流れ者 ベィビーフェイス

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第2話 ベィビーフェイス、しくじる

「ロイヤル・パレス」という、名前だけは大層立派な安宿、というよりはただの淫売宿の一室の、身体を少し動かしただけでもギシギシと軋むベッドの上で、女は両腕を枕にうつ伏せている。その隣で、手を頭の後ろで組んで仰向けになって天井を眺めている男の横顔を眺めて言った。

「飛んだ食わせ者よね、あんたって……。すっかり騙されちまったわ……。だって、ウブな坊やみたいな顔つきのクセに、女の悦ばせ方、ちゃんと知ってるんだから……。」

 女はトロンとした目つきのまま男に向かって言った。あまり非難めいて聞こえないのは、その甘い喋り方のせいだろう。
 だが男は何も言わず、相変わらず頭の後ろで手を組んだままじっと天井を眺めている。

「ねえ、しばらく街にいるの? だったらあたしを専属にしてくれない? 一晩ごとよりその方が割安よ。ねえ、たっぷりサービスするからさぁ……。」

 男は漸く女を一瞥した。しかしすぐに視線を天井へと戻す。

「あたい好みなのさ……。あんたみたいな|可愛い顔の子《ベィビーフェイス》……。」

 女の言葉を無視して男、ベィビーフェイスが体を起こして漸く口を開いた。

「そいつは仕事次第だ……。それより先にメシだ。」

 そう言うと、ベィビーフェイスはベッドから降りて床に散らばる服を拾って身に着け始めた。ベッドの上で娼婦は、ふくれっ面をして吐き捨てた。

「いけ好かない男《やつ》……!」



 一夜を過ごした安宿の一階の食堂のカウンターに座って、ベィビーフェイスはポークビーンズを黙々と口にしている。酒も食い物もそれなりのところでなければありつくことはなかなか難しい。辺境あたりをさすらっていると、それはもう酷いことになる。
 その点、このユグメンデの街は王国でも五指に入る大きな街。こんな場末の安宿でさえ食い物はそこそこ食えるものを出す。
 朝っぱらからポークビーンズをしこたま腹に収めたベィビーフェイスは、食後のコーヒーを飲んでいる。尤も、ゆっくり楽しめるほどの味ではないが……。

 その出がらしのようなコーヒーを飲みながら、さて、これからどうしようかと考えている。風のうわさに、ユグメンデの街で大々的に人、それも腕の立つ者、を集めていると聞いて、興味半分でやってきたのである。
 ユグメンデの街は大陸全土を支配する王国の東部地域最大の街である。人口も多いが、交易、巡礼、物見遊山、はたまた職探しと多くの人々が集まってくる。特に今年の東部地域は干ばつに見舞われたため、いつも以上に人が多く集まっている。

 王国が大陸全土を支配しているとは言っても、それはヒト族の支配する部分の全てということである。
 大陸には獣人族も、妖精族も、魔族も住んでいる。この大陸はヒト族だけの世界ではない。ヒト族の世界では、干ばつで作物が採れなければ、王国や貴族が食 料を融通し合うということもある。しかしそれはあくまでヒト族の中での話。他種族にまで食料援助をするということはない。それに、一度そんなことをすれば 毎年毎年群がってくる。ヒト族の世界だけで精一杯なのに他種族にまで施す余裕はない。
 では、飢えた他種族はどうするかといえば、他所に住む同種族に援助を求めるわけではない。近場から奪うだけである。
 という訳で、ユグメンデの街は周辺の他種族、特に北西部に住むオーク族からの襲撃に備えて、義勇兵を集めているところである。

 周辺の貴族から王国へ援助の要請が出され、王国では現在正統騎士団を派遣すべく準備を進めているが、騎士団が到着するまでには20日はかかる。それまで に襲撃がないという保証はない。そこで周辺貴族も領民から兵を徴用しているが、こういう時にどこからともなくハイエナのように集まってくるのが無頼な流れ 者達である。
 人は必ずどこかしらの組織に属しているものである。しかしながら流れ者達の多くは正統騎士団崩れ、傭兵崩れで、どこの組織にも属さない者達。その多くは ならず者で鼻つまみ者である。大体どこの世界に氏素性《うじすじょう》もしれない流れ者などを雇う者がいるというのか。何時追い剥ぎや強盗に変わるかしれ たものではない。しかしながら、他種族の襲撃という緊急事態、非常事態の折には一転して頼りになる存在として歓迎される。王国正統騎士団の到着まで義勇兵 として勇敢に戦ってくれれば儲けもの。死んだところで誰が困るわけではない。一方の流れ者達にすれば街が他種族に襲撃された時、これを撃退すれば報奨金が もらえるし名前も上がる。王国や貴族、街のために働いたということで信用も上がる。そうなれば、たとえ諸国を流れ歩いても白い目で見られることも、無闇に 恐れられて敬遠されることも少なくなる。
 そうして、そうやって諸国を流れている者達は時に様々な情報を携えているので重宝されたりもする。また商品を運ぶ旅商人にとっては、実績があり信用でき る者であれば、頼りになる用心棒として雇うこともできる。が、そういった口はいつでもどこにでも転がっているわけではない。そういうことで、ベィビーフェ イスのような流れ者が食いつないでいくためには、なかなか厳しいものがあるというのがこの世界の実態である。

 さて、ベィビーフェイスは相変わらず、どうしたもんかな、とのんびりと考えている。懐具合を考えると余り仕事の選り好みをしている暇《いとま》はないの であるが、かと言って、街の様子からオーク相手の義勇兵になるのも気の進むことではない。もうかなりの同じような腕自慢の流れ者達が集まってきているし、 正統騎士団の到着も予想外に早くなりそうだ。となると大して働きもせずにすべてが終わってしまい、思うような報奨にも与《あずか》れそうではない。かと 言って、御用聞きよろしく、仕事の口を求めギルドを渡り歩くというのも業腹である。元々、組織の一員に収まるとことが嫌いな風来坊である。風のうわさにこ の街まで来たものの、無駄足だったかなという気が大いにしている。
 ベィビーフェイスとすれば、悪目立ちするのは気が進まないが、さりとてその他大勢の一人というのもどうかと思う。このあたりかなりひねくれた性格といえるかもしれない。

