イステラの春は何かと気忙しい。もたもたしていると直ぐに夏になってしまうので、その前にすべきことをしておかなければならないと皆が動き回るからである。
そんな忙しい春の最中に人々を喜ばせることがある。それは俸給の支給である。
各省大臣・諸役の役料、直臣貴族への俸禄、職員の給与のみならず商会や職人への支払い、各貴族家でも家臣や使用人、さらには領民に対する支払いまでもが一斉に行われるのである。
こういうことは年一度で済ませる国もあるがイステラの場合は春と秋の二回に分けられている。
それというのも、大陸諸国は古イシュテリアの暦をそれぞれ独自に改良したものを使っており、多少の日にちのズレはあるものの冬の間に年が改まる。なので他国では年末に一括精算するのだが、イステラは冬の間にはほとんど動けない。なので年末の精算が事実上不可能である。
しかも秋は冬支度の準備に大金が必要である。食料、薪から防寒用の衣類・寝具など大量に買い込んで蓄える。その支払を済ませるために秋の支給がある。
一方春は春で「冬眠」から覚めた人々が一斉に買い物をする。冬の間、豆、小麦粉、乾燥野菜や乾燥肉といったもので食い繋いでいる。こういったものは雪解けの頃にはほとんど消費し尽くしている。したがって春になると生肉、新鮮な葉物野菜やサヤエンドウといったものを買い求めるし、カマドで煮炊きに使う薪や炭が要る。それ故これらへの支払いもあるから春の支給が必要なのである。
レイナートは食事を昼は大抵国王執務室の隣の居間で、朝晩は出来る限り北宮でエレノアと一緒に摂っている。一日三食食べる習慣が確立していないイステラではあるが、レイナートは三食必ず食べている。
一面では贅沢なことと思いつつも、執務時間が非常に長い故そうでないと体が保たないのである。
ところで、その俸給支給日の夕食でレイナートやエレノアの食卓に春野菜をふんだんに使った料理が並べられた。春先まで乾燥野菜ばかり食べていたからこれだけで十分なご馳走である。
だがそれ故レイナートが顔をしかめた。
「この料理だが……」
「何かお気に召さぬことでも……?」
女官長のサイラがレイナートに尋ねた。
鉄壁の無表情が幾分ひきつっている。味付けか何かが口に合わないなどといった失態があったのかと思ったのである。
「随分と春野菜を使っているが、これでは相当費用がかかっているのではないか?」
国王のくせに随分としみったれたことを言うようだが、いまだ祖国は再生途上。贅沢は戒めなければならない。
「それでしたら、本日届いた南部のレギーネ川流域の貴族様方よりの献上品でございます」
サイラが安堵しつつそう答えた。何だそんなことか、と……。
だが献上品と聞いてレイナートの表情が明らかに険しくなった。
「献上品ということは無償ということであろう。それら貴族は領民にきちんと対価を払った上でのことなのだろうか……」
低い声でそう言ったレイナートである。
「さすがにそこまではわかりかねます」
サイラが言う。
「後で内務省宮内局に調べさせよ」
「……はい……」
サイラは静かに頷いた。
内務省宮内局は王族の世話、王室の維持・管理全般を司っている。貴族や平民からの献上品も全てここが受け付けている。
「みみっちいことを言うようだが、国民に我慢を強いる以上、国王は率先して範を垂れねばならん。
リディアン大公殿下の例もあることだし……」
そこでそれまで黙っていたエレノアが口を開いた。
「リディアン大公殿下がどうかなさったんですか?」
「いや、今日執務室を訪ねて来られ願い事をされた」
「願い事を?」
「ああ。次の新規官吏採用試験の年齢制限を引き下げてほしいと仰った」
現リディアン大公は年が明けて十二歳となった少年である。しかもレイナートは国王であるから相手の方が格下。それでもレイナートは敬語を使うことを憚らないし、エレノアも同様である。
「年齢制限を引き下げるというのは?」
「ご自身が試験を受けたいということだった」
「リディアン大公殿下ご自身が、ですか?」
エレノアが目を丸くした。
「うむ。実は……」
そう言ってレイナートは昼にあったことを語り出したのである。
多忙なレイナートであるが、執務の大半は各省から上がってくる書類に目を通し承認を求めるものには署名をし、内容に疑問点があるものには、担当者を呼び出して説明を受けるというのがほとんどである。
ところがその日の昼過ぎにリディアン大公が面会を求めてきていると侍従長のレックが伝えてきたのである。
「リディアン大公殿下が? どのようなご用件だろうか……」
「それについては何も。ただ可能であれば陛下にお目通り願いたいとのことです」
