その数日後、レイナートがシェリオールとの国境で望まぬ戦闘を繰り広げている時、レッセニアを乗せた馬車がイステラ王都に到着した。
身内の急逝によって職務を放り出しての帰国というのはどうにも外聞が悪いことだとレッセニアは感じていた。だが国王の命令である以上、従わない訳にはいかない。
王宮内部へ入り内務大臣の控室を目指す。大臣の正式な執務室は各省にあるが王宮内に控室もある。そうして内務大臣はその職掌範囲が広く王室とも深く関わる故、通常は内務省ではなく王宮内にいることの方が多い。
また王宮内部で働く者は内務省が一元管理している。したがってレッセニアは帰国した旨を内務大臣に報告しなければならない。女性とはいえ貴族身分であり、女官という役職に就いているのであるから相応の責任がある。内務省に出向いて窓口に顔を出すだけでは済まないのである。
その内務大臣室へ向かう途中違和感を覚えた。すれ違う侍従や女官などの態度が妙によそよそしい。顔見知りのはずなのに半ば無視するように通り過ぎていくのである。
―― 一体、どうしたというのでしょう?
レッセニアは不安になった。元々兄からは謀略とも言えるような指示を受けていた。その兄が急逝したという。それが周囲の自分に対する態度と無関係には思えなかったのである。
しかしその一方でそれほど深刻なこととも受け止めていなかったのは事実である。
もしも兄であるラストーレル伯爵が何らかの犯罪に加担したとして、その連帯責任で自分が帰国させられたのであれば、身柄を拘束され護送のように帰国させられたに違いない。だが陛下は何も仰らず、また自分は特別な仕打ちもされなかったからである。それ故周囲の態度が余計に不審で、不気味なものを感じずに入られなかったのである。
そうして大臣の控室に近づいたところで、ごく親しくしている女官に出会った。彼女はレッセニアよりも七歳下の伯爵家の娘で、レッセニアが先輩として面倒を見てきた女性である。
だが彼女もレッセニアが声を掛けると露骨に嫌な顔をした。
「何ですか? 御用でなければ……」
「用があるから声を掛けたのよ。教えて欲しいの。王宮内で何があったのかしら? 皆様のわたくしへの態度がいささか奇妙なのだけれど」
レッセニアは落ち着いて尋ねた。さすがに貴族の娘、どれほど興味があろうと息せき切って尋ねるような真似はしない。
「何がって……、そうね、レッセニア様はご存じないわね」
「ええ、つい先程ディステニアから戻ったばかりなんですもの」
「おかげでこちらはいい迷惑だわ」
「何ですって」
「だってそうでしょう? 王妃陛下と王女殿下暗殺未遂事件の首謀者と目される人物の妹に話し掛けられるなんて最悪だわ」
「何ですって!?」
レッセニアは驚愕のあまり目を剥き唖然とした。
「まさか兄がそんな大それた真似をするはずがないわ! それは事実なの!? 何時のことなの!?」
レッセニアは飛びかからんばかりの勢いで尋ねた。貴族の娘らしくお淑やかになんぞ振る舞っていられなかった。
「ちょっと離して! 痛いじゃない!」
レッセニアに腕を掴まれた女官が抗がった。レッセニアは我に返り掴んでいた手を離す。
「もう、本当にやめていただきたいわ」
「ごめんなさい、失礼しました。
でもお教え願えないかしら、何があったのかを」
「何って、だから、陛下が出立されて二~三日後に、王妃陛下と王女殿下のご朝食に毒が混ぜられていたのよ。幸い事なきを得て、皆様ご無事だったけれど。
直ぐに下手人の捜索が始まって、その結果、貴女のご実家から入った料理人が一人、いつの間にか王宮から姿を消したようよ。でも、近衛隊や衛士隊が行方を追っているような様子はないようだから、どうやら密かに処分されたのではないかという噂よ。
また新たにお毒見役になられたシャスマン名誉侯爵のご次男様は自害なされたわ。こちらは毒を見逃したという責任を取られて、ということらしいけれど真相はわからないわ。だってシャスマン名誉侯爵家には一切お咎めが無いのだもの。普通お毒見役が毒を見逃したらご実家も罪に問われるはずでしょう?
