驕ることなく頭を下げつつ言った。

「私は右も左もわからぬ若輩の未熟者です。
 何卒皆様のご指導、ご鞭撻を切にお願いする次第です」

 だが言われる方は額面通りには受け取れない。
 新人のうちは失敗して当たり前だが上司や先輩は時にはそれを叱責しなければならないこともある。だが相手は年下とはいえ自分よりはるかに身分が上なのである。となると厳しく指導するとか、失敗を咎めることなど出来る訳がない。
 官吏全員が出世出来る訳ではないが、エネオアシスは必ず頂点に上るであろう。そういう人物の失敗を咎めて根に持たれたら? 恨まれたら? 憎まれたら?
 そう考えると怖くて指導など出来るものではない。


 この点に関しては些かレイナートの配慮が足りなかったと言わざるを得ないだろう。
 レイナートはその生まれの故に、身分制度という階級社会にあって、常人とは違う感性を持っている。それは大部分において養母セーリアの薫陶によるものと言える。
 レイナートは庶子の生まれ。元服すれば爵士となるはずだった。爵士は貴族身分の最下層、ほとんど平民と変わらないどころか様々な面で自由を制限される分、平民にも劣る存在と言えなくもないところがある。したがってセーリアはレイナートに対し、その身分の低さを嘆き卑屈になることも、逆に、己より下層の者に対して驕ることもないようにと意を用い、その教育を心掛けていた。それが現在のレイナート身分制度や階級制度に対する考え方を形成する土台となっている。
 確かに最近では、リンデンマルス公爵家を継いだばかりの頃に比べれば、格段に貴族らしい、また国王らしい言動が見られるようになった。だがその本質は何も変わってはおらず、誰に対しても横柄に振る舞うとか傲慢な態度で接するということはない。特に全員が歳上であるということもあるからだろう、家臣らに対しても心の何処かで「友人」と思っているフシがあるほどである。
 したがって例えば自分より身分の上の人物が配下にいるからといってやりにくさを覚えたり、逆に自分より身分の下の者が上司であっても何ら気にかけることはなく、折り目正しく礼節を以って接することだろう。レイナートとはそういう人物である。
 だがこれは本来であれば異常な事であって、世間一般はそういうものではないのである。
 レイナートはこの点迂闊というか些か考え足らずであった。それが先の発言にもつながっているのであり、もしこのことに最初から気づいていたら、エネオアシスに受験資格の年齢引き下げを懇願された時に、他の貴族と等しく受験そのものを思い留まらせていたかもしれない。


 だが事実はそうではなかったから、結果、誰もがエネオアシスと関わりを持ちたがらず、それ故挨拶がひと通り終わりさて業務について説明をという段になって、いつの間にかエネオアシスの周りには上司・先輩男性は誰もおらず、この一~二年の間に採用・配属された女性官吏しかいなくなっていたのであった。

 この女性達、初めは遠慮がちに、だが段々とエネオアシスに対してあれこれと質問を繰り出していた。中には十三歳の少年には些か際どい、思わず赤面してしまうようなものまであった。
 まさか十歳近くも年下の少年に懸想しているとか、玉の輿に乗ろうというのではなかろうが、どうも女達の眼の色が尋常ではない。興味津々といった風を隠そうともしなくなっていたのである。
 大体、どういう訳かご婦人方は美少年を大層好む。まあ、いい年をしたオヤジ達も若い娘を好むものだが……。


 それはそれとして、エネオアシスは取り囲まれたまま気圧されてしまい仕事を始めるどころではなかった。大体具体的な業務の説明さえ満足に受けていないのだからどうしようもない。初日から飛んだ目に合ってしまっている。

 そんな何時まで経っても解放されないエネオアシスを見かねた若い女性官吏が一人、人垣をかき分け言った。

「殿下、仕事を始めましょう。説明しますからこちらへ」

「は、はい」

 エネオアシスは慌てて返事をして女の後に続いた。

 声を掛けた女は長い黒髪で顔の左半分を隠している。女性にしては長身で痩躯である。
 周囲を取り囲んでいた女達はその女を厳しい目で睨みつけた。だがその女はそんな視線もどこ吹く風。どころか右半分だけ見せた顔、切れ長の冷ややかな目で女達を見返す。すると女達はたじろいだ。その眼光の鋭さにある種の恐怖を覚えたのである。

 その女はアレアナと言い、この年に中途採用された一人だった。


 アレアナは大きな作業台、自分の右隣にエネオアシスを腰掛けさせ、羊皮紙の束を目の前に置いた。

「これは、昨日提出された出生届けです。これを仕分けして台帳に記入していきます」

 アレアナは静かに説明する。
 エネオアシスを取り囲んでいた女達も諦めたのかそれぞれの席に戻り業務を再開していた。

「まずは仕分けの仕方を説明します」

 アレアナの言葉は淡々としていてまるで感情がないかのようである。エネオアシスは緊張しながら説明を聞いている。

「出生届はまとめて提出されていますから、本来はあり得ないはずですが、偶に地域の違うもの、所属の違うものが紛れていることがあります。先ず最初にそれがないかを確認します。
 そうしないと、いきなり台帳に記入していってもし途中で間違いに気づくと、その頁は全て書き直しになります。それを避けるためです」

