聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第3章

第8話 剣を提げて……

 レイナートが湯から上がり、衣服を整え終わったところで代官とともにギャヌース、アロン、エネシエルが姿を表した。


 せっかちなレイナートは入浴も本来は短めである。だが長距離を馬で移動した後の入浴は普段に比べて長い。旅塵を落とすとともに疲れも綺麗サッパリ洗い流そうと思うからである。
 ところがそれ以上に今回の入浴は思いの外時間が長く、熱い湯を継ぎ足されながらであった。それは途中で見かけた市民達の顔色の悪さに、ついつい思いを馳せていたからである。

 レイナートは湯船から出ると女官達に体に付着する水分を拭き取られ、肌着から順に身に着けていく。それは謂わば「されるがまま」なのだが、そう見えないのはいささかも動ずることなく任せているからであろう。まさに「王者の風格」と言った感がある。
 クローデラは女官長としてその一部始終を見つめている。国王の支度の仕上がりについて最終的な判断をするのは女官長の役目だからである。なので実際にレイナートに衣服を着せ襟元の具合等を直すのは別の女官が行っている。

 レイナートが着ているのは完全な普段着と言うか部屋着で、他人と謁見したり公務に出る時の出で立ちではない。それでもこうして人任せと言うか人にさせるのは即位してからで、リンデンマルス公爵の時はさすがにここまではやらせていなかったレイナートである。
 そうして今レイナートの身支度を整えている女官はとある伯爵家の娘で、二十年以上王宮で仕え、もうそろそろ三十路も半ばに達する。それはすなわちアレンデルの時から仕えているということであり、したがってサイラ以上諸事に明るい王宮内でも古株の一人である。

 今回エレノアは妊娠が判明したのでレイナートに同行しておらず、その故もあってリンデンマルス公爵家から王宮に上がった侍女達は全員がエレノアと共に王都に残っている。したがってレイナートに随行している女官は、特に能力の高いとされる女性達である反面、レイナートにとってはあまり馴染みのない者達が多かった。


「いかがでございますか?」

 女官がクローデラにお伺いを立てる。レイナートの前に大きな姿見が置かれているもののレイナートは別に鏡に映る自分の姿にはさして興味はない。余程見た目がおかしくなければそれで良しとしてしまう方である。

「よろしいのではないかしら、レッセニア様」

 クローデラが応じた。自分より身分は下とはいえ、十歳以上も年上の女性に対して横柄な態度を取るクローデラではない。それを聞いてレッセニアと呼ばれた女官は静かに頭を下げて後ろへと下がった。

 このレッセニアは容姿は平凡、又実家も伯爵とはいえさして裕福とも言えず、良縁に恵まれず独身のまま王宮勤めを続けていた。そうしてクローデラが王宮内で女官として働き出してからはその補佐役として十分な力量を発揮している。今回の人選でも女官の中では真っ先に名前が上がった実力者である。
 ただ一点、王都出立後はどういう訳かレイナートの世話に関して何かにつけてはクローデラにやらせようとする。それは別に己の職務を投げ出して、というよりも、どうも積極的にクローデラとレイナートを近づけようとしている風がないでもなかった。


 着替えが終わり革張りの長椅子に着席したレイナートに、クローデラが茶を給仕しようとしところで代官達が現れたのだった。

「何かわかったのか?」

 レイナートの問いかけに代官が恐る恐る言上した。

「はい。あの場にいた者達を集めて尋ねたところ、町外れで薬屋を営む老婆から得た薬を服んでいる者に、顔色の悪い者が多いようです……」

「老婆から得た薬?」

「はい。触れ込みは『滋養強壮、疲労回復に目覚ましい薬効あり』とのことでして……」

「そんなものがあるのか? しかも簡単に手に入るものなのか?」

 レイナートが半ば驚いて聞き返した。
 疲れたら食べる物を食べて休む、というのがこの時代の一般的なあり方である。それが服薬で回復するなど、どうにも信じられないレイナートである。よしんば本当にそういう薬だとして、では何故彼らの顔色はあんなにも悪いのか。その方がおかしいくはないか。

 元々レイナートは病弱という訳でもなく、年に一度風邪を引くくらいで今までに大病を患ったこともない。
 風邪を引いて弱った時などでも、王太后のセーリアが西宮の料理長に直接指示して用意させた粥や精の付く食べ物を口にしたら後は熱が下がるまで休むだけで、特別薬を服まされた記憶も無い。
 元々薬は高価なので、爵士となったらそう簡単に薬を買うということも出来ないから、という配慮がそこにあるし、第一、薬効そのものに対する信頼性がそれほど高くはない時代である。したがって薬にも薬師にもほとんどお世話になったことがないのである。
 そういうこともあってどうにもその「薬」がレイナートには信じられないのであった。第一、服んで直ぐに効く薬など、レイナートにすれば麻薬か毒薬しか思いつかない。