そうして貴女のお兄様。急にご実家から死亡の届けが提出されたとか。それで黒幕は貴女のお兄様ではないかと噂になったのよ。
だって他には何方も処分されてないし、料理人は貴女のご実家の者、シャスマン名誉侯爵のご次男様は貴女のお兄様の親友だって言うじゃない。これで無関係だと言うのなら、とんでもない偶然ではないかしら?」
女官はまくし立てるようにそう言った。それを聞くレッセニアの顔はみるみる青ざめていく。
「とにかくもう、わたくしに余り関わらないでいただけるかしら」
女官は吐き捨てるようにそう言うと立ち去った。レッセニアは死人のように蒼白な顔でその場に立ち尽くしていた。
そこへ声を掛けてきた者がいた。が、レッセニアは茫然自失で反応しなかった。
「貴女はラストーレル伯爵家のレッセニア殿でいらっしゃいますね?」
何度かそう声を掛けられてレッセニアはようやく声の主に向き直った。
「そうでございますが、貴方様は?」
震える声でそう尋ねるのが精一杯だった。
「失礼、申し遅れました。私は王室参謀長にて王国情報室長、クレリオル・ラステリアと申す者。お見知り置き願いたい」
相手の名乗りを聞いてレッセニアの顔が再び驚愕に包まれた。
「王室参謀長様!」
王宮北宮を己の職務の範囲とするレッセニアは、実はクレリオルとは初対面であった。基本が男子禁制の北宮に、クレリオルが訪ねてくるということがなかったからである。
「少し貴女とお話がしたいのだが、よろしいか?」
「はい。ですが、わたくしは内務大臣様に帰国のご報告を……」
「それは構わぬ。私が代理で受けることになっている」
王国情報室長の執務室に場所を移し、クレリオルはレッセニアに言った。
「此度のラストーレル伯爵のご逝去に心からお悔やみ申し上げる」
「忝のう存じます」
「兄上の急逝に関し、色々と面白からぬ風聞が流れているようだが、気になさることはない」
「えっ?」
「ご実家からの届け出によると、ラストーレル伯爵殿は急に心の臓が苦しくなって身罷られたという。
幸いにしてご実家にはいまだ幼年ながら、先代ラストーレル伯爵殿の嫡男殿がいらっしゃる。家督はこの先代の嫡男殿が継がれることが正式に認められた」
「それでは、兄は? 兄の死は?」
レッセニアは身を乗り出してクレリオルに尋ねた。
「兄上殿は病死」
だがクレリオルの返答はにべもないものだった。
「それだけでございますか? 兄は本当に何もしてはおらぬのですか?」
なおも食い下がるレッセニア。
「レッセニア殿、今一度申し上げる。兄上は病死。それだけです」
一切を拒絶するかのようなクレリオルの言葉に、レッセニアは一瞬にして悟った。
やはり兄が真犯人なのだと。
だが国は実家を、ラストーレル伯爵家やその親族の罪を問わないと決めたのだと。
だから兄を急病死として処理したのだと。
王宮の女官ともなれば愚か者には務まらない。この程度のことに気付けないようでは役には立たないのである。
その後レッセニアはラストーレル伯爵家の王都屋敷に下がった。そうして未亡人である次兄の嫂に久々に顔を合わせた。
「この度は何とも急なことで……」
嫂は狼狽を隠せない。当主の代替わりというのは貴族に取って最大の重要事であるから当然だろう。
レッセニアは迂闊なことは言えず、ただ頷くばかりだった。
「ご領地のお城から義兄上が急死されたと使いが来て大層肝をつぶしました」
ラストーレル伯爵は震災で急死した弟から家督を継いでからもそのまま領地の城住まいをしていた。一方の嫂は夫の死後も息子と娘と共に王都屋敷で暮らしていた。したがってこの両者の間にほとんど交流はなかった。そうして当主夫人の座を降りた嫂は子供達と静かに暮らしていたのだから、現当主の急逝は確かに青天の霹靂だったろう。
「親戚筋からは、兄上が何か良からぬことをしでかしたのではないか、と言ってきているのですけど……」
「それは大丈夫です、お義姉様」
「大丈夫、というと?」
「王室参謀長様からお言葉を賜りました。兄上の死は病死だと。ですから犯罪に加担したお咎め、ということではありませぬ。
ですか親戚たちにもそのように伝えましょう。それでも納得出来ぬというのであれば、私が表に立ちましょう」
「そうですか。ならば安心ですね」
「ええ。第一、もし兄上が何かしたのであれば、今頃この屋敷には衛士隊が押し掛けて来ていますわ。それがないのですもの、だから何もおかしなところはないということですわ」
「そうよね。良かった、安心したわ」
その後、レッセニアは王宮勤めに戻った。だが女官としてではなく下女としてである。だがこれは降格されたのではなく自ら進んでのことであった。このことはまた「やはりラストーレル伯爵が真犯人だったのでは」という憶測を呼んだが、レッセニアは意に介することなく下女働きに徹した。
だが元は貴族の娘であり、もっとも王族に近い北宮で女官長補佐に近い立場にいたのである。直ぐに頭角を現し侍女となり、女官へと復帰したのだった。
そうして、サイラが移動の多いレイナート一家に従って行動を共にするようになってからは、王宮女官長となり辣腕を振るったのである。
そうしてサイラ以上に強面で有能な女官長として勇名を馳せたのみならず、イステラ史上もっとも優れた女官と称されるようになったのは後の話である。
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