「わかりました」

 アレアナの説明にエネオアシスが頷いた。

 出生届は先ず最初にそれが貴族のものか、それとも平民のものかで分けられる。
 出生届は基本的に本人の名、生年月日、両親の名、出生地が記載されている。平民の場合、家系図を作成することはないから届け自体がそれで十分で民籍簿にもそれしか記載されない。
 一方貴族の場合は更に祖父母の名、直臣・陪臣の別、さらに陪臣貴族の場合はその支配の直臣貴族の名も記載されている。それを従来の家系図と照らしあわせつつ間違いのないことを確認した上で民籍簿に記載されるのである。
 ちなみに貴族の出生届は受け付けられるとそのまま貴族担当の官吏に回される。貴族の民籍登録には、もちろん平民の場合もだが、万に一つの間違いもあってはならない。それ故経験の足りない者、未熟な者に対応させないのである。

 平民の出生届は次いでそれが貴族領民か、直轄市民かで分けられる。領民の場合は貴族家ごと、市民の場合は直轄地ごとに分類されていく。そうやって細かく仕分けされた後、台帳に記載されていくのである。

 この仕分けの作業、実は中々難しいものである。
 先ず第一にイステラでは統一された学校教育がいまだ行われておらず、したがって普通の平民では国内の地理などほとんどわからない。地名を言われただけではそれが国の何処なのかわからないことが多いのである。
 また貴族の名前も知らないものばかりであるから、その家名から領地の場所を思い起こすということも出来ない。

 例えば王都。正式名称は国名と同じ「イステラ」である。ところが王城と一体化しており城の名は「トニエスティエ」である。だから王都市民の中にも「トニエスティエ」が王都の名と勘違いしている者が少なくない。

 例えば旧ウォーデュン伯爵領。今でもレイナートのリンデンマルス公爵家が委託統治している。現在その地は正式には国の直轄領で、ウォーデュン伯爵領でもなければもちろんリンデンマルス公爵領でもない。だがそこに住み、作業に従事するのはリンデンマルス公爵家から派遣されている領民達である。したがってそこで生まれた彼らの子供は親に従いリンデンマルス公爵領民だが出生地は直轄地で記載される。なので直轄市民と勘違いされ易いのである。
 こういうことは他所においても多々あり、要注意なのである。

 もしも個人の出生情報が間違って記載されると、後に徴兵や徴税の通知が誤った所に送られて本人に届かないということが起こりうる。イステラでは兵役逃れも脱税も重罪である。逮捕され市民籍を剥奪される。すなわち奴隷に落とされるのである。したがって民籍簿の記載間違いはその人の人生を狂わせることになりかねない。故に、この仕分け作業は経験豊富な先輩や上司の監督の下に行われる。
 同時に新人達は、イステラ国内の地理、すなわち貴族領の名や直轄領の名、そうしてその位置をこの作業を通じて学んでいくのである。


 ところでエネオアシスはさすがにリディアン大公家当主。国内の直臣貴族の名もその領地の位置も、また直轄地についても知らないということはない。
 では仕分け作業は順調に進んだかというとそれがそうでもない。それは届けに書かれている文字に読めないものが多かったのである。
 と言ってもエネオアシスは文盲ではない。それは達筆の上に崩した書き方、もしくは単純に悪筆であったからである。


 手にした出生届を穴のあくほど見つめているエネオアシス。これが「正しく読ませるつもりがあるのか!」と言いたいほどの悪筆でどうにもこうにも読めなかった。とりあえず読めないから後回しにしようとしたが、同じ字の届けが十数枚続いている。初っ端から匙を投げ出したくなるような気分になってしまった。

 顔を赤らめ出生届けを睨んでいるエネオアシスにアレアナが声を掛けた。

「どうしました、殿下?」

「いえ……、どうしてもこの字が読めなくて……」

 泣き出しそうな情けない声で返事をした。

「見せて下さい」

 アレアナはそう言うとエネオアシスの手から出生届を受け取る。

「これは確かにひどい字ですね……」

 アレアナも顔をしかめた。

「直轄地の代官所の役人の中にはわざと汚い字で書く者がいるようです。地方勤務が気に入らないからと……。
 改めるように通達は出されていますが、徹底されていないようです」

