聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第3章

第9話 薬屋の老婆

「おい、開けろ! こちらはロッセルテ守備隊の者だ!」

 中から応答がないことに、守備隊の衛士が戸を激しく叩き声を張り上げた。
 繰り返し叩かれる扉の内側からようやくぼそぼそと声が聞こえた。

『はいはい、今開けますじゃ。そんなに叩かないでおくれよ、扉が壊れちまう……』

 カンヌキを外す音が聞こえ扉がゆっくりと開かれた。その隙間から老婆の顔が見えた。

「一体何ごとじゃて?」

 あれほど激しく戸を叩かれていたのにも関わらず、老婆の態度はいたってのんびりしたものだった。思わずその場の誰もが気勢を削がれたほどである。
 だがそれも一瞬のこと。直ぐにずかずかと中へ入っていく。
 家の中に入ると薬の匂いが漂っている。誰もが思わずトバ口で足を止めたが、老婆の風貌を見て更に言葉を失った。
 長い真っ白な髪に、垂れ下がるかのような鉤鼻。顔はシワだらけで表情を窺うことも困難である。ゆったりしたローブを纏っていてもわかる痩せこけた体は、とても生きた人間のものには見えなかったのである。

 だが人を見かけだけで判断するレイナートではない。内心の驚きを抑えつつ老婆に対して声を掛けた。

「あなたが扱っている薬について、いささか尋ねたいことがある……」

 レイナートの言葉に老婆が顔を上げた。腰が曲がっている上矮躯(わいく)故、背の高いレイナートに対しかなり顔を上げる形になっている。

「何でございますかいな?」

 物怖じすることなく老婆が聞き返してきた。

「あなたの薬は『滋養強壮、疲労回復』に目覚ましい薬効があるということだが……」

「はてさて、そんなことを言った覚えはないんじゃがのう……」

「何だと! だが市民達はそう申しておるぞ!」

 衛士が怒鳴る。
 レイナートはそれを制して言葉をつなげた。

「ではどういうものなのか聞かせてもらえると助かるのだが」

「なに、ただ、ちいとばかり疲れを忘れることができると言ったまでさあね……」

「疲れを忘れられる? それは随分と素晴らしい薬ですね」

 レイナートは皮肉とも取れるような聞き方をした。だが老婆は動じない。

「じゃがそれが事実じゃからのう……。
 それよりお前さんはどなたじゃろう? こんな夜更けにワシのようなババアを訪ねてくるお人にも見えんがのう」

 そう言いつつ衛士を一瞥し再びレイナートに視線を戻す。
 剣を提げているから貴族には見えているだろう。だが制服を着ていないから衛士には見えないはずである。となると、確かにレイナートが何者で何しに来たのかは疑問に思っても不思議ではあるまい。

「ああ、申し訳ない。申し遅れたが私はあなたが生まれたという、リンデンマルス公爵家の主レイナート・フォージュと申す者……」

 そう言ってレイナートは軽く頭を下げた。こういうところはいつまでも変わらない。
 そこへギャヌースが言葉を添えた。

「と、同時にイステラの国王陛下にもあらせられる」

 それを聞いて老婆が一瞬目を見開いた。と、小さく舌打ちして呟いた。

「なんだい、もうバレちまったのかえ……」

 と言うやいなや、いきなり何かをレイナートに向かって投げつけたのである。
 国王と聞けば平民の誰もが跪いて頭を垂れると思っていたから、その予想外の出来事に誰もが対応に遅れた。

 だがレイナートは違った。

 すっと腰を落とすと剣を抜き払い老婆の投げた物を叩き落とした。狭い玄関に人が多く立ち並び手狭な感があるのに鮮やかな抜き打ちを見せたのである。達人ゲメンデス・リジュから習った剣技はいまだ錆びついていなかった。

 だがこの時、それは逆効果であったかもしれない。レイナートが叩き落としたのは小さなガラスの薬瓶。それが割れると一瞬にして白い煙が立ち上り、強い刺激臭が辺りに漂った。