最近ではレックの言葉遣いは大分「まとも」になってきている。もっとも、落ち着いて話せば、というところは多分にあるが……。
「御自らのお運びということであれば無碍には断れんな。
レック、いや侍従長、居間へお通しするように」
「畏まりました」
レックは頭を下げて執務室を辞し、レイナートは剣を手に立上った。
執務中のレイナートは破邪の剣を椅子の肘掛けに立て掛けておく。かつて誰も触れることの出来なかった剣である。今ではそういうことはないが、いつかまた力が復活するかもしれない。そんな淡い期待も微かに持ちながらいまだに誰にも触れさせないのである。
国王執務室の隣は扉一枚隔てて王の居間となっている。居間とは言うがレイナートがここで休憩を取ることはほとんどない。家臣、大臣を除く来客と引見するためである。
レイナートが居間へと、姿を現すと緊張した面持ちのリディアン大公が頭を下げた。
「お忙しいところを急にお時間を戴き恐縮です、陛下」
とても十二歳とは思えぬ堂に入った挨拶である。背後に控えるリディアン大公家の家人もその様子に微かに満足そうである。
―― 家宰か、それとも近習頭か……。いずれにせよ大したものだな。
レイナートはその家人を見てそう思う。五大公家は当主とその家族を除くと仕える者は皆平民である。それが王宮正殿で国王の前でも少しも動じた様子がないのでそう感じたのである。
―― じじ様はどうであったのかな……。
レイナートは亡き祖父ユーディンを密かに思い出していた。
ロクリアン大公家にその人ありと言われた名執事長ユーディン・ルクルス。アレンデルの即位とともに職を辞して隠遁生活に入ったが、もしそのまま仕えていたらいずれはロクリアン大公家の家宰にまでなったことは十分に想像出来た。
在りし日の祖父の姿がレイナートの脳裏に浮かぶ。だが今は思い出に浸っている時ではない。レイナートは気持ちを改め、目の前のリディアン大公に笑顔を見せつつ口を開いた。
「いいえ、少し気分を変えるのには丁度よい折でした。ところで急なお越しはいかような趣で?」
レイナートは内心の心の動きを感じさせることなくそう言ったのである。
「実は厚かましいことですが、本日はお願いの儀があって参りました」
「そうですか。まずはお掛け下さい。茶など用意させましょう」
「いいえ、お構いなく……。
失礼します」
リディアン大公はそう言って勧められた椅子に腰掛けた。いささか動きがぎこちなく、ようやく歳相応の様子が垣間見えレイナートは微笑ましく感じた。
リディアン大公エネオアシスは五大公家の一員らしく整った顔立ちをしている。それは血縁のあるレイナートも同様で、王家と五大公家はその複雑な姻戚関係の故に皆、似通った顔立ちをしている。
侍従が用意した茶をすすりながらしばらくは互いに無言であった。茶を口にするとリディアン大公が少し顔をしかめた。
「お気に召しませんか?」
「いいえ、そんなことはありません! ただ熱いのものは苦手で……」
こういうところはさすがに歳相応の幼さを見せる。
「ああ、これは失礼しました。
殿下にリンゴ果汁などをお持ちせよ」
レイナートが控えている侍従に向かって命じた。
「いいえ、滅相もない! そのようなことをして頂いては申し訳ありません」
リディアン大公が慌てて首を振る。もしかしたら帰宅したらお目付け役にお小言をもらうのかもしれない。そう思わせるような慌てぶりであった。
「まあ、お気にせずに。今日はいささか気温も上がってますから冷たいもののほうがいいのは確かですから」
「申し訳ありません」
レイナートの言葉にリディアン大公が肩をすくめた。
「ところで今日はどういったご用件でしょう? 私に頼みがあるようですが?」
そこでリディアン大公は居住まいを正してはっきりとした口調で言った。
「お願いというのは次回、新規官吏採用試験を行う際には、受験資格の年齢制限を引き下げては頂けないでしょうか?」
「年齢制限を? それはまたどういう理由でしょう? 差し支えなければ教えて頂けませんか?」
そこでリディアン大公は一瞬躊躇う素振りを見せた。だが顔を上げ再びはっきりと言ったのである。
「それは私も受験したいからです」
「殿下御自らですか? 何故……」
そこでリディアン大公が少し顔を赤らめた。
「恥ずかしながら今の当家は経済的に難しい状況でして……」
背後の家人もその言葉に俯き肩を震わせている。己達の不甲斐なさを恥じてというようにレイナートには見えた。
だがレイナートはその言葉に驚きを隠せなかった。