「そうなんですか?」

「残念ながら事実のようです……。
 ところでこの字ですが、こちらと見比べて見て下さい。こちらは読めませんか?」

 そう言ってアレアナは同じ字の別の届けをエネオアシスに見せた。そちらの方が幾分字がまともで、出生地のところがかろうじて「ガムボス」と読めた。

「これはガムボスの代官所から出された出生届ですね。これを『ガムボス』と読むなら、こちらは『グレムシア』と読めませんか?」

 アレアナにそう言われたエネオアシス、なんとなくそういう気がしてきた。

「そうやって同じ字の物をいくつか並べて見て、そこから読み取っていくんんです」

「はあ、大変ですね……」

 思わずエネオアシスが溜息を吐く。

「ええ。まるで古文書を解読している気分を味わえます」

 微かな笑みを浮かべてアレアナは自分の仕事、同じく出生届の仕分け作業に戻ったのである。


 エネオアシスは少しずつ作業に慣れていき、出生届の束も減っていった。
 すると午前の中の刻の鐘が鳴り響いた。

「お疲れ様です。休憩しましょう」

 アレアナはエネオアシスに声を掛けた。

「はい!」

 ヤレヤレという顔だったエネオアシス、元気一杯に返事をした。こういうところはまだ子供であった。

「私は朝食を摂りに参ります。殿下はいかがされますか?」

「わたくしも一旦屋敷に戻り食事をして参ります」

 アレアナの問にエネオアシスはそう答えた。

 この当時イステラではまだ三食を食べるという習慣が確立していなかった。一般的な基本勤務時間は日の出から日没まで。したがって人により食事の摂り方はまちまちだった。
 だが多くの場合、朝昼晩と三食食べる者、午前と午後の中の刻の鐘に合わせて食べる二食の者とに分かれていた。三食食べるのは商会の人足など肉体労働の者で、それ以外は二食という者が多かったのである。
 そうしてエネオアシスもアレアナも後者であった。


 アレアナは庁舎を出ると三の郭に向かった。宿屋の中には昼間、食堂だけ開業しているところがあり、そこでは手頃な値段で食事をすることが出来たのである。アレアナは普段それを利用していた。

 アレアナが住むのは四の郭、新築された国営官舎である。これはレイナートの指示で急遽建造されたもので、要するに丸太小屋の幾分上等なもの、と言った感である。
 イステラの基本建築工法は分厚い石を敷き詰めてその上に木柱を立て煉瓦を積み上げるというものである。だがこれでは基礎となる大石を切り出して運んでこなければならず時間も労力も多大に必要とする。
 そこで考案されたのが高床式の丸太小屋である。

 王都では奴隷の手による除雪が行われるとはいえ、積雪の多いために床を高くしないと雪解けまで完全に屋内に閉じ込められてしまうことになりかねない。したがって床を高くすることは必須である。
 だが一般庶民の家の場合、それを除けばあとはあまり気を使うところが少ない。便所は屋外の共同のものを使うし、井戸もそうである。専用の浴室があるというのは貴族屋敷でも滅多にないから論外。あとは煮炊きする(かまど)の有無くらいだが、この国営官舎には暖を取るのと兼用の小さな囲炉裏のようなものが(しつら)えられただけであった。とにかく突貫工事で手早く建てるためである。
 したがって官舎に住む者達は基本的には外食をせざるを得ないのである。

 そこで各宿屋も工夫をこらし始めたのであった。宿泊客というのはそう簡単に増えるものではないが、食事だけの客というのは工夫次第で増やせる。
 客が多く集まれば食材もまとめて注文出来るから仕入れ単価が下げられる。その分価格も下げることが出来る。そこそこの量があって手頃な値段というのは誰にとっても魅力的であるから、あとは味がまともなら客が付かない訳はない。
 結果、利用客にとっても宿屋にとっても好都合ということになったのであり、王都内で営業している宿屋は日中は食堂だけ営業するのが一般化していたのである。


 さて、食事を済ませ職場に戻ると再び出生届とにらめっこである。
 秋の貴族の王都への移動は街道の混雑を避けるために日時をずらして行われる。したがって出生届も逐次提出されてくる。よって午前中に減ったはずの出生届は午後になると逆に増えているということが往々にしてある。それ故、正午の鐘に合わせて短い休憩を取り、午後の中の鐘に合わせて再び食事に出る以外は日がな一日、出生届と格闘する羽目となった。
 仕分けした出正届はアレアナに確認してもらってから次の届けの山に進む。それを繰り返すのだが、その間にも新たな届けが受付から回ってくる。したがって目の前の出生届の山は一向に減る気配がない。

 気負っているとはいえ所詮は十三歳の少年、初日から目一杯働いてぐったりとしてしまったエネオアシスである。日の入りの鐘に深い溜息を吐いてトボトボと玄関に向かい馬車に乗り込んだのであった。


 翌日は日の出の鐘とともに登庁、同じく出生届の仕分けに勤しむ一日であった。
 相変わらず悪筆の出正届が多かった。初日に比べれば幾らかでも慣れているはずだが、汚い字を読むということが劇的に上手くなる秘訣などある訳がないからその進捗に目立った変化はない。
 勤務時間中仕分け作業に勤しみ、中の鐘の音が聞こえると屋敷に戻って食事をし、職場に戻れば出生届とにらめっこ。初日と何も変わらない一日であった。
 したがって通常であれば来る日も来る日もこれをさせられる新人はやがて辟易してしまう。だが元来生真面目なエネオアシスは一生懸命に作業に従事している。それで余計に疲労困憊し仕事を終えて屋敷に帰る時には、まさにグッタリという表現が似つかわしい。

 そうして三日目、エネオアシスの足取りは朝から重かった。十三歳の少年が大人に混じって同じ仕事をするということに、心理的な圧迫があることは致し方無いだろう。十一歳で五大公家の一つリディアン大公家の家督を継いで当主となったということも遠因であろう。
 当主として自分が何とかしなければならない。そう考えて自ら働きに出た責任感の強い少年なのである。だがやはりまだ子供、とも言えたのである。

