「直ちにネイリを我が執務室に連行していただきたい」
イェーシャにそう告げたクレリオルの口調は大層厳しいものだった。
「そんな! 私は何も!」
ネイリが訴える。だがクレリオルはにべもなかった。
「それは後でゆっくりと聞かせてもらう。
さあ、イェーシャ殿、早く。
それと部屋に控える室員にゴロッソを呼ぶように伝えていただきたい」
クレリオルがイェーシャを促す。イェーシャはどうすればいいのかわからず、思わずエレノアを振り返った。エレノアと目が合うとエレノアが微かに頷くのを見て、アニスをエレノアに差し出す。アニスを受け取るエレノア。
アニスはいつの間にか泣き止みきょとんとした顔で周囲の様子を窺っている。子供ながらに何かの異常を感じ取っているかのようであった。
「私は何もしてません!」
ネイリが再び叫ぶ。
だがもうクレリオルはネイリに目もくれず他の女官達に言った。
「大至急、宰相閣下、内務卿、法務卿、衛士総長、近衛長官にお越し願うように」
全く自分を眼中に置かないクレリオルに、再び何事か訴えようとするネイリの肩に手を置きイェーシャが言った。
「行こう、ネイリ……」
まだまだ不服そうな顔のネイリであったが、クレリオルは取り付く島もない様子で、ネイリは諦めたのか肩を落としトボトボと歩き出した。
その後姿にクレリオルが声を掛けた。
「早まったことは考えるなよ」
ネイリはそれを聞いて一瞬肩を震わせ、静かに歩みを進めた。
国王執務室の脇の倉庫を改装した王国情報室。そこには情報室の職員が常時二~三名詰めている。全員元暗部の者であり、王都三の郭のイステラ商会との連絡要員である。
イェーシャは部屋に入ると直ぐにクレリオルの伝言を伝え、室員の一人が直ぐ様部屋を出て行った。しばらくして室員が二人入ってきて現在室内には五人。無言のまま全員が椅子に腰掛けている。
ネイリは膝の上で拳を握りしめ俯いている。時々しゃくり上げているのは涙をこらえてのことだろう。
―― 私は何もしていない! していないのに!
ネイリの心の中はその思いだけであった。
それを見つめるイェーシャは言葉の掛け様がなかった。
ロズトリンのフィグレブからレイナートの元に来たイェーシャらフィグレブの娘達。彼女らに侍女の仕事を教えたのは先輩であるネイリである。
ネイリはレイナートに拾われた後、両腕を取り戻すとの引き換えに身体の成長を失った。したがって体つきはいまだに少女のままである。それが唇を噛み締め涙をこらえているのは、見ているだけでやるせない気分になってくる。
確かに食卓の上の鉢植えを見れば、ネイリのよそったスープに毒が混入されていたと思わざるをえない。
―― だけど、絶対にネイリがそんな真似をするはずがない……。
そうは思うがイェーシャには何の発言力もない。よしんばあったとしても一部始終を見ていた訳ではない。
食堂に入ってからのネイリは料理に何も細工はしていない。それはずっと見ていたから断言出来る。だがネイリが厨房で料理を受け取ってから食堂に入ってくるまでの間のことは何も見ていない。したがってイェーシャにはネイリの無実を証明することが出来ないのである。
―― クレリオル様は、まさかネイリを疑っているんじゃ……。
それはとても恐ろしい想像だった。
何故ならクレリオルは誰からもレイナートの腹心中の腹心と目されていたからである。
レイナートの家臣の中で、レイナートの信頼が最も篤いのは誰か?