 そんなわけで食堂のカウンターに腰掛けて、薄い出がらしのようなコーヒーを飲んでいるところで、後ろから声を掛けられた。

「失礼ではございますが、義勇軍に参加される方でございますか?」

 その声に振り返ると、そこには額が後退した中年の男が立っている。如才なさそうな顔をしているが、目付きには隠し様もない鋭さが現れているのだが、声を掛けた相手が思いのほか若い、というか童顔《ベィビーフェイス》なので驚いた様子である。

「参加してたらどうなんだ?」

 ベィビーフェイスはぶっきら棒に聞いた。

「いえ、それでしたら他の方にお願い致しますので……。」

 男は淡々とそう言った。ベィビーフェイスの風貌を見て、半ば期待はずれというか見込み違いと思ったようだ。
 だがベィビーフェイスが問う。

「仕事か?」

「はい。」

 ベィビーフェイスは改めて男を見た。商人のように見えるが、それにしてはどうも佇まいが普通ではない。扱っているのは奴隷か、それとも愛玩用の他種族か……。
 ベィビーフェイスの、ハーフエルフとしての嗅覚が男の正体を嗅ぎ分けていた。

 世に好事家《こうずか》というものは確実に存在し、特に権力や金を有する者に多い。それらの者は獣人族の、例えば人猫族やら人犬族のメスを愛玩用に飼っている者もいるという。愛玩用と言えば聞こえはいいが要するに性奴隷である。
 そういった奴らもいけ好かないが、そいつらに奴隷を提供する奴らも気に入らない。朝っぱらから嫌な奴に出会っちまったな。ベィビーフェイスはそう思いながら男に背を向けた。

「悪いが他を当たってくれ。奴隷を売る奴も買う奴も好きじゃない。」

「どうやら、私めの仕事に気づかれたようですね。さすが、後ろ姿が只者ではないと見受けましたが……。
 仕方ありません、何方か別の方に当たるとしましょう。
 しかし、何故奴隷を扱っているというだけで、白眼視されなければならないのでしょうか? 私めはただ、求める方に求めるものを提供しているだけですのに……。」

 男がそう言い残しながら立ち去ろうとする後ろ姿に、ベィビーフェイスはもう一度声を掛けた。

「理屈じゃそうでも、納得できねえものもあるってこった。」

 男が立ち止まり再び振り返った。

「では、いくらお支払いすれば納得していただけるのでしょうか?」

「おいおい、銭金の問題じゃねえぞ……。」

「そうかも知れませんが、でも私めは違法な商売をしているわけでも、アコギな稼ぎをしているわけでもございません。
 それなのに、うちの用心棒達もさっさと義勇軍に参加してしまって……。」

 男の顔に憤懣やるかたないという表情が現れる。恐らく本当に理由がわからないのだろう。

 本人は決して肯定しないが、ここでベィビーフェイスのお人好しでおせっかいな性分が出た。言わずもがなな説明をしてやってしまう。

「奴隷なんてのは、そうなる可能性のない者にゃぁなんて事はねぇが、そうなる可能性のある者にゃあ我慢できねえものさ。それだけのことよ。」

「でも貴方様はそうなる可能性のないお方では?」

「まあ、おめおめと奴隷にされることはないと思いたいがね。こればっかりは賽の目と同じで自分の思い通りにゃいかねえよ。」

「左様でございますか……。ところでいかがでしょう、王国金貨で三枚出します。道中の護衛を引き受けてはいただけないでしょうか?」

「銭金の問題じゃねえと言った筈だが……。」

 ベィビーフェイスは、その余りに高額な報酬に内心驚きつつも、おくびにもそれを出さずに言った。

「ではどのようにしたら引き受けていただけますか? 商品のお届け先は、五日ほど行った先の貴族様。途中、山賊の噂のあるボリアンテ高地を通ります。これ を避けるとなると大きく迂回しなければなりません。しかも迂回路は襲撃が予想されるオーク族の住む地域に近く、安全とは言えません。」

 男は困り果てた表情で、ベィビーフェイスに縋るような目つきで見ている。
 王国金貨三枚を出そうというのはそれが理由か、とベィビーフェイスは考える。普通この手の仕事なら精々一枚ぐらいだろう。それ程破格な報酬である。ちょ うどオークの襲撃とタイミングがあって、いわゆる用心棒稼業の者が人手不足ということもあるだろう。報酬額は魅力的だが、奴隷商人の用心棒というのはどう にも気に入らない。だが、足を棒にしてギルドを回ったところでこれほどの仕事にはまずありつけないだろう。
 ギルドというものは商人、鉱夫、鍛冶屋、パン屋、薬屋等々職業ごとに細かく分類されている。ギルドに属さないのは農民と傭兵、それとベィビーフェイスのような流れ者である。
 農民は貴族の領民。傭兵組織はギルドのシステムとは相容れない。そして、流れ者の加入できるギルドなど存在しない。
 ギルドの基本的な性格は同業者の相互扶助組合であって、ベィビーフェイスのような流れ者に職業を紹介する所ではない。宝探しや異郷探検の仕事などはこの 世界にない。非常に手に入りにくい薬草や鉱物、宝石などは王国正統騎士団がその探索・収集を行う。よしんば流れ者の剣士や冒険者を自称する者が、そういっ た物品を手に入れたところで売却先はない。ギルドは胡散臭い者達から買い取るなどということは後難を恐れてしないのである。したがって、ギルドとして急場 しのぎの用心棒を必要とでもしない限り、流れ者がギルドから仕事の依頼を受けることは皆無に等しく、流れ者達の糧を求める手段は極めて後ろ暗い物が多い。
 だが貴族や直轄地の代官のもとで実績を上げた者、特に二つ名を持つ者ならばそういったこともない。だから、義勇兵を求めていると聞けば、流れ者達はそこ へ群がる。そうやって一旦は離れてしまった組織や社会との繋がりを取り戻そうとする。ベィビーフェイスのような自ら望んで諸国を流れている者はそうそうい ないし、その意味で相当のひねくれ者であると言える。