 エネオアシスは出来る限り他人、すなわちアレアナの助けを借りないようにと考えていた。実際、読めないものはどうしても読めないのだし、他人の手を借りてどうにかなるものでもない。それでも時々はアレアナの方から声を掛けたので、その時は素直に相談もした。
 アレアナは二日目からエネオアシスの専属教育担当になっていた。アレアナ自身まだ配属されて半年しか経っていない新人なのにである。
 男性職員はエネオアシスの身分に気後れして近寄らないし、逆に女性職員らはエネオアシスの仕事の面倒を見ることに気を取られて自らの手を止めがちであった。そこで局内に通達が出されたのであった。

「殿下、いかがですか?」

「大丈夫です」

 先輩として時々声を掛けてくるアレアナに対しエネオアシスは胸を張る。ご心配なく、と。
 確かにこの程度で音を上げるようなら、初めから勤めをする資格はないと言われてしまうだろう。虚勢であれなんであれ、弱みを見せてはならない。それが貴族というものである。


 そうしてその様子を物陰から窺っている若い男の姿があった。それは誰が見ても不審な様子であった。

「あの……、何か御用がおありなのでしょうか?」

 その若者に職員の一人が声を掛ける。不審に思いつつも丁寧な尋ね方なのは男が長剣を提げているからであった。

「剣の国」イステラにおいて、王都内で長剣を提げられるのは貴族身分の者だけ。そうしてその提げ方は階級によって細かく規定されている。他国の者からすればそれは余りに微妙な差で違いはよくわからないが、イステラ人なら誰もが知っている。どころか知らないと生きていけないというほどの、厳しい罰則を伴ったがんじがらめの規則なのである。
 だがその職員も若者の剣の提げ方に見覚えがなかった。侯爵以下なら大抵は見知っている。五大公家の提げ方も新たに知った。だがそれ以外は直接目にする機会がなくて知らなかったのである。したがって職員には若者はかなり高位の貴族であると想像出来たので、それが丁寧な尋ね方につながったのである。

「いや、なんでもない。気にしないで欲しい」

 不審を抱かれて誰何されたのに「気にするな」もないものだが、若者はそのように答えた。そうして若者はさして大きな声を出した訳ではないが、そのよく通る声は部屋中の者の耳に届いた。

 エネオアシスはガバっと立ち上がった。勢いが良すぎて椅子は倒れ肘掛けに立て掛けていた剣も倒れる。

「陛下!?」

 目を真ん丸に見開いてエネオアシスは半ば絶叫気味の声を出していた。

 イステラにおいて「陛下」と呼ばれる身分の人物は多くても三人。そうしてそのうち男性はただ一人、国王だけである。そう、その不審人物はレイナートだった。
 五大公家当主の身にありながら、そうして十三歳という年齢で役所勤めを始めたエネオアシスの様子を陰ながら見に来たのである。

 その場に居合わせた誰もが膝をつき頭を垂れた。
 突然の意外の出来事にエネオアシスも膝をつこうとする。だが五大公家当主はただ頭を下げればいいというものではない。誰が何時定めたのかはわからぬが、国王に頭を下げる際も腰に剣を提げていなければならないという規則がある。そこで剣を拾い上げ腰に提げようとする。だが緊張と焦りで上手くいかない。グズグズもたもたしている間にもレイナートは近づいてくる。
 見かねたアレアナが手を差し伸べた。

「失礼致します、殿下」

 アレアナの手を借りて何とか体裁を整えたエネオアシス、膝をつこうというところでレイナートに押し留められた。

「いや、リディアン大公殿下、そのままで……」

「しかし、陛下……」

「いえ、構いません。
 お前達も直りなさい。たかが人一人のために一々仕事の手を止める必要はない」

「!?」

 王自らが王にあるまじき発言をしていることに誰もが困惑する。当然その場で跪いたまま動かない。

 レイナートは溜息を吐いた。

「勅命である。業務に戻りなさい」

 役人達を従わせるのに最適な言葉を口にしたレイナートである。
 勅命と言われたら逆らえない。その場の全員が席に戻り業務を再開……、しようにもレイナートの出現が気になって手は止まったままである。


「いかがですか、殿下。仕事には慣れましたか?」

「はい。なんとか……」

 レイナートの問いかけにエネオアシスが首肯した。
 仕分け作業は書かれている字が読めさえすれば何も難しいことはない単純なものである。しかも仕分けとは言うものの要するに提出された届けの内容を台帳に記載する前に確認するだけでしかない。

「何をなされているのですか?」

「出生届の確認作業です」

 レイナートの問にエネオアシスは作業台の上の出生届の束を指さした。
 レイナートはその上の一枚を手に取った。これが非常な悪筆でレイナートも直ぐには書かれている内容がわからないほどだった。

 出生届は特別定まった書式というものがある訳ではない。だが記載する内容が決まりきっているから特別な形にも成り得ないものである。

「これは何と書いてあるのかわからんな……」

 レイナートが呟く。

「代官所の職員の中にはわざと汚い字で書いている者もあるということです……」
 エネオアシスは些か腹立ちまぎれの表情である。
 だがレイナートは特に何も言わなかった。もしそれが事実であればとんでもないことだが、実際は全部が全部そうでもなかろうと思っていたからである。