「ゴホ、ゴホ……」

「ゲホッゲホッ」

 思わず手で鼻と口を抑えたが、誰もが激しく咳き込んでいる。どうやら催涙効果もあると見えて目を開けることも難しい。

 それでもどうにか目を開けると、老婆が逃げ出そうと家の奥へと向かうのが見えた。
 それへ向かってエネシエルが背負っていた槍を投げつけた。レイナートがグレマンの剣を提げたのを見て、自分も二分割の槍をいつも通り背負って来ていたのである。

「ぎゃあ!」

エネシエルの投げた槍が老婆の右腰の辺りに突き刺さった。その矮躯がつんのめる。そこへレックが突っ込んだ。苦しかろうと何であろうと、レイナートに仇なすものを捨て置く事は出来ぬ。

「ババア、観念しろ!」

 そう叫びながらレックは老婆の襟首を掴む。それに抵抗しつつ老婆は別の小瓶を咥えそのまま噛み潰したのである。

「あっ! こいつ!」

 レックはなんとか老婆の口の中の物を吐き出させようとする。だが老婆は歯を食いしばり必死に飲み込もうとしている。しばし二人はもつれ合っていたが、やがて老婆の口から血が滲んできた。それは砕けたガラスの破片で口の中を切ったのだった。

「ゲホ!」

 そうして老婆は大量の血を吐いた。それは自らが口にした毒のためである。

「チクショウ!」

 手遅れとなったことにレックが愚痴るように吐き捨てたのだった。


 その後は騒然となった。
 とにかく異臭を伴う空気が家の外にも広がっていることもあって近隣の住民を一時退避させるとともに、ロッセルテ守備隊の衛士によって当該区域が立入禁止にされたのである。

 死んだ老婆は街の医者によって正式に死亡が確認された。もっともこの当時の検死など解剖をする訳でもないから至極簡単なものである。脈拍・呼吸の有無、瞳孔・肛門の開き具合などを診るだけであり、町医によって直ぐに死亡宣告が出されたのである。

 直ちに老婆の身元の再確認も行われることになった。
 老婆は薬品を投げつけたにせよ、レイナートに直接被害を与えようとしていた訳ではない。少なくとも現状ではこの老婆がレイナートの毒殺を図った形跡はない。
 にも関わらずレイナートの訪問を受けて自殺した。当然そこには何か理由があるはずである。一般的には何らかの秘密が漏れることを避けるためであったと考えられる。とすればそれは何か?

 この時代の、特にイステラ人は自殺するということが滅多になかった。汚名を雪ぐ、恥辱に耐えかね、などという場合でも自死を企てる者は少ない。どころか生きて己の潔白を証明、もしくは名誉を挽回しようと努力する。
 だが、もちろん平民の場合、犯罪捜査にまつわる詮議は厳しい取り調べが行われる。要するに拷問である。これを避けたいがため、ということはあったかもれない。拷問は「いっそ死んだ方がマシ」と思える苦痛を与え続けられるからである。
 いずれにせよ、そういった観点からすると老婆の自殺には不審な点が多い。そこで身元の再調査が必要とされたのである。

 確かに街の名主を通して代官所に届けられた老婆の素性は老婆を訪ねる前にも代官所の者の手で一度確認されている。
 だがそれは真実なのか? もしかしたら何か騙ってはいまいか。これは代官所だけでなく内務省の本局や、リンデンマルス公爵家にも問い合わせる必要がある。

 そこでレイナートは王都に向けて逓信士を送るよう指示した。もちろんクレリオルに向けた命令書である。
 そこには、リンデンマルス公爵家の記録、内務省系統管理局の記録を調査すること。
 それから御殿医である薬師と毒見役のロッセルテへ派遣するべく旨が (したた)められていた。老婆の薬を服用した者の健康状態の把握もさることながら、老婆の家に多数保管されている薬の調査のためである。得体のしれない人物が残した多数の薬品。廃棄するにしても再利用するにしても素人が手を出していいはずがないからである。


 逓信士は夜をおして王都を目指した。松明を手に早足で先を急ぐ。さすがに馬では危険がありすぎるからである。途中の小さな集落にも逓信士の中継所があり、そこで人が変わり休むことなく命令書が運ばれていく。そうして夜明け近く、空が白んでくると馬を使い速度を上げた。

 こうして翌朝早くに命令書はクレリオルの元に届いたのであった。

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