 ベィビーフェイスはしばらく奴隷商の男の顔を眺めていたがきっぱりと言った。

「言った筈だ。他を当たってくれ。」

 そう言うと、出がらしのようなコーヒーを飲み干して席を立った。奴隷商は仕方ないと溜息を吐きながらその後ろ姿を見送った。

 宿屋を出たベィビーフェイスは踵の拍車を鳴らしながら、街の通りを歩いている。多くの人が集まっていることもあって活気に溢れている。特に腰に剣を提げ た者が多く目につくのは義勇兵を集めているからだろう。普段なら強面で威嚇する流れ者達が、得意げな表情に肩で風を切って歩いている。義勇軍に参加したこ とで大手を振って街を歩けることがさぞや得意なのだろう。

―― みっともねえ……。それなら最初から元の組織なり何なりにしがみついてりゃあいいものを……。

 ベィビーフェイスは心の中で悪態をつきながら義勇兵達を眺めている。

―― もっとも、こちとら懐も寂しいまんま。人のことは言えねえか……。

 そう思いながら街を歩き続けている。
 これだけ義勇兵がいるということは、逆にギルドから仕事をもらっている用心棒などが減っているかもしれないとは思いつつも、ではどこかのギルドに入っていって話をしようという気分にもならない。
 そんなこんなでブラブラといつまでも街を歩いていると、今朝、食堂で声をかけてきた奴隷商の男が、剣を提げた男達に話しかけてはペコペコと頭を下げている。中々護衛を引き受けてくれるものが見つからないようだ。

―― 奴も大変だな……。

 そう思った時、奴隷商の男と目が合ってしまった。男が大急ぎで近づいてくる。ベィビーフェイスはこれはまずいと逃げ出すべく踵を返したが、折悪しく巡礼と思しき一団が来合わせ、人混みの中で思うように先へと進めず男に捕まってしまった。

「どうかお願いします。もう他に何方もいないんです……。後生ですから……。」

 男が頭を下げて懇願する。その必死さに辟易しながらも、ベィビーフェイスは諦めた。このままではいつまでも開放してはくれないだろうと思えるほど男はしつこく頼み込んできたからである。

「ああ、ああ、わかったよ。やるよ。やりゃあいいんだろう?」

 ベィビーフェイスは肩をすくめてそう言った。男の顔がみるみる喜色に満ちていった。



 奴隷商の使用人と思しき若い男が御する小さな窓のついた箱型の馬車の脇を、ベィビーフェイスは溜息を吐きながら馬上、並んで進む。

―― やっぱり引き受けるんじゃあなかったぜ……。

 後悔することしきりである。
 ユグメンデの街の外れの奴隷商の店で、納品される奴隷が馬車に乗り込む時に、その姿を見てしまってから溜息の吐き通しである。
 奴隷は若いエルフのメスである。もっともエルフの場合、肉体の成長はヒト族と同じぐらいの速さで成人に達するが、ヒト族と違うのはそこからの寿命が長いのが特徴である。
 奴隷となったエルフの頚、手首、足首に魔力抑えの宝玉がびっしりと付いた革バンドが巻きつけられている。あれだけ宝玉が付いているとなると、ほとんど魔力は封じ込められているだろう。ベィビーフェイスは試しに念波を送ってみたが非常に小さい反応しか帰っては来なかった。

 念波というのは、エルフ族に特有のコミュニケーション手段である。これによって言葉を介さずに意思の疎通ができる。また、その個体によって能力範囲は異なるが、自分以外の生物のいる位置の特定もできる。強い魔力を持つエルフなら大きな街の隅々まで把握できるという。
 だから、魔力を抑えられてしまうと念波も使えなくなってしまうのである。

―― 哀れなもんだ。あれじゃあ腹が空いてもどうにもならねえだろうな……。

 エルフは大地や森の木々の精気を取り込むことで栄養素とすることができる。と言うよりは、普通はその様にして生活している。口からの飲食よりもそのほう が効率が良いからである。しかしそのためには多少といえど魔力を要する。魔力を封じ込められてはそれすらもできない。食事をとれなければ衰弱するのみであ る。

 奴隷馬車とベィビーフェイスはユグメンデの街から西へと向かって進んでいく。
 奴隷商の若い男は無口で陰気な男で、ほとんど口を利かない。黙々と馬車を御して先へと進んでいく。
 出立してから三日ほど経って行手にボリアンテ高地が見えてきた。山脈といえるほどの高さはないが、かなり大きな広がりを見せている。
 道は段々と上り坂になり左右は鬱蒼とした森になっていく。これではたしかに山賊が潜んでいても不思議ではない感じだが、では山賊なるものが実際に住み着いているかというと甚だ疑問でもある。
 一処《ひとつところ》に潜んで旅人や商人を頻繁に襲えば、嫌が上でもそれは噂となって王国正統騎士団の出動を促すだろう。と言って、極稀に襲うだけで済 むほど食料その他に満ちているなら、山賊などする必要はないだろう。金品を得るのが目的でも、それを使うところがなければ意味はなさないはずである。とい うわけでベィビーフェイスは、山賊よりも狼や山犬などの獣の方を警戒した方がいいのではないかと考えている。
 そこで己の剣のスキルは「瞬速」を着けてある。大抵の場合はこれで事足りるし、相手が獣の場合は特に有効だろう。