 例えばリンデンマルス公爵家の場合、出生や死亡の届は各村長が取りまとめて郡長に提出する。それを郡長が支城城代に、支城城代が家宰に提出し、それを最終的に家宰が取りまとめて一覧表にして領主であるレイナートに見せ、領民を管理する台帳に綴るというのが一連の流れである。郡長という行政区分のあるなしの差はあるが、これは他の貴族領でもほとんど変わらない。
 そうして集められた届を一括して内務省に提出するのである。何故一覧にして提出しないかといえば、基本的に一人ずつ随時提出するという原則があるからである。

 ところで村長はどの貴族領・直轄地でも大抵は身分は平民である。そうして村長だからといって必ずしも読み書きが出来るとは限らない。
 平民の場合、例えば商人なら契約書の作成、売り上げや在庫の記録のために読み書きは必須である。だが同じ商会に勤めていても倉庫での荷の積み降ろしをする人足の場合、字が読める方が望ましいが必須ではない。
 平民の場合、親に習う以外は字を覚える機会が少ないのが実情である。クレリオルは爵士の時、近所の子供を集めて読み書きや計算を教えていたが、こういう「暇人」はイステラにはほとんどいない。奉公先でも教えてくれるというのはなかなかないのである。
 実際に細かく調査して統計を取っている訳ではないから正確なところはわからないが、イステラにおけるこの当時の平民の識字率は決して高いものではなく一割とも二割とも言われている。

 それでもリンデンマルス公爵家の場合、冬期学校で子供達が読み書きを習っているから、必要に応じてその中の誰かに頼んで清書させるということが出来る。しかも教師はシュルムンド、グレリオナス、ガミロといった教育の専門家であり、特にシュルムンドとグレリオナスは教育大国エベンスの出身。したがってその文字は綺麗で丁寧で美しい。それをお手本にしているから平民でありながら貴族が書くような字が書ける。
 そうしてこのことはリンデンマルス公爵家だからの話である。他の貴族領で平民に対し教育を施しているところなど皆無だし、それは直轄地も同じ。いまだ国として国民に教育を施してはいない。したがって提出されている届の文字は必ずしも意図して「汚く」書いているとは限らないのである。
 だからこそレイナートは国民に等しく教育を与える必要を感じ、その準備を進めさせているのである。


「色々と大変ではありましょうが頑張っていただきたい」

 手にした届を元に戻しつつレイナートはそう言った。

「ありがとうございます、陛下」

 嬉しそうにエネオアシスは答えた。


「ところでお前は我が領民だな? 名はなんと申す?」

 そこで今度はレイナートはアレアナに向かって声を掛けた。
 周囲はもちろんアレアナ本人も驚いている。領主が一々領民の顔など覚えているのは稀だからである。

「ご明察にございます、殿下。アレアナと申します」

 再び椅子から降りて跪いたアレアナが答えた。

「そうか。お前は『顔』か? だとすれば女の身で苦労の多いことだったろう」

 続くレイナートの言葉にアレアナの顔が一層驚きに満ちている。

「……」

 アレアナは驚きのあまり言葉にならない。
 それは周囲も同じこと。陛下は一体何のこと仰っているのだろうか、と……。
 レイナートはアレアナの雰囲気、わずかな立ち居振る舞いから元暗部だろうと当たりをつけたのである。
 暗部が正式に解散され、その一部は王国情報室に、残りの者は各省に職員として配属された。アレアナはその一人であり、レイナートの推測は正しかったのである。

 アレアナはしばらく動揺していたものの直ぐに己を取り戻し改めてレイナートに頭を下げた。

「もったいないお言葉を賜り恐悦至極に存じます。殿下の仰る通り、手前は幼い時に疱瘡(ほうそう)を患い左目を失い、顔や体の一部に醜く痘痕(とうこん)が残っております故、このように髪で隠しております。不躾をお許し下さい」

 ゴロッソはかつてレイナートに、暗部の者は身体の何処かに欠陥があると説明したことがある。その欠陥の故に常人の暮らしが出来ない。だから暗部で生きることになったと……。
 そうしてイステラ暗部の場合、両性具有のような先天的な理由も多かったが、アレアナのような後天的な理由で暗部の一員となった者も少なからず存在した。

 暗部の主任務は人知れず行う諜報、暗殺、破壊、誘拐などであり、その故に変装や潜入技術を身につける。
 ところがアレアナの場合、その外見の故に陽動を担当することが多かった。わざと醜いアバタ面を晒して相手の注意を惹き、仲間の潜入を始めとする工作を支援するというものである。
 例えば物売りなどに変装して城門を守る兵士の注意を自分に引きつける。若い女であるから兵士らは当然からかうようなことを口にする。大抵は醜いアバタを見ると余計に興味を持つ。アレアナの痘痕は顔だけでなく首筋から肩、胸元にまで残っている。時にはそれを蔑むために身体検査と称して裸にさせるのである。こういう場合アレアナの任務は時間稼ぎであり、自分が騒ぎを起こすことは禁物であるから短剣一つ身につけないで裸身を晒すということも多々あった。
 兵士の前に姿を表すというのはそれだけ危険を伴う。ましてアバタが決め手となって本人と特定されやすい。したがって潜入しての工作よりも余程危険なのである。それ故アレアナは武器を使っての戦闘ももちろん素手での格闘、殺傷技術にも長けている。

