聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第3章

第19話 前代未聞

―― 王とその家族に供する料理を用意する必要はない。

 王宮料理長にとってこれほど不名誉で屈辱的なことはないだろう。だがその決定が宰相から言い渡された時、料理長は黙って頷くしかなかった。
 王妃、王女に毒を盛った料理が出された。しかもその犯人はいまだ不明。もしかしたら己の配下にその下手人がいるかもしれない。そのような状況下で、それでも自分にやらせろ、とは言えなかったのである。

 元来、料理長というのは非常に強い立場である。貴族家の場合、料理長は当主たる貴族に直属で、執事長や侍女頭はもちろん、家宰の支配さえ受けないのが普通である。だがこれは王家の場合はいささか様相が異なり、イステラでは料理長は内務大臣の支配下にある。それでも国王の口にするもの全ての責任は料理長が掌握しているのだから、内務大臣といえど料理長を有無をいわさず頭ごなしに思い通りにするということは出来ない。
 だが現在は自分の配下の料理人の中に毒を盛った者がいるかもしれないという可能性があるのである。それで料理長は首肯するしかなかったのである。

「……それで、誰が妃陛下のためのお料理を作るのですか?」

 それでも料理長はそのことだけは尋ねた。王宮料理長としての意地からである。

「それは貴公の与り知らぬこと。こちらに任せれば良い」

 問われた宰相はにべもなかったが、これは当然のことである。
 この時点でリンデンマルス公爵家で用意することは既に決定されていたが、それをあえて教える必要はない。どころか安全上の理由から最重要機密として一切誰にも明かされないことだったのである。


 貴族家の料理人でも身分も気位も高い。王宮料理人ともなればなおさらである。まして現在の料理長はガラヴァリ、アレンデル兄弟の父の治世に王宮厨房に入り、研鑽を重ねて料理長になった叩き上げの王宮料理人であり、レイナートを含めて四代の国王に仕えているのだから当然だろう。

 レイナートの治世である現在は、レイナートの、いわば自由気ままな発想の政策に任されている状態とも言える。だがそれは本来のイステラの姿ではない。物事は一度変えてしまうと元に戻すことはままならない。変わってしまっても問題ないことだけであればいい。だがそうでないことも当然存在し、そういうことまで変えてしまってはその次が困るのである。
 確かに身分制度にはうるさいイステラながら、レイナートは非常事態を理由に様々な古い慣習を打ち破った。しかし料理人に関しては重臣らが譲らなかった。というか、変えようのないこととして諦めてくれというのであった。

 日頃慣れた味を食したいと思うのは誰でも普通であろう。ということであればレイナートの即位に伴ってリンデンマルス公爵家から人が入ってもいいではないか、という考え方もあるだろう。
 だが、リンデンマルス公爵家の侍女から王宮の女官、侍女になった者はいるが、リンデンマルス公爵家の料理人から王宮料理人になった者はいない。王家に世継ぎとなる男子がなく、そのため五大公家から即位した王も過去にいるが、その時も料理人を引き連れてということはなかった。
 料理人の人事権は料理長が完全に握っており誰もそれに口出しすることは罷りならぬという不文律があったのである。そうして過去においても国王の即位に伴って料理人が交代するということはイステラにおいてはなかったことであった。

 まず第一に料理人は料理長の指示にしたがって料理を作る。当然のことであろう。
 その時、料理長とは違うやり方・段取りをする料理人では料理長の意図する料理とは違ったものが出来あがってしまうという可能性がある。料理長としてそのようなことを許すことなど論外である。
 これが料理人の交代がない大きな理由のひとつであった。

 それに即位に伴って人が変わるということは前任者が失職するということを意味する。料理人ばかり何十人も雇うことは出来ないし、その必要が無いからである。そうなると失職した料理人は新たな就職先を探さねばならない。といって貴族家で雇えば今度は貴族家の料理人が失職する。そうなったら同じことをいつまでも繰り返し、結局決着がつかなくなってしまう。

 だがそれ以上に重要視されていることは、王宮で料理した経験を持つ人間が国外に流れた場合を想定してのことである。王宮料理人が他国において料理人の職を得れば、普段国王が口にしていたものの情報が漏れることになるのは容易に想像出来る。たとえ故人の情報であっても国王に関するものは門外不出である。それが他国の知るところとなるというのはあってはならないことであり、それが料理人が据え置かれる最大の理由であった。

 レイナートも自分のことに関してそこまで拘るつもりはなかったので、この件に関しては従来のやり方を踏襲することに異存はなかった。それ故、レイナートの即位に際し王宮料理人の入れ替えは行われず、したがってアレンデルに仕えていた料理長・料理人がそのまま残ったのであった。


 ところがこの非常事態に王宮料理人達は一時的にその任を解かれている。少なくとも事件が解決を見るまでは復帰もないだろう。その間の料理の準備がリンデンマルス公爵家に命じられたのは王妃エレノアの言葉の故である。だが北宮での毒殺未遂事件の際、給仕をした侍女の中にはリンデンマルス公爵家出身の者もいる。その点が宰相や内務卿には引っ掛かった。さりながら他にいい手も思い浮かばない。では、他の者にやらせるとしたら誰が適任か? となると妙案が浮かばなかったのである。
 それに王国情報室長クレリオルもリンデンマルス公爵家の家人上がりである。そのクレリオルが全責任を負うと言い、それが決め手となって下された決定であった。


 一方、密かに司令を受けたリンデンマルス公爵家は責任重大である。
 レイナートやエレノアのために料理を作らなくなって早二年になる。果たしてお気に召すものを供することが出来るかどうか?
 そんなことよりも、ありえない事件を受けての臨時措置ではあるが、もしも同じ不始末をしでかしたなら? エレノアにすれば何気ない一言であったかもしれないが名指しされた方はまさに顔面蒼白となったのである。

 他のことはいざしらず「王妃と王女の食事を用意せよ」と命じられたリンデンマルス公爵家にすれば青天の霹靂ともいうべき通達である。王都屋敷フォスタニア館留守居役のコリトモス、王都屋敷料理長フィエラも面食らったのは言うまでもない。
 だがこれは断ることなど出来ない厳命である。


 と同時に用意された料理をどうやって北宮まで運ぶかということも問題になった。
 現在一の郭と二の郭を隔てる一の門は閉ざされたままである。ここを通過するには宰相を始めとする各大臣に諸役の内、近衛長官、衛士総長、王室参謀長の三名の中から最低二人以上の連名で発行された特別な証明書がない限り通行が許されていない。
 事実クレリオルがリンデンマルス公爵家に送った「王妃と王女の食事を用意せよ」という通達は、宰相と内務卿の署名入りの証明書を携えた内務卿の配下を通してである。
 クレリオルですら万全を期すためにあえてそのような措置を取らざるを得なかった。
 これでは料理を運ぶのも大層大掛かりになり余計に人々の耳目を惹くだろう。それは真犯人の特定・逮捕にとって避けるべきことであると重臣らは考えた。それは可能な限りこの事態を人目につかぬようにして真犯人を油断させるためであって、決して自分たちの落ち度を隠すためではない。


 このような失態を許した以上、誰もが己の命は既にないものと考えている。だが犬死するつもりはない。なんとしても真犯人を突き止め、目にもの見せてやらねば死んでも死にきれない。その思いは共通だった。
 それが結局、なんと王妃と王女が ― 一時的にだが ― 密かにリンデンマルス公爵家に退避するという前代未聞の事態にまで発展したのであった。

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