 馬車はゆっくりと高地の中を進んでいく。途中一箇所、片側切り立った崖になっているところに差し掛かった。道もあまり広いとはいえず奴隷商の男は慎重に馬車を進めていく。

 その時突然、頭上から矢を仕掛けられた。
 ベィビーフェイスは降り注ぐ矢を何とか躱したが、馬車の男は矢を体に受けて地面に転落してしまった。

「しまった!!」

 ベィビーフェイスは馬から飛び降りると、地面に転がる男の体を引きずって馬車の下へと潜り込んだ。

「おい、しっかりしろ!」

 ベィビーフェイスが男の体を揺する。しかし胸に一本深々と矢が刺さった男は、息も絶え絶えに呟いた。

「畜生、約束が違う……。」

「おい、約束が違うってどういうことだ!? おい!」

 しかし男は息絶えてしまった。

―― ちっくしょう! 飛んだしくじりだぜ。

 ベィビーフェイスは悪態を吐きながら、男の衣服を弄《まさぐ》った。懐から送り状と思しき書類の束と、小金の入った巾着を見つけた。そいつを急いで己の 懐にねじ込む。ゆっくりと中身を確認する暇はない。他に何か持っていないかと男の体を調べるが他には何も持っていなかった。

 その間、何者かは分からないが、どうやら矢を射かけてくるのは止めたらしい。しかし、馬車の下から飛び出せばまた雨のように矢が降り注いでくるだろう。だからといってこのまま馬車の下に隠れているわけにもいかない。いずれ敵は姿を現すに違いないからだ。

―― どうする? いつまでもこのままじゃあ埒が明かねえ……。

 ベィビーフェイスがこの先どうするか逡巡していると、足音が聞こえた。見ると馬車の前後、離れたところに賊が姿を表した。
 このまま遠巻きにされた上で矢を射かけられたらそれこそ逃げ場がない。

―― 仕方ねえ、ここはひとまず逃げるのが先だ!

 ベィビーフェイスはゴロゴロと転がりながら馬車の下から抜け出ると、崖の下へと飛び降りた。
 すぐにブーツの中から短剣を引き抜き、それを崖の斜面に突き立てて、己の落下を止めようとする。上手く短剣が斜面に食い込み途中で止まることができた。ベィビーフェイスは斜面のくぼみに身を隠した。
 頭上から複数の男の声が聞こえる

「どうだ? 見えるか?」

「いや、見えねえ! 下まで落ちたんじゃねえか?」

「よく探してみろ! 生きてられて後で面倒な事になったら堪らねえぞ!?」

「つっても、見えねえぞ! やっぱり下まで落ちたんじゃねえか?」

「もういいだろ? 奴隷商の使いの男は死んだし、あいつが用心棒でも取り返しになんか来ねえよ。来たところで勝てる相手でもねぇんだし……。」

「だからって、死んだのかわからねぇんじゃ、クレストンさんにどやされるぜ?」

「とにかくもう一度よく見てみろ!」

 どうやらベィビーフェイスの姿は上からは全く見えてないようだ。

「やっぱり見えねぇ。もう行こうぜ!」

 その言葉を最後に話し声は聞こえなくなり、代わりに馬車の車輪の音が遠ざかるのが聞こえた。
 ベィビーフェイスはしばらくそのまま身を潜めていたが、少ししてからようやく頭上を仰ぎ見て、人影が見えないのを確認するとゆっくりと崖を登り始めた。
 崖を登り切って道の上に上がろうとしたところで、男が二人立っているのが目に入った。

「やっぱり居やがったか。」

「念には念を入れておいてよかったぜ!」

 男達はそう言いながら剣を抜いて殺到してきた。ベィビーフェイスは間一髪、道の上に転がり上がると、立ち上がりざまに剣を抜いた。
 相手が振りかぶって近づいてくるのを躱しながら懐に飛び込み、そいつの腹に剣を突き立てるが、鉄片を仕込んだ革鎧に弾き返される。
 男がニヤニヤと笑いながら言う。

「中々、すばしっこいじゃねえか、小僧! だがもう終わりだ! オメェに勝ち目はねぇ!」

 そう言って再び振りかぶって突進してくる。ベィビーフェイスは「瞬速」のスキルを最大限に発揮させ、目にも留まらぬ速さで相手の顔面に剣を突き立てた。

「ぎぇー!」

 男の口から悲鳴が漏れる。その男の胸を足で押しながら、剣を左右にひねりながら引き抜く。

「野郎!」

 もう一人の男が襲い掛かってくる。ベィビーフェイスは高々と跳躍すると、そいつの背後に回り、片手でそいつを後ろから羽交い絞め、剣を喉に当てる。

「雇い主は誰だ? クレストンって奴か? 奴隷をそいつのところへ連れて行ったのか?」

「し、知らねえ! 何の話だ?」

「おいおい、とぼけたって無駄だぜ。それに俺は見た目ほどにゃあ甘くないぜ?」

 そう言いながら、ベィビーフェイスは剣をゆっくりと引いて、男の頚の皮一枚を切る。男の頚から血が流れでてくる。

「早く言わねえと、喉で直接呼吸ができるようになっちまうぜ?」

「言えるわけねえ! 言ったら最後クレストンさんに殺……。ああ!」

「もう遅いぜ。それに喋ったら助けると言った覚えもねえぞ?」

 ベィビーフェイスは一気に手に力を込めて男の首を切り裂いた。男の首から空気が大量に溢れる音がした。
 男を生かしておいてその後を付けるという手がないわけではなかった。しかし、男が素直にそのクレストンとか言う奴のところへ行けばよいが、そうでなければ無駄に時間を費やす事になる。

