ディステニアの王都へ到着したレイナート一行がまずしたこと、それはグリュタス公爵家の王都屋敷に入り旅塵を落とすことである。
スピルレアモスの国葬そのものはすでに済んでしまっている。だが弔問に訪れたのだから喪服を着てコスタンティアと夫妻の長子レダニアルスへ会いに行かなければならない。その支度という訳である。
グリュタス公爵家の屋敷も広い敷地の深い森の中にそびえる瀟洒な建物である。
かつてレイナートがレリエルに向かっていた時、グリュタス公爵家の私兵団を鍛えていたナーキアスを先触れとして先行させた。それ故屋敷の正面玄関前には使用人やその私兵団の者達が勢揃いしてレイナートらを出迎えた。
「お帰りなさいませ」
そう言って腰を折り深々と頭を下げたのは家宰の長子アルタシアである。
アルタシアは北部五カ国連合の合意によって各国の王都に駐在館を設置することになった際、ディステニアの駐在官となったレイナートの補佐のため、しばらくリンデンマルス公爵家の王都屋敷フォスタニア館に詰めていた。しかしながらあの大震災で大陸北部の多くの国で被害が出たため、レイナートの許可を得ることなくディステニアに帰国していたのだった。その後レイナートの帰国と即位を知り許しを請う手紙を送ったが、レイナートのことだから特に咎めることもなく、そのままグリュタス公爵家で働くよう指示したのだった。
「手前の一存にて帰国などいたし、心の底よりお詫び申し上げます」
流暢なイステラ語でそう言ったアルタシアにレイナートは気にすることはないと首を振った。
「ところで父親は、エルロニアスはどうした?」
「されば父は震災後の混乱に心労が重なりまして……」
アルタシアの顔が曇った。普通にしていても笑っているように見えたアルタシアの顔は今ではそういうこともなく、ごく普通 ― というと変な表現だが ― の面貌となっている。
「そうか……。では見舞うとしよう。直ぐに案内するように」
「いえ、そのような畏れ多い……」
「構わん。公爵家のために働き体を壊したとあらば、当主として見舞うのは当然のこと。直ぐに案内するように」
レイナートの言葉は凛として揺るぎない。言葉遣い自体が昔と違い、その身分立場に相応しい物へと変化していた。数年間会わぬうちにまるで別人のように威風堂々としている、とアルタシアには思えた。
アルタシアの父エルロニアス・リュートセンは、同じグリュタス公爵家の王都の屋敷の敷地内の館にいた。これはグリュタス公爵家に仕えるリュートセン伯爵家の屋敷である。
グリュタス公爵家の本邸に比べれば決して瀟洒とは言い難い。だがリンデンマルス公爵家のフォスタニア館に比べれば、規模はともかく凝った作りではある。
二階の奥、日当たりの良い寝室の天蓋付きの寝台の上にエルロニアスはいた。
「これは、ご当主様……、このような見苦しいところへお運びいただき、お詫びのしようもございません……」
エルロニアスは幾分震える声でそう言った。
頬はこけ痩せ衰え、髪はすっかり白くなっている。深い皺が刻まれた顔は舐めた苦労の多さを物語っていた。
レイナートは誰かに似ている。そう感じていた。そうしてそれが誰だったかに思い当たる。
先代のリュクレルシス・リンデンマルス公爵にそっくりだったのである。
否、それは別段顔形が似ているというのではない。その雰囲気が似ているということである。両者とも力なく、まるで絶望したかのような眼。弱々しい声。針金のように細い体。
ひと目でエルロニアスの苦労が見て取れたレイナートであった。
「何の、お前には随分と苦労をかけた。余が、私がもっと早くに来ていれば、せずともの苦労をしなくても済んだのではないか? 済まない。この通りだ」
レイナートが頭を下げた。エルロニアスは目を見開きそれからこちらも頭を下げた。
「勿体のうございます……」
レイナートはその後いくつか言葉をかけてからまたグリュタス公爵家の本邸へ戻った。
それはスピルレアモスの弔問にやって来たのであって、グリュタス公爵として領地の視察に来たわけではないからである。
当主の部屋で、持ってきた荷物の中から喪服を取り出させ着替えに入るレイナート。クローデラが女官数名を従えて担当している。
その脇には家宰代行のアルタシアも控えている。
「アルタシア」
「はい」
「ところで当家の兵団は現在何名となった?」
「はい、ビスカット伯様が鍛えて下さいました時と変わらず五十名にございます」
「そうか、増えてはいないのか……」
「はい。申し訳ございませぬ。ですが増やそうにもあの震災でやはり手が足りなくなりまして教練が出来ませぬ」
「そうか。ならばその五十名で構わない、王城まで登る供回りとする。早速準備させるように」
「畏まりてございます」
「レック」
「はい」
レイナートは今度はレックを呼ぶ。
「剣を用意せよ。『金の剣』だ」
「御意」
レックは恭しく頭を下げると配下の侍従に命じた。
「剣をご用意申し上げろ!」
レックもこの頃は侍従長としての貫禄が出てきた。もっともレイナートと二人きりの時は昔ながらの言葉遣いが出るが……。
「アルタシア」