この問に答えるのは容易ではない。というよりも不可能である。
というのはレイナートは特に誰かを優遇するとか重用しているということはない。全く別け隔てなく接しているつもりである。ただそれぞれに個性特性があるから、それを活かすべく適材適所に配しているのである。
確かに厳格な身分制度のイステラ社会で家臣全員が一律に同じ身分ではない。だが、少なくともリンデンマルス公爵家の内部では、それはさして重要な事とは考えられていない。事実、直臣勲爵士のレックと陪臣侯爵のクレリオルは、ともにレイナートの下で同列だと考えていて、どちらが上か下かなどと揉めたりはしていない。
だが対外的にはそれでは済まないのは当然で、それ故それぞれの職務に必要な身分をレイナートは与えている。
これは当然イステラの社会にあっては序列ということにつながる。さらに王室参謀長、王国情報室長官の役職にあるから、クレリオルが家臣筆頭の立場にあると、イステラでは見做されているのである。
したがってリンデンマルス公爵家の家中にあってもその影響は無視出来ず、クレリオルの発言権は絶大なものであると目されていたのだった。
しかも狙われたのは、あろうことかレイナートの最愛の妻と娘なのである。
それからすると、もしクレリオルがネイリを疑っているのならネイリはただでは済まないかもしれない、とイェーシャは思わざるを得なかったのである。
重苦しい雰囲気のままの王国情報室。外部からは何も情報がもたらされず、時間だけが過ぎていった。
物音一つ聞こえない室内に遠くの鐘の音が聞こえた。午後の中の刻の鐘である。
―― お腹すいた……。
深刻な状況にもかかわらず、ふとそんなことを考えてイェーシャは自らを恥じた。
―― ネイリはそれどころじゃないのに……。
その鐘の音が鳴り終わった頃合いに部屋の扉を叩く音がした。誰もがギョッとして身構えた。イェーシャも思わず立ち上がり腰の剣に手を掛けたほどである。
王国情報室の室員らは頷き合い、二人は扉から少し離れたところ、イェーシャとネイリを庇うように立ち、残る一人が扉の外に向かって誰何した。
「誰方でございますか?」
クレリオルならいきなり扉を開けて入ってくる。戸を叩くということはそれ以外の人物に他ならない。
『私だ。ヴェーアだ……』
外の人物はそう答えた。
「ヴェーア様……?」
イェーシャが訝しむ。何故ここにヴェーア様が、と……。
ヴェーアはリンデンマルス公爵家の王都屋敷「フォスタニア館」警護役を仰せつかっているはず。したがって館を離れ王宮内に出向いてくる理由があろうはずがない。
イェーシャが剣の鯉口を切った。
腰の剣はレイナートより授かった古イシュテリアの聖剣の一つ。剣技の手解きはエレノアから受けている。いまだその腕は達人の域には程遠くとも、北宮内部の警護を任されている身である。おいそれと遅れを取ることは出来ぬ。
王国情報室の室員らも忍ばせていた短剣に手を掛けた。
部屋に入り口はただひとつ。明かり取りの窓は壁の上の方に小さなものがあるだけで人が通れるほどの大きさはない。したがって扉からの賊の侵入さえ防げばよい。
警戒しつつ室員の一人が扉を開いた。
すると腰を屈め室内を覗き込むような姿勢の大男の姿がそこにあった。
縮れた黒髪に浅黒い肌。常人の太腿程はありそうな太い腕。紛うことなきヴェーアであった。
ヴェーアは室内の異様な雰囲気に目を瞠った。
「どうしたのだ?」
そう尋ねつつ体を屈めたまま部屋に入ってきた。大男のヴェーアには入り口が低過ぎたのである。
「ヴェーア様……、もう、脅かさないで下さい……」
イェーシャが安堵の溜息を漏らした。
「脅かすも何も、きちんと戸は叩いたはずだが?」
ヴェーアは不得要領といった面持ちである。
「そんなことじゃなくて……。
それよりヴェーア様がどうしてここに?」
イェーシャは肩を撫で下ろしつつ尋ねた。意外な人物の登場にドッと疲れが押し寄せたかのようだった。
「クレリオル殿から使いがあってな……。食事を用意して直ぐに王国情報室まで来てくれ、とな」
「食事?」
訝しむイェーシャ。
「そうだ。何やら一大事が起きたとのことでネイリとイェーシャを守ってくれとの事だった。おかしなことに、食事を十人分は用意してくれ、との事だったのだ」
そう言ったヴェーアの背後から侍女五人が入ってきた。否、それは侍女の装いをした王国情報室の者達で、手にはそれぞれ布を被せた籐籠やスープ鍋、食器を載せた盆を携えていた。
「王宮に登ったところで詳細は聞かされた。
とにかく長丁場になりそうだから皆にしっかりと食事をさせ、ゆっくりと休ませてくれ、というのがクレリオル殿の指示だ」
侍女の一人が机の上に置いた籐籠の布を外すと、室内に香ばしいパンの匂いが漂ったのだった。
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