 暗部は時に色仕掛けも行う。
 男が貴族の夫人や娘をたらしこむ場合は遠慮会釈はない。言葉巧みに取り入って貞操を奪い、今度は不貞を理由に脅しをかけ、重要な情報を聞き出したり裏切らせたりというのは普通である。
 だが暗部の女が男を手玉に取ることはあっても肌身をそう簡単に許すことはない。それはどうしても妊娠の恐れがあるからである。妊娠中絶は胎児だけでなく母体の命をも奪いかねない危険極まりないものである。また確実な避妊法 ― それも女の側で行える ― というのも存在しない。したがって身体を許すことを織り込んだ作戦というのは実は滅多にないのである。したがって元暗部の女達は実はほとんどが未通女(おぼこ)である。

 それはさておき、アレアナが省勤務となったのもこの痘痕が理由であった。新設された王国情報室は総員五十名と数が限られている。その選に留まれるほどの能力はあったが、やはり外見が人の耳目を引き過ぎるということなのであった。


「アレアナ、殿下をお助けするように。頼むぞ」

「御意にございます」

 レイナートの言葉にアレアナが力強く頷いた。

「さて、皆の者、手を止めて済まなかった。今後とも職務に精励して欲しい。以上である」

 レイナートはアレアナの言葉に満足気に頷いた後、そう言い残すと踵を返して立ち去ったのであった。


 レイナートの去った後、エネオアシスはしばらくアレアナを見つめていた。それこそ、穴が開くほど、である。

「殿下……」

 アレアナもさすがに頬を赤らめる。常に沈着冷静な元暗部とはいえ、美少年にジッと見つめられたら気恥ずかしさを覚えても不思議ではない。

「あっ! ごめんなさい」

 エネオアシスも慌てる。

 アレアナはそこそこ整った顔立ちをしている。したがってエネオアシスはアレアナが髪で顔を隠していることを疑問に思っていた。だが疱瘡の痘痕が残っているのならそれも(むべ)なるかなである。


 この後、局内のアレアナを見る目が変わった。それまでは、暗くて地味な、目立たない女という見方であった。だが、何せ国王陛下から直々、お言葉を賜った女である。陛下の覚えめでたきと言えなくもない。
 だが当のアレアナは全く動ずることなく黙々と作業に専念し、エネオアシスもそれに倣った。

 否、その日以降エネオアシスも変わった。
 先ずは馬車による登庁をやめ徒歩で通うようになった。アレアナが四の郭から毎日歩いて来るからである。
 確かにリディアン大公家の屋敷と内務省の庁舎ではいくらも距離はない。だが貴族はその威儀を見せつけるためにも馬か馬車に乗る。したがって家臣らは反対したが何処で聞いてきたのか、レイナートもかつて屋敷と王宮の間を歩いていたということを引き合いに出し、歩くことにこだわったのである。
 内務省の庁舎は大通りから少し奥まった所にある。したがってエネオアシスはアレアナと肩を並べて大通りまで歩くことを望んだ。大通りからは方角が逆だから、わずかな時間でも一緒にということである。
 そうして中の鐘の時に合わせた食事もアレアナに同行したがった。だがこれはさすがに許されないことである。貴族の食するものは必ず毒味を経ている。宿屋の食堂ではそれが叶わないからである。

 そうして何よりも変わったのはエネオアシスの眼差しである。アレアナに対し常時熱い視線を注いだのであった。
 エネオアシスはレイナートの突然の訪問の時、剣を提げるのに手を貸してくれたこと、日々の業務の中で優しく色々と教えてくれることに感謝していたが、いつの間にかそれがアレアナに対する慕情へと変わっていたのであった。
 確かにこのくらいの年齢の少年は年上の、大人の女性に憧れを抱くことが多い。日に日にその眼差しに単なる好意以上の熱い感情が籠もってくることにアレアナは困惑した。

―― 困ったことになった……。

 エネオアシスはアレアナに対する思いをはっきりと言葉にした訳ではない。だが俗にも「目は口ほどに物を言う」と言う。
 氏素性も知れない元暗部の女に五大公家当主が興味 ― それも異性としての ― を持っていいはずがない。しかも仕事を半ば放り出し気味にであるから尚の事である。


 そうしてエネオアシスの着任から十日目、事件は起きた。

 正午の鐘が鳴り、休憩となったところでエネオアシスがアレアナに言ったのである。

「今日の午後、一緒にお食事はいかがでしょうか? 屋敷にご招待したいのですが……」

 貴族が女性を屋敷に招待する。双方が独身の場合、それは相手を結婚の対象として見ているということが多い。
 したがって女性の返答が、招待を受け入れるか否か、他の友人を伴うことの許可を求めるか否かで、返答の内容におおよそ推測が出来る。だがそれは貴族の場合。アレアナは平民であるから先ず第一にエネオアシスの申し出を断れない。断れば不敬であるとして重罪に処される可能性がある。
 エネオアシスがそこに気づいていたかどうか。おそらくは気づいていなかったことだろう。五大公家当主の身分・立場は決して軽いものではない。その一挙手一投足が人の人生を大きく変えることがあるのは論を俟たない。それからすればエネオアシスの申し出は軽率の誹りを免れないものであった。