 商人の護衛を請負ながら賊に襲われ商品を奪われた場合、護衛の取るべき道は二つ。
 一つは商品を取り返し、最初の契約のところへ期日までに無事に届ける。
 いま一つは、元の雇い主、または代官所に顔を出し、商品を奪われたことを申告するのである。その場合、無能な役立たずの烙印を押されることは当然である。
 そのどちらもしない、または出来なかった場合、自分が商品を横取りしたものとされて、自分の首に賞金がかかってしまう。つまりお尋ね者になってしまうの である。そうなってしまったら、行く先々で命を狙われることになる。流れ者の剣士の最も多い稼ぎ口。それは、お尋ね者の首を狙った賞金稼ぎであるからだ。
 となれば取るべき道はひとつ。なんとしてもあの奴隷を取り返すことだ。

 ベィビーフェイスは全神経を集中して念波を放った。するとかすかな反応を捕えることができた。それは本当にかすかな反応で、すぐにも消えてしまいそうである。
 ベィビーフェイスは指笛を鳴らした。自分の馬は敵に急襲された時でも、決して遠くまでは逃げない。必ず指笛の聞こえる範囲に留まっている。
 しばらくすると馬が姿を表した。全く利口な馬である。こんな山の中、しかも片側は崖である。一体どこに隠れていたのだろうか。
 ベィビーフェイスは馬の首を撫でながら馬に話しかける。

「全く大した馬だぜ、カワイコちゃん。さて、ちょいと急がにゃならねぇ。頼むぜ?」

 ベィビーフェイスが馬の背に乗ると、馬は一気に駈け出した。

「おいおい、お手柔らかに頼むぜ?」

 言ってる言葉の割りには、ベィビーフェイスは嬉しそうだった。



 ベィビーフェイスはボリアンテ高地の中を駆けて道を先へと進んでいく。途中時々馬を止めては念波で奴隷の行方を探る。どうやら馬車から出してはいないと見えて段々自分が近づいているのがわかる。
 ところが、高地を降りると途端に追跡が難しくなった。そこはだだっ広い荒野で、遥か遠くまで見通しが効くからだった。
 暗くなるまで待っていたら、離れすぎて念波が届かなくなるおそれがある。そうなってしまったら奴隷の所在がつかめなくなる。奴隷の魔力抑えの革バンドが 外れればかなり遠くだろうが位置を掴めるだろう。しかし、それは魔力の開放を意味するから、その必要がない限り、そうすることはありえないとしか思えな い。

―― どうするか?

 ハーフエルフであるがベィビーフェイスには魔力らしい魔力が殆ど無い。かろうじて念波が使える程度である。はっきりと言えば、生粋のエルフのものに比べるとそれはないに等しいほど見劣りがするのである。
 生粋のエルフなら、念波を飛ばせばその届く範囲内の動物はもちろん大きな樹木も位置が把握できる。だがベィビーフェイスが念波で把握できるのは相手がエ ルフの時だけである。だから山中崖を上がる時、上にいた賊に気づかなかったのである。これはハーフエルフの中でもその能力がかなり劣っていることを示す。 そうしてベィビーフェイスが生まれ故郷を捨てた理由にも繋がっている。
 エルフも、ハーフエルフも保有する魔力は個体差が大きい。だが、どれほど強い魔力をハーフエルフが有していても、最弱のエルフの魔力よりも小さいのが普通である。
 ベィビーフェイスはそのハーフエルフの中でも、更に魔力が小さいのである。その為、常に蔑まれ見下されて育った。ヒトである父親とエルフである母親との間で、どうやら父親の血が相当濃かったようだ。
 両親は気にするなと言ってくれたが、それで済む問題ではない。逆に父親譲りの腕力を鍛え剣の腕を磨いた。
 だが、剣の腕がどれほど向上しようと、己に放たれる魔力を防ぐことはできない。打ち破ることはできない。到頭最後には逃げ出すように故郷を捨てたのである。それはベィビーフェイスの、誰にも言えない汚点であった……。

 必死に目を凝らして行先を窺うベィビーフェイス。彼方に集落らしいものがあるのに気づいた。

―― 暗くなってからあそこへ忍び込んで、そこで確かめるしかねぇか? だが、時間が掛かり過ぎても面白くねえ……。

 奴隷商の主人は、届け先は五日の距離だと言っていた。期日になっても奴隷が届かないとなれば、顧客から奴隷商に問い合わせるだろう。それには早馬を使う だろうから四日、いや三日で済んでしまうだろう。今日はユグメンデを立って四日目。遅くとも残り四日以内に奴隷を本来のところへ届けないと賞金首にされて しまう。いや、出来る事なら最初の期日、五日目までに取り戻して送り届けるのが最善なのは言うまでもない。
 ベィビーフェイスは懐から、馬車を御してきた若い男から抜き取った書類の束を取り出した。見ると届け先の名前はシャストールという名の貴族である。
 となるとクレストンというのは一体誰だ? 貴族から奴隷を横取りしようってからには、結構な勢力を持っているんじゃないか? となりゃあ、案外そいつの居場所を探り出すのは簡単なんじゃねぇか?
 ベィビーフェイスは行く手に一筋の明かりが見えたような気がしてきた。

 一刻ほど経ってから集落へと近づき、そこで旅行者を装いクレストンという名の人物について探りを入れた。
 村人はベィビーフェイスを警戒してか、その重い口を中々開こうとはしなかった。
 そこでベィビーフェイスは努めて明るい表情で一芝居打った。

―― 自分で言うのもなんだが、俺は中々の遣い手でね。クレストンさんが人を集めてると聞いてやってきたのさ。もしクレストンさんが俺の腕前を見れば、必ず気に入って雇ってくれるはずさ。そうなりゃあんたも、いい男を紹介してくれたって、褒められるはずだぜ?

