レイナートの前で青ざめて項垂れていたコスタンティアが顔を上げた。そこには毅然とした決意のようなものが浮かんでいた。
「軍務大臣度の、直ちに全貴族に出兵を促す書状を送りなさい」
跪いたまま背後を振り返ってコスタンティアはそう言った。
「シェリオールによる国境侵犯は我が国の問題。自らこれを解決出来ずして、亡き陛下にどう顔向けが出来ることでしょう」
そう言った美しい顔は神々しさを増していた。
「たとえわずかでも構いません。各貴族から兵を募り国境防衛を成し遂げねばなりませぬ。それが嫌だと申すならその者はディステニアの貴族にあらず。我らが栄光あるディステニアに仇なす者です」
コスタンティアは言い切ったのである。
それを聞いてガンドゥリウスが大きく頷いた。
「我がユディーレン子爵家からも可能な限り兵を出します。もうすでに大分、出兵させていますから大した数は出せませんが、それでも零よりはマシでしょう」
そうまで言われると軍務大臣クラーデルス侯爵も首肯せざるを得なかった。
「畏まりました。直ちに全貴族に使者を遣わしましょう」
それを聞いてシャナレルロア子爵の弟の顔にも笑みが浮かんだ。
「ありがたい! これで彼奴らに一矢報いることが出来る!」
それを聞いてレイナートも大きく頷いた。だが、だからっと言って自ら出兵することを引っ込めるようなレイナートではなかった。
「よろしい。されば我らも出来るだけ早く支度を整えて出陣するとしよう」
「レイナート陛下?」
レイナートの言葉にコスタンティアの顔に再び困惑の色が浮かぶ。
「陛下御自ら向かわれる必要は……」
「いや、余も参る。これは傍観で済まされることではない」
それこそクラーデルス侯爵に言ったばかりである。「まさか前言を翻すなどという真似はするまいな」と。それにやはりシェリオールによる国境侵犯問題の元凶は己にある。そう考えるレイナートであるから行かないということはありえない。それが決して望まぬことであっても頬被りは出来ぬ、ということである。
―― やれやれ、早く帰って来いって言うオッサン達の言葉を忘れちまったんかね……。
アロンが心中ボヤいている。
レイナートはイステラの国王である。確かにディステニアの貴族でもあるが、そこまでする必要があるのか? という思いの方が強かった。自分達のことは自分達で解決しろというのである。
もっともこれがもしもアレルトメイアであったらどうだったか。アロンはそこまで冷たく突き放して考えられただろうか。エネシエルの場合、祖国ル・エメスタに対してはまったく冷めてしまっているから、そういうことはまずないに違いない。だがギャヌースやナーキアスの場合だとまた別の考えを持っていることだろう。
いずれにせよレイナートが行くという以上、そのための準備に取り掛からなければならない。
レックはと言えば、これはもうすっかりイステラへ向かう気になっていた。レイナート様が御自ら兵を率いて国境へ向かわれるという。となれば先ほどの言葉の通り、万が一に備えイステラの挙兵を促すべく、早速動かなければならない。
結局、レイナートはグリュタス公爵家の屋敷に戻り、グリュタス公爵家の兵団にイステラから伴ってきた近衛兵、さらに国軍の平坦部門を率い、シャナレルロア子爵の弟に先導させて出立したのである。
泡を食ったのはクラーデルス侯爵を始めとするディステニア貴族達である。まだ全貴族に招集をかける書状も何も用意出来ていない。にもかかわらずレイナートがさっさと動いてしまったのだから当然であろう。
「ええい、グズグズするな! わずかの者で構わんから武装させて出立させろ!」
軍務大臣として貴族軍の招集に奔走する傍ら、自らの家臣の尻を叩いている。まったくもってレイナートのように腰が軽いというか、せっかちな人間に付き合わされる方は堪ったものではないだろう。
だがシャナレルロア子爵の弟にすれば、これはもう感謝感激である。
「レイナート陛下御自らにこのように迅速にお越し願えるとは感謝に堪えません」
そう何度も口にする。
「この御恩は一生忘れませぬ。兄もこのことを聞けば同じ思いとなることは必定です」
今まで何度援軍を願い出ても無視され続けてきて、本当に後のないギリギリにまでなっていたのである。それが急遽全ディステニアから援軍を派遣してもらえることになったのであるからさもありなん。
ところでディステニアは南北に長い国土を持ち、シェリオールとの国境線は実はそれほど長くはない。一番長く国境を接するのはビューデトニアの方である。
ところがこの国境線は途中まではイステラとビューデトニアとの国境となる峻険な山脈の延長上にあり、こちらは容易く人が越えることの出来ないものである。それでもその山脈も途中で終わりあとは大分平坦になってくる。したがってビューデトニアの方も、現在では絶対に油断出来ない状況とはなっている。
ただ何しろビューデトニアはあの大震災の中心地であったため被害の大きさが桁外れである。それ以前の、ロル・エオリア侯爵の命令で出兵し、返り討ちに遭ったということもあって、実はビューデトニアはディステニアとの国境を侵すこと出来るほどの兵力がどの貴族にもほとんど残っていなかったのである。したがってビューデトニアとの国境は難民の流入にさえ気を配っていればよかったのである。
次いで長く国境を接するのはロズトリンである。こちらは昔から有力貴族を配しているし、今のところロズトリンから侵略を受けるということもない。したがってやはり最大の問題はシェリオール軍の国境侵犯なのである。そうしてここに領地を持つ貴族は六家。その直ぐ内側にも五家の小貴族があって、この十一家が実際に国境を守っていると言えるのだった。
シャナレルロア子爵家の領地はディステニアからシェリオールへ向かう主要街道の南側に位置している。したがってかつてレイナートがシェリオールからロズトリン経由でディステニアに還った時には、足を踏み入れたことのないところであった。
恐れ多いことながらと恐縮しながらもレイナートと馬を並べるシャナレルロア子爵の弟は、二言目には礼を口にする。余程感謝に堪えぬということなのだろうが、レイナートとしてはいささか煩わしくなってきていた。
「もういいでしょう。それより下手をすると舌を噛みますよ?」
レイナートが些か素っ気なく言った。
一行はかなり速い速度で国境へ向かっている。もちろん馬の疲労も計算しなければならないが、さりとて荷馬車に合わせてのんびりと行軍していて国境が破られてしまっては本末転倒である。そこでレイナートは馬車での移動を余儀なくされるグリュタス公爵兵団とイステラ国軍兵站部隊は半ば置き去りにするように先へ急いだのである。したがってレイナートの周囲には家臣の他にはイステラの近衛兵とガンドゥリゥスとその兵しかいない。
ガンドゥリゥスは摂政首席補佐官という要職にあるが、レイナートとコスタンティアの連絡役兼軍監としての同行である。
「確かにこの速さで喋るの些か……」
ガンドゥリゥスは自身が舌を噛みそうになって押し黙った。
―― にしても、イステラ軍というのは本当に剽悍なものだ……。
兵站部隊を置き去りにするということは、宿営や給食をいわば度外視しているということになる。
―― よくぞ近衛の貴族らが黙っているものだ。
貴族などというものは、人にかしずかれて暮らしている。もちろんより高位の存在、例えば王族には逆にかしずく。だがそれでも己は貴族であるという矜持から離れることはない。したがって平民と同じような扱いを受けることには我慢ならないだろう。
それからすればイステラの近衛兵はガンドゥリゥスには、とても同じ貴族とは思えなかったのである。
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