「何故わたくしのような者をご招待下さるのですか?」

 アレアナの問にエネオアシスは幾分照れながら答えた。

「アレアナさんには色々とお世話になってますし……」

「それは陛下のご命令だからであり、元々私の仕事だからです。わたくしは殿下に恩を売るためにやっていたのではありませんよ?」

 その言葉を聞いてエネオアシスは一瞬目を瞠り、やがて悲しげな表情を見せた。

「ごめんなさい。ご迷惑でしたか……」

「とんでもない。光栄なことだと存じますが、わざわざわたくしを食事に招いてまでお礼をして下さる必要はありません」

「でも……」

「申し訳ございません。ご不浄に参りたいのですが、続きはその後でよろしいでしょうか」

 エネオアシスが何か言おうというのを遮ってアレアナは言ったのであった。

 皆の注目を一心に浴びたアレアナはそのまま内務省の庁舎を出た。早足で二の門を通り抜け三の郭へ入った。目指す先はイステラ商会である。


 目指す建物に着くと「ごめん下さい」と言って中に入ったアレアナを出迎えたのは中年の下女だった。

「いらっしゃいませっと、アレアナ、お前か……」

「ゴロッソ様、その身なりは一体……?」

 アレアナに問われ下女姿のゴロッソが笑う。

「あいにく人がいないのでな……。足腰立たぬ老人のはずがテキパキと箒を使っていてはおかしいだろう? 放っておくとホコリだらけになってしまうのでこうして掃除をしている。要するに人手が足りないので私がやっているということだ。
 それよりどうした? 確か内務省に勤めたのではなかったか?」

 箒の手を止めてゴロッソが尋ねた。

「実は……」

 アレアナはたった今起きた出来事を静かに切り出した。

 エネオアシスは単に食事に誘っただけ。だがアレアナはそれを断れる立場ではなく、それだけで終わるという保証もない。もちろんそれ以上になるという保証もないが、いずれにせよアレアナは、意図したのではないにもかかわらず、エネオアシスの気を惹き過ぎてしまったと考えられた。
 もっとも、例えばもしアレアナが思い余ったエネオアシスに押し倒されたとしても、素手で体格のいい兵士を絞め落とし息の根を止められる女である。アレアナの力量からすれば簡単に逃げ遂せる。
 だがそのような事態を起こしてはならないし、そうなる前に避けるべきである。

「そうか、困ったことになったな……。
 それでどうする?」

「どうするも何も、このまま殿下の前から姿を消した方が良いと考えますが……」

「だろうな……。では暗部に戻るか? いや、王国情報室にだが……」

「可能なのですか?」

 アレアナが目を瞠った。

「うむ。一人くらいはどうにかなるだろう。それに王国情報室は、はっきり言って人手が足りていない」

 クレリオルを長とし、ゴロッソが実働部隊の管理監督をする王国情報室。その職員は総勢五十名である。
 その内若干名が王宮内の、それこそ情報室内でクレリオルの側に緊急連絡員として詰めており、このイステラ商会も同様である。残りの四十数名が国内における他国の諜報員の有無を探る業務と、現在新規金鉱山開発に関する世論操作のためにディステニアに潜伏しており、他に回せる人員がほとんどいなかった。このままでは急場の時に後手を踏みかねない。人手が足りていないというゴロッソの言葉は事実なのであった。

「それにリディアン大公殿下の態度。それがお前の思い過ごしならいいが、もし予想通りだとなると今後問題が大きくなり過ぎるのは確かだ。事前にそれを避けるというのは当然のことである」

 ゴロッソはそう言ったのである。
 とにかく相手は五大公家当主。もう既に食事に誘われてしまっており、これを面と向かってアレアナは断れない。もう退っ引きならない所まで来てしまっているのは確かである。

「急ぎクレリオル様に使いを送り許可を得る。
 だが表向きお前は出奔ということになるだろう。お尋ね者になってしまうが良いか?」

 確かに理由もなく、しかも全く支配違いの王室参謀長から配置換えの指示が出たら誰もが訝しむ。それに追手の追跡をかわすということからも、誰にも知られず本人が出奔したということにするのが一番面倒がない。

「構いませぬ」

 アレアナはその言葉に動ずることなく頷いた。
 元々陰の存在だった者が再び陰の存在に戻るだけである。それに表向きはお尋ね者でも実際は違うのだから何も問題ないと思えたのであった。
 だが、心の中を襲う一抹の寂しさも感じずにはいられなかった。もう二度とエネオアシスに会えなくなる、と……。


「そうか。ならばお前はこのままミベルノへ向かい、代官所にいるユリセアに合流せよ」

「了解しました」

「官舎の私物の中に何か重要なものはあるか?」

「いいえ何も。着替えがあるくらいです」

「ではそれは仕方がないが諦めてもらおう」

 無言でそれに頷いたアレアナであった。


 何時迄も席に戻らないアレアナを待ち、エネオアシスは気もそぞろになって仕事が全く出来なくなっていた。

―― 途中で何かあったのか?

 妙な心配までしてしまう。
 この当時のイステラの便所は共同である。ただし貴族屋敷や各省の庁舎は専用のものがあって敷地の一角に設けられていることが多い。
 そこまで見に行ってみようかとも思ったエネオアシスだが、まさか女性用に男の自分が入れるはずもなく、またそのような恥ずかしい真似も出来ない。

 心配が募るうち、その午後の中の鐘近くなって局内に衛士が現れ聴き込みを始めたのだった。理由は内務省系統管理局職員アレアナ出奔の疑惑に関する捜査である。
 系統管理局で扱う情報は全国民のもの。これを持ち出していないか、もしかするとアレアナは他国の間者だったのではないか。そう衛士から伝えられたエネオアシスは蒼白となった。

―― まさか!?