 ベィビーフェイスの相手をした気の弱そうな中年農夫は、その言葉に安心したのかクレストンなる人物のことを話してくれた。
 クレストンはこの辺の荘園の代官をしている男で、最近特に羽振りがいいらしい。荘園の持ち主の名はシャストール。ここで二人の名前が繋がった。
 ベィビーフェイスは農夫に礼を言うと、集落を後にした。

 夕焼けに染まる大地を、農夫から聞いたクラストンの根城を目指して進んでいく。昔この辺を支配していた小領主の城をその本拠としているとのことで、すぐに分かるはずだと農夫は言った。
 確かに教わった道の先に小城が見えてきた。
 小城とはいえ城は城。そう簡単に攻め入ることはできないような頑強な作りである。
 城から離れたまばらに生えている木に馬をつなぎ、ブーツに着けていた拍車を外して日が沈むのを待った。いくらなんでも明るい内に近づくのは馬鹿げている。
 日が沈むと腰を屈めて城へと近づいていく。幸い堀で取り囲まれてはいなかったので、城壁には易々と辿りつけた。とは言うものの、城門は閉ざされてる上に、城壁には油が塗られている。これではよじ登るのも容易ではない。

―― 大層羽振りがいいって話だったが、城壁に油を塗りたくってるところを見ると、こいつは相当なもんだぜ……。

 どうやって稼いでいるのかは分からないが、クレストンはどうやらシャストール貴族を物ともしないほどの自力をつけてきたのだろう。それでその奴隷を横取 りしようと企んだに違いない。馬車を御してきた若い男は金を掴まされて、その企みに加わったのだろう。だが、裏切られて殺されてしまった……。
 ベィビーフェイスは芝居の筋書きが読めてきた。

 さて、それよりも問題はどうやって城内に忍び込むかである。
 これだけ高さのあって、しかも油を塗られた城壁を登るなど不可能に近い。鉤手のような道具も何もないからである。

―― 壁を凍らせて穴を開けるか……。

 ベィビーフェイスは剣を抜いた。
 抜き身を両手で逆手に持って目を瞑る。
 全身全霊をかけて強く念じる。

―― スキル変更 「氷結」!

 それまでのまばゆい輝きの剣身が透明感のあるものへと変わった。

 スキル「氷結」は、その刃の触れるものを文字通り全て凍らせるものである。そうやって凍らせたものは、ちょっとの衝撃でも粉々になってしまう。たとえ巨 岩といえどその点に変わりはない。但し、生き物の生体のように柔らかい物は一瞬で凍らせられるが、石のようなものはそれなりに時間が掛かる。したがってこ の城壁もどれほどの厚みがあるのかは分からないが、侵入できるほどの穴を開けられるまでには、結構時間を食いそうである。

 ベィビーフェイスは、穴を開ける場所を決めるため城の周りをぐるりと回った。闇雲に穴を開けて、そこが兵士の控え所だったりしたら目も当てられない事になる。逆に塔のように下が貯蔵庫となっているところの場合、穴が開いたはいいが物が詰まっていては侵入できない。
 ベィビーフェイスは縦長の細い覗き窓が一定の間隔で並んでいるところに穴を開けることにした。恐らくその窓は、外敵に矢を射るためのもので、そこは恐ら く回廊となっているはずである。更に月の向きをも併せて考えた。今はまだ月は昇っていないが、穴が開く頃には月明かりが煌々と照らしているだろう。そうな ると、侵入した自分の姿が丸見えになってしまう。
 この二つの条件を満たすところに、ベィビーフェイスは剣を突き立ててゆっくりと差し込んでいく。硬い岩であるため中々突き入れられない。少し、また少し とゆっくりと剣が刺さっていく。それに連れて、剣が刺さった周囲の岩が凍っていく。かなりの時間をかけて剣身がすっかりと城壁の岩へと差し込まれた。だ が、まだ貫通している気がしない。
 ベィビーフェイスは剣を一旦引き抜くと、凍った岩を足で蹴った。すると、まるでガラスが砕けるかのように岩が粉々になっていく。そうやって穿った窪みの中に再び剣を突き立てる。
 何度かそれを繰り返してようやく城内への潜入に、誰にも見られることなく成功した。がいまだ中庭に入っただけ。今度は建物の内部に入らなければならない。

―― どこから入るか?

 再び石壁に穴を開けていたのでは時間が掛かり過ぎる。

―― 正々堂々と正面から行くか?

 冗談交じりにそんなことを考えていると、通用口と思しき分厚い木製の扉が開いて、中から男が一人出てきた。身を潜めてその男を窺っているとどうやら小用を足しに出てきたようだ。建物に向かって放尿し始めた。
 ベィビーフェイスは背後から密かにその男に近づき剣を振るった。
 声を出す暇もない。男は一瞬で凍り、放尿する姿の氷像となった。

 ベィビーフェイスは空いている扉から中を覗い素早く中へ潜り込む。廊下の壁には松明が掲げられそこそこの明るさである。
 慎重に廊下を進むと、階段のある広間に出た。どうやらそこが正面玄関のようだ。

―― クレストンっていう奴の部屋は当然上だろうな……。

 主人の部屋は最も外敵から遠い場所、というのが一般的だろう。となれば階上、廊下の奥というところが相場だろう。

 ベィビーフェイスが辺りを窺っていると背後で声がした。

「おい、いつまでやってんだ……て、何だこりゃあ!?」

 ベィビーフェイスが凍らせた男が見つかったようだ。

―― ちっ。まあ、仕方ねぇか……。

 ベィビーフェイスは一気に広間に飛び出て、階段へ向かおうとした。
 すると石壁の中からゴーレムが三体出てきた。足音を響かせベィビーフェイスに向かってくる。

―― なんだよここは? お化け屋敷か?

 ゴーレムは思いの外素早い動きで、ベィビーフェイスに攻撃してくる。剣のスキルが「瞬速」なら躱せない速さではない。しかし「氷結」では、多少こちらが上回っている程度である。
 しかもその音を聞きつけて、兵だか用心棒だかまで集まってくる。

―― とんでもねえ大しくじりだぜ!