確かに官吏となれば俸給が出る。だがそれは月に十一万イラ。小金貨十一枚である。大金貨一枚あれば平民なら親子三人が食べていけるという金額である。平民にとっては破格であるが貴族にとってはいわば「はした金」である。だがそれでも確かに無よりはましではあろう。しかしながら当主自らが職を得て働かなければならないとなると、それはもう貴族家としては末期ではないか。
「曽祖父上、祖父上、父上全てを失った今のリディアン大公家は私がもっとも年長の男子で家長です。でも私はまだ子供で……」
リディアン大公の言わんとすることはレイナートにもわかる。
五大公家は準王家ともいうべき扱いで他の貴族とは別格とされている。しかしその一方で領地は決して広いものではなく、当主とその家族、使用人達の食べる分を賄うのが精一杯でしかない。したがって五大公は大臣を拝命しその役料で体面やら体裁やらを調えているというのが実情である。
だがいくら五大公家当主とはいえ十二歳の子供に大臣をやらせる訳にはいかない。それでは「実力重視」という大義名分が損なわれてしまう。
そういう意味ではたしかにリディアン大公家、否、他の五大公家も家計は火の車であることだろう。
レイナートの即位後、大地震で被害を受けた貴族を救済するかどうかについて大臣らで検討したことがあった。
一口に被害というが、五大公家のように役料という収入が前提でありながら役職に就けぬ家。販売すべき物品が生産出来なくなった家等事情は様々である。だが家の財政が危機を迎えたことには違いはない。
だが被害を受けた全貴族を救済するとなると莫大な資金が必要で、とてもではないが財源が追いつかない。かと言って財源の目処も立たぬのに闇雲に紙幣を発行すれば、急激な通貨膨張を起こし物価が天井知らずで上がることだろう。それは貴族を救うために国家財政を犠牲にするという最も愚劣な策である。
ではと言って五大公家だけに限定して救済すれば他の貴族の反発を招くどころか、一気に内戦に突入するだろう。
よって結局、貴族を救済するための策は特別に設けられず、レイナートの行った公共工事で内需を拡大し、国家と貴族の財政を健全化するという方法が採られたのであった。
だがそれは五大公家を救済することには何ら結びつかないことではあった。
リディアン大公が続けた。
「それに先だっての外国使節受け入れに際し、屋敷の修理をして頂きました。その費用の返済もありまして……」
ただでさえ収入が少ないのに借金まで出来たのである。借金まみれのリンデンマルス公爵家を継いだレイナートからすれば、それは決して他人事ではない。
「それ故、家臣、使用人達は自分達の食べる分まで減らして……」
「お館様!」
そこで家人が言葉を発した。さすがに黙ってはいられなかったと見える。
そこでレイナートは家人を手で制してリディアン大公に言った。
「お話はわかりました。ただこのような重要案件を私の一存では決めかねます。大臣らとも諮って善処いたしましょう」
「ありがとうございます!」
リディアン大公の顔に喜色が浮かんだ。
「一応、秋にも次の採用試験を実施する予定です。それに間に合うかどうかは確約いたしかねますが……」
「秋? 秋にも試験が行われるのですか?」
さらにリディアン大公の目が輝いた。
「ええ。現状では各省の人手不足はいまだ解消されていませんから……」
「わかりました。頑張って必ず合格します。
曽祖父上がいい先生を付けてくれたので古イシュテリア語、数学、歴史、法律はちゃんと学びました。ですから必ずお役に立てると思います」
嬉々としてそう語るリディアン大公は、こうしてみるとやはり歳相応の少年であった。
その様子を微笑ましげに見るレイナートにリディアン大公は頬を赤らめた。
「申し訳ありません、つい浮かれてしまいました。
それに陛下は大層優秀であられたと聞いています。それなのに自慢するようなことを言って恥ずかしい……」
これにはレイナートが苦笑する番だった。
確かに数学と歴史は好きということもあって我ながらそこそこ出来るという自負があるが、殊、語学に関してははっきりと言えば決して褒められたものではない。
いずれにせよリディアン大公とはそのような会見を持ったのであった。
リディアン大公が去った後、レイナートはクレリオルと直ぐに打合せた。
「やはり貴族の、特に五大公家の窮乏ぶりは深刻のようだな」
レイナートの言葉にクレリオルが頷いた。
「そのようですね」
「何か抜本的な対策が採れればよいのだが……。」
「確かに難しい問題ですがどうにかせねばなりませんね……。
それにしてもそのような状況でドリアン大公家の方は大丈夫なのでしょうか?」
「そうだな……」
実はこの日の午前、摂政であるドリアン大公もレイナートの元を訪れていたのであった。
|