 だが、結局その疑いは晴れ ― 当然のことだが ― 出奔の理由は不明のまま、アレアナは指名手配となって直ぐに捜査は打ち切られた。要するに余人の目を誤魔化すためだけの捜査だったのである。
 だが真相を知らぬエネオアシスは少しも気持ちが落ち着かなかった。

―― どうして?

 この時のエネオアシスには理由がわからなかった。自分の軽率な行為が実際には何を引き起こしたかということを。
 成長するに従い五大公家当主の言動の重さを実感するに至って、ようやくエネオアシスはこの時自分が何をしてしまったかに思い至ったのであった。

 身分の違う人間は、知っていると知らないとにかかわらず、それを隔てる関を越えてはならない。もしそのようなことをすれば、それは往々にして悲劇しか生まず、周囲をも巻き込んで不幸しか訪れない。したがってたとえ同じ職場の人間であっても身分を弁え、節度ある態度で臨むべし。貴族たるもの、平民に安易に情けを掛けてはならない。
 それはレイナートが最も嫌うことであったが、この当時のイステラの、否、大陸のほとんどの国で常識だったのであり、エネオアシスもそれに気づいたのであった。

―― あんなことを言わなければ、アレアナさんとずっと一緒にやっていけたのに……。

 だがその時はもう既に遅きに失し、エネオアシスは二度とアレアナと会うことはなかったのである。

―― 私は何と愚かだったのか……。

 (ほぞ)を噛むしか出来なかったエネオアシスであったが、この苦い思い出がエネオアシスを大きく成長させたのは事実である……。

 さて、そのおよそ四十年後、家督を長子に譲り渡したエネオアシスは自宅でささやかな催しを開いた。それは死別した妻に変わる後添いを、ごく親しい友人に紹介する集まりであった。
 髪がすっかりと白くなり、恰幅のいい体型となったエネオアシスは相手の女性を静かに引き寄せ腰に手を回し、友人達に言ったのである。

「身分が違っても正式に結婚出来る。いい時代になったものだ」

 レイナートによって制定された「憲法」は身分による差別や制約の多くを撤廃するものであった。

 女性、アレアナは長い白髪で左半分を隠した顔を俯かせ、静かにだが何度も頷いた。そうしてその目からは堪え切れない嬉しい涙が何時までも溢れていたのであった。


 片時もアレアナを忘れたことのなかったエネオアシスは密かに人を使い彼女を探させた。それはエネオアシスがドリアン大公家の姫と結婚してからも続けられた。
 エネオアシスは新妻に対する後ろめたさを感じないではなかったが、反面、自分の軽はずみな言動が一人の女性の人生を狂わせてしまったという忸怩たる思いの故にやめようとは思わなかった。
 だが捜索は難航した。人を使ってとは言ってもそれは家臣らにさせたのであって、暗部のようないわば専門家ではない。それにそのような動きを当の王室情報室の職員、すなわち元暗部が気づかぬはずがない。結局何の手掛かりも掴めないまま時代は大きく動いていった。
 そうしてエネオアシスは二男二女をもうけレイナートともに激動の時代を駆け抜けた。
 その妻を看取り、子供達を育て上げ、自分も楽隠居しようという矢先にアレアナと再び出会った。レイナートが皇帝の座を退き、世は大統領選一色という時であった。

 エネオアシスはふと気づいたのである。先の議会招集の総選挙の時、全国民が選挙管理局に有権者として登録されたはず。ならば今回の大統領選も同様に違いない。であるならもしかしたらアレアナの名も選挙人名簿に載っているかもしれない。
 エネオアシスは元賢人会議の一員という立場を利用して調べさせた。だがそれは儚い期待であった。アレアナは公式にはお尋ね者となっていたから、生きていても偽名を使っている可能性が高い。また自分よりは十歳近く年上のはずだったから、既に故人という可能性もあった。
 だがアレアナは生きていてしかも本名で登録されていた。その住所を密かに調べ、そこに住む老婦人がアレアナ本人であることを確かめたのである。
 それからは粘り強くアレアナを口説き続け、呆れ返ったアレアナにようやく自分の後添いとなることを承諾させたのであった。

 いい年をした二人が初めて「初夜」を迎えた時、エネオアシスは尋ねた。

「あの時貴女が姿を消したのは仕方がないことだと後で気づいたが、貴女はどうだったのだ? つらくはなかったのか?」

「ふふふっ、さあ、どうでございましょう。タップリと可愛がって下されば、あるいは望みの言葉が聞けるかもしれませんよ?」

 いたずらっぽく笑いながらアレアナはそんな風に返した。

 潰れてしまっていた左目はともかく、若い頃には至極目立ったであろうアレアナの痘痕も、今となっては人生の年輪とも呼べる皺に隠されほとんど気にならないものであった。

「そうか。ならば我が望みの言葉を聞かせてもらうとしようか」

 エネオアシスはそう言って愛しい人を静かに抱きしめた。
 そうしてあの苦い思い出も、今では甘いモノのようだと思えたのである。

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