「今日出来ることは明日に延ばすな」と言う。
何事も焦ってはならないが、さりとて問題の先送りはいい結果を生まないのは確かである。
ところでイステラ人は総じて「せっかち」だと言われている。それは冬が長く過酷なため、夏の間に出来ることを全てやっておかないと冬が越せないという厳しい現実があるからである。したがって今日出来ることを明日に延ばすと、迎えるのは「明日」ではなく「死」であるかもしれないという笑えない話が実際に起きかねない国なのである。
そのせっかちなイステラ人に輪をかけてレイナートはせっかちだと言われる。今日出来ることを明日に延ばすどころか、明日やるべきことですら今日の内に済ませてしまいたい、と真剣に考えるようなところがあるからである。
したがって宿営し、夜が明けて出立しようと言う時、いつまでも支度が整わないディステニア人を見ていると、どうしても多少は苛つくことがある。だがそれを声高に非難するのは大人げないし、所詮は他国人であり己が命令出来る立場にもない。仕方がないと諦めるしかないと考えている。
もっともそのディステニアのために動いているのだから、それでは済まないのが実のところではあるが……。
とるものもとりあえず、といった勢いで王都を出発して三日、ここまでは順調であった。
そうして主街道からシャナレルロア子爵領に続く脇道に入り、昼ごろには到着出来そうであった。後は願わくば、そのシャナレルロア子爵領が既にシェリオールの手に落ちていなければいい、ということだった。
そのせいか、一団の速度が何時にもまして上がっていた。シャナレルロア子爵の弟にしてもガンドゥリゥスにしても、やはり気が急くのであろう。
そうしてそろそろ遠目に城の高い塔が見えようかという時、シャナレルロア子爵の弟は突然うめき声を上げた。
「まさか!」
そうして馬に鐙を入れ一気に駈け出したのである。
「何事だ!?」
「どうした!?」
みるみる小さくなる後ろ姿に唖然とするガンドゥリゥス初め一行達。案内役が一人先行してどうしようと言うのか。そもそも礼儀を弁えていない行為であろう。
だが、そこでレイナートが叫んだ。
「ギャヌース、ナーキアス、追え!」
そこに何か尋常ならざるものを感じたレイナートは、ともに騎兵として高い実力を有する二人に追わせることにしたのだった。
そうして残りの者達に言う。
「我らも行くぞ!」
「おお!」
野太い声で気勢を上げて、一行も速度を早めたのである。
進んでいる脇道はさして広くはない。しかも森に囲まれている上に曲線が多い。したがって決して走りやすい道ではない。
ディステニアはエメスタ高原の西麓に広がる平地の国である。ロズトリンに近い南部はそうでもないが、国土全体が豊かな森を有している。その森の中の道を馬で駆け抜けていくのである。走り慣れた者であればいいが、ギャヌースやナーキアスのように、過去に一度も走ったことがないという者にとっては危険極まりない速さである。事実後続のレイナートらは数が多いということもあるがそこまでの速度が出せていない。
それを巧みな手綱さばきで遅れずに付いて行くのであるから、その実力はやはり凄まじいものがある。
―― これは呼び止めとも止まらんだろう。
ギャヌースは巧みに手綱をさばき遅れまいと続く。それはナーキアスも同じ。
―― どれほどの距離だ? 馬を疲れさせては戦えんぞ!