 ベィビーフェイスは悪態をつきつつ、ゴーレムの攻撃を躱す。ただ、「氷結」のスキルがここでは幸いした。ゴーレムの振り回す腕を剣で受けるとその腕が 凍っていく。その腕ををさらに振り回すと、重みで凍った腕がちぎれて粉々に砕けていく。剣を手に襲い掛かってくる者達も同様である。剣が一瞬にして凍って 砕ける。さらに体に刃が当たれば、鎧を着ていようが鎖帷子を着ていようが同じく体が凍り砕け散る。
 そうやって、ゴーレムも何もかも凍らせては粉砕する。クレストンの配下達は、恐怖に顔を引き攣らせジリジリと後退りしていく。
 そこでベィビーフェイスは踵を返すと、一気に階段を駆け上がり上の階の廊下に出る。

―― 右か? 左か?

 左右二手に分かれる廊下を交互に見る。

―― こっちか!

 一瞬に、念波でエルフの居場所を察知したベィビーフェイスは、廊下を右に駆け出す。
 そうやって何度か分かれ道を選んで先へ進むと、直ぐ目の前、廊下の突き当りの扉からメイド服に身を包んだ背の高い若い女が出てきた。頭には猫耳。人猫族のメスか?
 ベィビーフェイスはそのメイドに一気に駆け寄ると、背後からメイドの首に腕を回し、剣をメイドの顔に近づけた。

「悪いことは言わねぇ。おとなしく連れ込まれたエルフの居所を吐きな!」

 ベィビーフェイスがメイドに脅しをかける。しかしメイドは不敵な笑みを浮かべたまま静かに言う。

「お客様。それでわたくしを脅しているおつもりですか?」

 メイドは首に回された腕を両腕で掴むと、ベィビーフェイスを一気に背負って投げ飛ばす。
 投げ飛ばされたベィビーフェイスが体勢を立て直そうとしているところに、メイドの鋭い回し蹴りが殺到する。あまりの速さに躱しきれず、鉄片を仕込んだ革 の防具に包まれた左腕でそれを受け止める。と、ベィビーフェイスの体がそのまま吹っ飛んだ。小柄とはいえ、男のベィビーフェイスを吹き飛ばすほどの蹴りで ある。その蹴りの重さはとても人猫族のものとは思えない。

「てめぇ、人猫じゃあねえな?」

 よろよろと立ち上がりながらベィビーフェイスが言う。

「フン。あたしを、男に媚びるだけが取り柄の猫といっしょにするんじゃないよ!
 あら、いけない。これは失礼しましたわ、お客様。」

 メイドは口調を改めると、スカートの中立ちをつまんで恭しく頭を下げる。履いている編上げのブーツを突き破って鋭い爪が現れているのが見えた。

「人虎か……。」

 人猫と人虎は似ているようで全然違う。
 人虎の方が体格がよく、動きも早いクセにその攻撃の重さは半端ではない。
 人猫よりも遥かにプライドが高く、孤高な存在で、少なくともこのメイドのように、ヒト族などに使われるようなことはないはずだが……。
 今はそんなことはどうでもいい。理由がわかったところで、それが何の役に立つ? ベィビーフェイスはそれよりも、どうやってこの人虎メイドを倒すかに集中した。
 メイドは身構えることもなくスタスタとベィビーフェイスに近づいてきては、鋭い爪の伸びた腕を振り、回し蹴りを放ってくる。
 それを必死に躱しながら、気がつけばジリジリと元来た廊下を後退させられている。

―― くそ! なんか手はねえか?

 ベィビーフェイスの顔に焦りが浮かぶ。
 それを見てメイドが晴れやかな笑顔を見せて言う。

「いいお顔つきでございますね、お客様。
 そろそろ、お遊びは終わりに致したいと存じますが?」

 ニヤリと笑ったメイドの口許には鋭い牙まで現れる。
 メイドが凄みの効いた声で言った。

「坊や、覚悟しな!」

 そう言って一気にメイドが迫ってくる。ベィビーフェイスは剣を両手で握り眼前に立てた。

―― 礫!!

 そう心の中で叫びながら、剣に鋭い息を吹きかける。すると、吹きかけられたベィビーフェイスの息が小さな氷の礫となって、メイドに降り注ぐ。小さな礫で あるから、それで直接相手を殺傷するほどの威力はない。せいぜいそれが当たったところが少し凍るだけである。ただ目潰しとしては効果がある。目に飛び込ん でくるものがあれば、何者でもそれを避けるために目を瞑ったり顔を背ける。
 メイドも足を止め、両腕を顔の前で交差させて礫を防いだ。
 そこへベィビーフェイスが剣を振るう。切っ先が掠めただけでは丸ごと凍るということはない。しかし何度もそうやってメイドの腕に傷をつけることで、メイドの腕は半ば凍りつき始めていた。

「貴様ぁーーっ!」

 メイドは半ば凍りかけた腕を体の前に上げ、鋭い爪をベィビーフェイスに向けて絶叫しながら踏み込んできた。それを避け際にメイドの腕に鋭い一撃を入れる。
 今度は確実にメイドの腕を凍らせた。メイドが振り向く際、その遠心力で腕がちぎれて壁に当たり粉々に砕けた。その時、澄んだいい音が廊下に響いた。
 メイドは両腕を失ったことで更に凶悪な形相でベィビーフェイスに迫る。
 ベィビーフェイスが再び氷の礫をメイドに向けて放つ。それがメイドの顔に当たり両目を凍らせた。突然視力を失ったメイドは立ち止まり、失った両腕で必死に顔を触ろうとする。

 ベィビーフェイスの冷たい声が響く。

「あばよ。」

 袈裟懸けにメイドを切りつけるベィビーフェイス。メイドの全身が凍り、倒れた瞬間に粉々に崩れ去った。

 ベィビーフェイスは、凍って粉々になったメイドの体の破片を、意に介する事無くジャリジャリと踏んで突き当りの扉へ進む。
 扉の向こうに囚われのエルフがいるのはわかっている。
 だが他に誰か居るのかはわからない。扉の向こうの気配を感じ取れるほどの超感覚は残念ながらベィビーフェイスにはない。

―― 仕方ねえ。乗りかかった船。なるようになれ、だ!