「はい」
レイナートは再びアルタシアに声を掛けた。
「余には余り時間がない。今までの当家の詳細を簡潔にまとめ報告出来るようにせよ。後ほど聞くことにする」
「御意」
その間にもレイナートの支度は次々に整っていく。
黒の喪服に身を包んだレイナートの腰にイステラ王の証「金の剣」が提げられる。白塗りの鞘に金の装飾が施されたものである。レイナートの本来の佩用の剣、古イシュテリアの聖剣「破邪の剣」ももちろん持ってきている。そうして普段なら国王として公式の場に姿を表す時でも「破邪の剣」を提げて出ている。だがこの時は金の剣を提げたのであった。
レイナートの隊列は、今度は先刻まで以上に物々しいものとなった。イステラから同行してきた近衛兵に兵站を担当する国軍兵士、またその前後にはディステニアの近衛兵が入国以来付き従ってきてもいる。そこへ今度はグリュタス公爵家の兵団が加わったのである。それでも精々三百数十人にすぎない一団である。
だが女官や侍従などの、いわゆる兵士以外の者はこの隊列からは姿を消した。長槍、戦斧、弓を携えた兵士のみが隊列を作って行進するのであるから当然のことだろう。
それに輪をかけたのが紋章旗である。
リンデンマルス公爵家の、獅子が前足を上げて咆哮する意匠の旗。そうしてグリュタス公爵家の旗。そうして交差する二本の剣とその上に口から火を噴く双頭の龍が描かれている旗。それはまさしくイステラ王家の旗である。
この三種の旗がはためいていた。
屋敷から城へと向かう沿道にはディステニアの王都民が膝をつき頭を垂れていた。
本来であればこれは許しがたい屈辱的なこととして捉えられていてもおかしくない光景である。
他国の国旗を掲げた一団が自分の国の城へ入っていく。それはまるで占領され入城を許したがごとくである。であるから普通ならたとえ平民といえども怒りに満ちた、もしくは絶望に満ちた表情をしているものである。
だが平民達にはそのような様子は見られない。どころか喪服に身を包んだ隊列をまるでありがたいものでもあるかのように頭を垂れていた。
ここに実はスピルレアモスの政策が現れていた。
かつてレイナートが弟王子の立太子式答礼使節団長としてこの国を訪れた時、当時まだ皇太子だったスピルレアモスがレイナートを出迎え王都まで同行したことがあった。
その時スピルレアモスの父王はなんとしてもイステラと事を構えたく、レイナートに対し随分と礼を失する態度で臨んだ。それ故レイナートは小さな村落の民家で休憩を取るということを余儀なくされた。その時応対に出た村人はレイナートがイステラ人であるということに恐れをなして隠れてしまうということがあった。
これはレイナートにはもちろん、スピルレアモスにも大きな影響を与えていたのである。
その後即位したスピルレアモスは、国内貴族の人心掌握はもちろん民心の掌握にも力を注いだ。暗部を使い国民に対しイステラとの融和を促すべく世論を操作したのである。「国王陛下の即位はイステラのリンデンマルス公爵のおかげ」「イステラとの和平こそ国を栄えさせる決め手」「仲良く手を携えて発展の途を歩もう」と国民に吹き込んだのである。
だが、ただそのように言うだけでは今度は国王スピルレアモス自身が国民に侮られてしまう。そこは上手く配慮してというのはもちろんである。
こうした工作が功を奏し、ディステニア国民もイステラをただ忌避するだけではなくなった。それが商取引を円滑に進めることに大きく寄与したのである。
商取引が活発になればより良い商品がより安価で購入出来るようになる。もちろん国内産業を保護する必要が全く無いわけではない。そこには別の苦労があるがスピルレアモスはそれを積極的に進めたのである。
ここにレイナートとスピルレアモスの最大の違いがあったと後世の歴史家は言う。
共にこの当時の為政者としては国民に対する接し方が、他の特権身分の者達とは違うというのである。ただ搾取するだけの者達に比べれば、いかに国民の生活が豊かになるかに意を注ぎ、それを実行してきた。
だがレイナートの「領民あっての領主」という、後の世の民主主義国家における政治家のような考え方に比べれば、スピルレアモスの方はそこまでには至っていない。
レイナートは可能な限り己の目の高さを庶民に近いところまで下ろそうとした。だがスピルレアモスはあくまで専制君主の立場を崩さず、そこから見て考えて行動したのである。
レイナートの革新的な政策は後の世に多くの変化と繁栄をもたらした。だがそれは多大な時間を要したことも事実である。
もしスピルレアモスが存命でその才を、絶大な権力とともに遺憾なく発揮したなら、この大陸の様相はまた違う道を歩んでいたに違いない。
歴史家はそう言うのであった。
さて、後の世の歴史家にそのように比較されていた二人のうちの一人レイナートは、そのようなことに全く思いを巡らせることもなく、在りし日のスピルレアモスの姿を脳裏に描きながらディステニアの王城に入っていったのである。
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