聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第3章

第16話 老婆の正体

 その日 ― というのはレイナートの目の前で老婆が服毒自殺した翌日 ― レイナートは予定通りにロッセルテを出立した。この日の午後に王宮でまさかの王妃・王女暗殺未遂事件が起きるとは夢にも思っておらず、街の代官に追加の指示をあれこれと出したのみである。

―― あの老婆の正体や使っていた薬の究明も気がかりだが、予定が遅れるのも困る……。

 王都から侍医と毒見役が来るのを待ち、さらに調査結果が出るまで待つ、となったらロッセルテに数日は滞在するハメになるだろう。なので後から調査結果をディステニアまで届けさせることにして出立したのである。
 この時代、情報の伝達は人力 ― もちろん馬は使うが ― か、国によっては伝書鳩を使う。だがイステラでは伝書鳩はあまり用いられていなかった。鷲や鷹など猛禽類が多くその餌食となるため、速度はともかく確実性に乏しかったからである。なので結果が届くまでは少なくとも十日近くは掛かってしまうかもしれない。


 ところで、ロッセルテの街はディステニアとの国境のすぐ近くに造られた街である。したがって一行は昼を前に国境へと辿り着いていた。
 国境の検問所には先行していたギャヌースとナーキアスの二人に、国軍平坦部隊がレイナートの到着を待っていた。

「ご無事の到着何よりです、陛下」

 ギャヌースがそう出迎えた。

「両名とも大儀である」

 レイナートが応えた。

「まあ、無事って訳でもなかったがね。昨日の夜にちょいとした異変があったのさ」

「異変? 何かおかしなことでも?」

 アロンの言葉にギャヌースとナーキアスが目を丸くする。

「ババアが一人、陛下の前で服毒自殺したのさ」

 エネシエルが素っ気なく説明した。

「服毒自殺? それは又随分と穏やかではありませんな。一体全体、どうしてそういうことに?」

 ギャヌースが顔をしかめている。

「それが、よくわからねえんで……」

 レックも口を挟む。全員どうやら昨夜の出来事を話したくてウズウズしているようだった。

「わからないとは何だ!」

 ギャヌースが怒りを露わにする。
 それをなだめながらレイナートが静かに言う。

「いや、それがそうなのだ。
 街の人々の顔色の悪さが気になって、その原因と目される薬屋の老婆を訪ねたところ、こちらが質問する前に逃げ出そうとしたのだ。
 とまあ、そちらも色々と気掛かりなのだが、とにかく越境の手続きを済ませよう」

 国王の外国訪問にしては随員が少人数だが、それでも百人もいる。それらの者の身分証明書をディステニア側に提示して入国許可を得なければならない。
 とは言うものの、まさか入国拒否はありえないから、入国する者の職務、年齢、性別をディステニア側が筆写するのを待つだけである。ただしこれは基本的に本人が窓口で提示することとされており代理人による一括手続きは不可とされている。
 したがって、相応の時間が掛かることは織り込み済みであるので、国境のイステラ側の検問所の脇には天幕が張られ、すでに茶の支度がなされている。手続き中に休憩をしてしまおうというのである。


 レイナートに続いてギャヌース、エネシエル、アロン、ナーキアス、レックがぐるりと簡易円卓を囲んで腰掛けると話はすぐに先ほどの続きとなった。

「でその老婆は一体何者なのです?」

 ナーキアスが尋ねた。当然の問である。

「それがよくわからん。我らがリンデンマルス公爵領の出ということだが、本当のこととも思えん。おそらく騙りだろうが……」

 ギャヌースが答えた。

「陛下がクレリオルに調査を命じられている。今頃は何か判明しているかもしれんな」

 だが実際にはこの時点では老婆の正体はクレリオルも掴んでいなかった。内務省に調査命令が出て古い民籍簿が徹底的に調べられているところである。

「キャニアンを残しておいてよかったですな……」

 ギャヌースが呟くように言う。まさかこういったことが起きるの予感していたわけでも、もちろん期待していたわけでもないが、元の衛士隊長としてその手の調査はお手のものである。そのせいだろう。

「これではその老婆が何者で、何を目論んでいたのか、気になって先に進めんな」

「仕方ないだろう? まあそいつは代官に任せるんだな」

 アロンがなだめつつ言う。
 だがエネシエルは相変わらずの不審顔である。

「代官なんぞに何か出来るのか? 期待薄じゃあねえかな」

「おいおい、それを言ったら終いだぜ?」

「そりゃ、そうだが……」

 ギャヌースに言われてエネシエルが口籠る。
 言いたいことが言い合えるいい関係ではあるが、話している内容はとても微笑ましいなどと済ませる内容ではない。

「にしても、正体は不明ってのが確かに気がかりだな……。」

 エネシエルが続けて呟いた。

 あの老婆は一体何者なのか?
 老婆自身は何時でも影の存在として振舞っていた。したがってその正体を知る者は元々少なく今では皆無と言っても良かった。
 シェリオールの国王に己の調合した薬を投じている時も表向きは典医の投薬であった。 そうしてそれは老婆からロル・エオリア侯爵の手を経てであった。
 そう、あの老婆はロル・エオリア侯爵の切り札ともいうべき薬師「オババ」だったのである。

 シェリオールでレイナートに己が野望を頓挫させられたロル・エオリア侯爵はオババを連れてビューデトニアに活路を見出した。オババの薬を用いビューデトニアの王や貴族を骨抜きにして己の思うがままに利用した。そうして始まったビューデトニアのシェリオール併合を始めとする各国への侵攻作戦。
 一方、レリエルからの帰国途中、崖から転落し記憶喪失となって彷徨ったレイナートは、最終的に家臣らと合流してロル・エオリア侯爵を叩くべくビューデトニアを目指した。そこでビューデトニア王の妾腹の王子ライトネルと戦った。彼も古イシュテリアの聖剣の持ち主であり、レイナートの対極にある者だったから両者の対決は避け得ぬものであった。
 そうして起きたビューデトニア城崩壊に伴う巨大地震。オババはそれを逃げ延び、いつの間にかイステラへ潜入していたのである。

 その目的は何か?

 今となってはそれを窺い知ることは何者にも不可能である。というよりも、彼女がロル・エオリア侯爵のために薬を調合していたという事実すら知る者は存在しないに等しい。


 ビューデトニア城の崩壊からかろうじて逃れたオババはその後、ビューデトニア、シェリオール、ディステニアを転々としてイステラに潜り込んだのだった。
 それはレイナートに対する復讐のためである。

 オババとロル・エオリア侯爵の関係は、互いに利用し合うだけのものであった。
 オババは新薬の研究に没頭したい。そうしてその効果は人体実験でのみ証明される。とはいえ闇雲に人々に投与すれば罰せられるから、それを可能とする人物が必要である。
 一方のロル・エオリア侯爵にしてみれば、こちらの意図通りの薬を調合してくれる薬師がほしい。もちろん口は固く、腕前の確かな薬師でなければならない。
 この両者の思惑が合致して手を組んでいたのである。
 だがそのロル・エオリア侯爵も既にこの世のものではない。オババとすれば新薬の開発に必要な資金と被験体の確保が困難となったのである。それに対する恨みからイステラを目指してやって来たのであって、別段ロル・エオリア侯爵の敵討ちを目論んでいた訳でもなかった。

―― あ奴のせいで、思うように薬を調合することも、それを試してみることも出来なくなってしまったわい……。このままでは済まさぬわい!

 ただそれだけだったのである。


 そうして何時の世でも、何処の世界でも、オババのような薬師を求める者は後を絶たない。
 そういう人物がイステラにもいたのであった。

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