「それがそこそこの値で売られていたらしい……」

 代官が再び口を開こうとする前にアロンが割り込んだ。

「しかも売っていた老婆ってのが、どうやらリンデンマルス公爵家の出身だということだ」

「何だと?」

 レイナートの顔が更に驚きに満ちた。

「そうなのでございます。老婆の名が出てきたので調べましたところ、この者は昨年の夏頃より他所から移り住んだ者で、出身地は陛下のご領地で登録されております」

 代官が大急ぎで述べた。まるで自分の手柄を横取りされるまいと言わんばかりであった。


 例えばイステラにおいて、人が居所を直轄地の街に移す場合には特別な手続きを必要とはしない。ただし新たに住もうという街の名主 ― 町長といった行政組織の正式な役職の下部に存在する半公的な存在で、地域の世話役のようなもの ― には届け出て顔つなぎをしておくことが義務付けられている。そうすることで、氏素性のわからぬ者が街に住み着くことを事実上禁止しているのである。
 またイステラには民籍登録制度があり、納税や兵役などはこの制度を元に管理・運用されている。したがって出身地を離れてどこか他所に居住する場合、その所在の追跡調査を容易ならしむるべき必要措置として義務化されているのである。
 そうして薬屋を営む場合はこれが他に比べ厳格に適用される。それは薬の中には用い方によっては毒となるものがあるからに他ならない。故に居住する街の代官所に氏名、生年月日、出生地、両親の名を届けなければならないのである。


「……」

 レイナートは思わず腕組みしていた。
 自分がリンデンマルス公爵家を継いでまだ十年足らず。先代の頃に他家へ転籍、もしくは逃散、さらに言えば奴隷化した領民に関しては完全に把握出来ているとは言いがたい。
 もしかしたらその老婆もその中の一人かもしれない。

「よし、出向いてみよう。直接話を聞いてみるに限る。その老婆の家は?」

「既に遠巻きに包囲してるよ」

 代官が口を開こうとしたところで再びアロンがセリフを横取りした。代官の顔が憤懣やるかたないといったものになっている。

 レイナートは腕組みを解いて立ち上がった。

「レック、グレマンの剣を!」

「はっ!」

 レックは直ちに剣をレイナートに差し出した。それは剣選びの儀で得た破邪の剣を研ぎに出した際、特級鍛冶師グレマンより得た剣である。それも後に古イシュテリアの聖剣であると知れてエレノアに下げ渡したものである。
 エレノアは以後これを己の佩用の剣としたが、妊娠が判明してからは一度も腰に提げていない。さらに破邪の剣が使いものにならないのでこれをレイナートに提げるように勧めてさえいた。それで今回も持ってきていたのであった。

 一方のレイナートといえば、もちろんいつでもどこでも破邪の剣を提げてきた。だが破邪の剣は鞘は元の姿に復元されているが、剣そのものはひび割れその絶大な力も失われている。それは余人には殆ど知られていないから提げるだけなら何も問題はないが、剣としては実用には耐え得ないことに変わりはない。
 リンデンマルス公爵家当主の剣は儀礼用であって常の佩用には向かないし国王となった今では提げる機会がない。
 一方イステラ国王の証である金の剣は王としては常に提げているべき剣である。しかしレイナートは古イシュテリアの聖剣「破邪」の主という、いわば固定観念にも似たものを周囲に抱かせているし、レイナート自身自分が国王であることに違和感を抱いているから滅多なことでは提げないでいる。

 だが破邪の剣では剣本来の機能、すなわち武器としては使いものにならない。そこでレイナートはグレマンより得た剣を提げることにした。武器と言う点を重視するならこれに勝る剣はないからであって、それは言葉を変えれば何かが起きる予感を抱いていることの証左である。
 レイナートがグレマンの剣を提げたことでその場の者の顔色が変わり一様に厳しい表情となった。

「参るぞ」

 そう言うとレイナートは歩き出した。
 何も国王自ら出向く必要があるほどのことではない。だがその老婆がリンデンマルス公爵領出身ということがレイナートの心に強く引っかかったのである。


 既に夜の帳が下りた中、老婆の家の周囲にはロッセルテ守備隊の衛士が身を潜めていた。老婆の住む家は街の外れ、茅屋とは言わぬまでも、かなり粗末な家であった。

 その玄関口にレイナートが立つと代官の配下が戸を叩き訪いを立てた。

「こちらはロッセルテ守備隊の者である。火急尋ねたいことがあって参った。戸を開けよ!」

 だが、中からは何の返事もなく、辺りはしんと静まり返っていたのだった。

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