 ベィビーフェイスは扉を凍らせて蹴破り、転がりながら中へと突っ込んだ。すると甲高い声に出迎えられた。

「随分と乱暴なお客様ですねえ。お里が知れてしまいますよ?」

 室内の奥には大きなベッド。その上に全裸に剥かれたエルフが顔を突っ伏して横たわっている。
 その脇に小柄な中年男が立っている。いや、小柄どころではない。まるで子供のような体躯である。その男の丸い卵型の頭に黒髪がペッタリと撫で付けられている。渦を巻いた前髪が額に張り付いている。にやけた顔は、ベィビーフェイスには吐き気を催すほど醜悪に見える。

「まったく、人の屋敷を訪ねる時には礼儀というものがあるでしょう? 無礼者は嫌いです。」

「礼儀知らずは認めるが、だが、そっちはどうだ? 他人の物を横取りするのは、礼儀知らずじゃねえって言うのか?」

 ベィビーフェイスが吐き捨てるように言う。

「ホッホッホッ。価値のわからぬものに過ぎたものは必要ないでしょう? 俗に『豚に真珠』と言うではないですか?」

「じゃあ、そいつを返してもらおうか? 『豚に真珠』なんだろう?」

 余裕を見せて笑っていた男の顔が険しくなる。目を吊り上げてベィビーフェイスを睨みつける。

「ほざきなさい!」

 そう言って男は鋭い目つきでベィビーフェイスを見つめている。
 段々、ベィビーフェイスは男の顔がよく分からなくなってきた。

―― なんだ?

 手の甲で目をこすろうと、腕をあげようとするのだが、腕におもりでも付いているかのように重く上げることができない。顔を背けようにもそれもできない。体も動かせなくなっている。

―― マズイ、魔法か?

 ベィビーフェイスは自分が相手の術中に嵌りつつあることに気づいた。

―― できるか?

―― 礫!

 そう強く念じて息を吐き出す。

 剣を眼前に構えた時に比べて遥かに少ないものの、氷の礫が男に向かって飛んだ。

「小癪な!」

 そう言いながら、男が礫を避けた。
 その瞬間、ベィビーフェイスは横っ飛びに飛んだ。ごろりと転がって部屋においてある一人掛けのソファに近づくと、そいつを男の方に向けて思いっきり蹴る。
 ソファは男に向かって滑っていく。男はそれを避けるために、ベッドから離れた。そこへベィビーフェイスが剣を振りかざして襲いかかる。男はヨチヨチともヨタヨタとも言うような動き、それでいてなかなか素早い、でベィビーフェイスと場所を入れ替える。
 ベィビーフェイスは勢い余ってベッドに躓き、ベッドの上、エルフの脇でごろりと回転して床に立った。
 男の方に向き直った時、瞬時に男の目に釘付けにさせられた。

―― しまった!

 ベィビーフェイスが焦る。
 男が憤怒の形相でベィビーフェイスの顔を睨みながら、甲高い声で叫ぶ。

「もう許せません、あなたには直ぐに死んでもらいます!」

 男は両掌を顔の前でベィビーフェイスの方へ向けた。
 ベィビーフェイスの剣を持った腕が、意思に反して動き出す。刃を己の頚に当てた。刃が肉に食い込みだしたところで、男の視線がベィビーフェイスから離れた。
 ベィビーフェイスも顔ごと視線をゆっくり動かす。
 隣のベッドの上に裸体のままのエルフが立ち上がっていて、既に何やらの呪文を唱えていた。
 やがて城が揺れ始めた。エルフの呪文はまだ続いている。
 そうして、城を作る組み上げられた岩が外れて男に向かって飛ぶ。
 男は顔に驚愕の表情を浮かべながら飛んでくる岩を避ける。次の岩が動き出す。そしてまた次と、岩がどんどん動き出しては男に向かって飛んでいく。遂に男は避けきれずに岩に押し潰された。隙間から血が流れ出しても岩は男のいた所へと飛んでいく。

 やがてエルフが詠唱を止め城の振動も収まった。

「大した力だな、本家本元はよ……。」

 ベィビーフェイスが半ば呆れたように、半ば感心したように呟いた。
 エルフが衣服を身に着けながら冷たい表情でベィビーフェイスに念波で悪態を吐く。

―― 何故もっと早く来ない? どこで道草を食っていた?

「うるせぇな、こっちにも都合ってもんがある。それに助けてもらっておいて、なんてぇ言い草だ。ちったァ感謝しろよ!」

―― 感謝? こちらの肌に傷をつけておいて感謝しろと言うのか? それに助かったのはお前の方ではないか? ならば感謝するのはお前の方だろう?

「傷たって、かすり傷だろう? それになんてぇ恩着せがましい野郎だ!」

 先ほど、ベィビーフェイスが吹っ飛んでベッドの上を転がった時、剣でエルフの首枷に傷を着けていた。そこから首枷が凍って壊れ、それでエルフは魔力を使えるようになったのである。その際、氷の破片で少し肌が傷ついたようだ。

「それより、とっととここから出るぜ!
 俺はお前をさっさと送り届けて、残りのカネを受け取っておさらばしたいんだ!」

 エルフが片頬で笑った。

―― 私がこのままおとなしく連れて行かれると思っているのか? だとしたらお前は相当の大馬鹿者だな。

 エルフの言葉に唖然としたベィビーフェイスは大きな溜息を吐いた。

「やっぱりこいつは、大しくじりだったぜ……。」

 この先が思いやられるベィビーフェイスだった。
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