二人の懸念を他所に、シャナレルロア子爵の弟は歯を食いしばり馬を走らせる。その後ろからギャヌースとナーキアスが続いている。
ギャヌースにしろナーキアスにしろ貴族であり、当然ながら自分の従卒を連れている。この従者達が主人である二人の槍や予備の矢を携えているのだが、はっきりと言って己の主人についていけるほどの馬の技量はない。したがってギャヌースもナーキアスも、腰に提げた剣と鞍に提げた弓、背負う僅かな矢以外に武器を持たぬ。
馬上、槍を持っていれば無敵とも言えるほどの実力者であるギャヌース。わずかばかりそれに劣るナーキアス。劣るとは言っても並の騎兵では太刀打ちなど出来ぬ。だが両者その槍が手元にない。しかも馬が疲れていては思う存分働けぬのは火を見るより明らか。
―― 気持ちはわかるが……。
こういう時こそ落ち着くべきなのだが、そうは思うがこちらも後を追うので精一杯であった。
ややもすると行く手には微かに塔が見え始め、同時に黒煙が上がっているのも見えたのだった。
そうして木々の切れ間から城の姿がはっきりと見えるようになると同時に、火を放たれた周囲の村から立ち上る煙もはっきりと目に映るようになったのである。
―― 兄上! 兄上!
シャナレルロア子爵家の居城は比較的国境からは奥まっている。にも関わらず城の足下の村から火の手が上がっているということは、かなり国境内部へのシェリオール軍の侵入を許しているということになる。
「まさか、手遅れか!」
顔面蒼白となりながらもますます険しい顔でシャナレルロア子爵の弟は剣を抜き、憤怒の形相で村へ近づいていく。
「許さん!」
やがて馬の蹄にもかき消されぬ、村人の悲鳴が耳に入ってきた。それは同時に村を襲うシェリオール兵の耳にも蹄の音が聞こえるということである。槍を手にした兵士らが一瞬たじろぐ。
だが先頭を行くシャナレルロア子爵の弟しか目に入らず、一騎だけと勘違いしたのか不敵な笑みを浮かべてこれを迎え撃つように態勢を整えた。
馬上の有利も周囲をぐるりと取り囲んで一斉に槍で突けば失われる。後は地面に引きずり下ろしめった打ちにしてしまえばいい。
特に馬という動物は決して人を踏まない。もちろん蹴られればただでは済まないが、眼前に人がいれば飛び越えるか棹立ちになるかどちらかである。したがって機会はいくらでもある。
そこへ背後のギャヌースとナーキアスの放つ矢が降り注いだ。
「ぎゃあ!」
不意打ちを食らってシャリオール兵が悲鳴を上げた。
二人は一度に二本ずつ矢を放つという芸当を見せつつシャナレルロア子爵の弟の背後に姿を現したのである。これによってシェリオール兵の迎撃態勢が崩された。
そうして今度は得物を剣に持ち帰ると、既にシェリオール兵の槍に包囲されつつあったシャナレルロア子爵の弟の加勢に入る。
「許さん!」
それでも何とか三人を取り囲もうとするシェリオール兵達。
馬を巧みに操りその顔面に剣を突き立てていく。
そこへ新たな蹄の音が響いた。しかも二方向からである。
―― 新手か!
―― 援軍か!
そう思ったのはシャナレルロア子爵の弟、ギャヌースとナーキアスの三人だけではなかった。
「マズイ、引け!」
「逃げろ!」
シェリオール兵が顔色を変えてそこから逃げ出そうとした。
シャナレルロア子爵の弟はそれを追おうとするが、ギャヌースとナーキアスは押し留める。
「深追いは禁物。それより……」
その場に残り態勢を整えることを選択したのである。
背後からレイナートらが迫ってくるのはわかっている。だが別方向からの音は何者かがわからない。これが敵の増援であったらわざわざ自ら渦中に飛び込むことになる。
油断なく周囲を伺いながら迫り来る馬の音に神経を集中する。
そうしてレイナートらとは別の辻から迫り来る一団の姿が見え始めた。
ギャヌースとナーキアスの顔に緊張が走る。
―― 敵の方が先か!
三人で迎え撃つには多すぎる一団の接近に、ギャヌースとナーキアスも緊張を隠せないが焦る必要もない。背後からはレイナートが兵を引き連れてやってくるのだ。敵の増援なら一旦下がってレイナートと合流すればいいのだ。
と、シャナレルロア子爵の弟が突如として叫んだのである。
「兄上!」
向かってくる一団は、シャナレルロア子爵その人だったのである。
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