聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

序章

第3話 人生いろいろ

(一)イステラの女の場合
―― それにしても、わずか数年で随分と変わってしまったこと……。

 元イステラ王国衛士隊十一番隊隊長、現在リンデンマルス公爵家家臣でシャトリュニエの街代官、キャニアン・ギャムレットの妻シェスナはつくづくとそう思わずにはいられない。

―― また王都で暮らせるのはいいのだけれど、ランドルは大丈夫かしら? シェリナもまだ小さいし……。

 夫はもちろん家族全員が王都への移動を命じられ、その荷造りをしながらシェスナは思わず不安になる。

―― 今度はもっと凄いことになりそうだわ。だってレイナート様が即位されるのだから……。

 不安は色々とつきせない。

 イステラ王国の衛士隊は王都を始めとする直轄地の警備、及び警察機能も併せ持った内務省管轄の組織である。その構成は完全なる志願者のみで王都や直轄地出身の者ばかりである。そうしてシェスナの父も兄弟も衛士隊に奉職していた。

 ある日、第八番隊隊長のシェスナの父は若い衛士を家に連れてきた。それはさして珍しいことではなかった。
 衛士は貴族や心無い人達から「犬」と蔑まれている。父は衛士の仕事に誇りを持っていたから少しも気にしてはいなかったが、若い者はそれが気に入らずつい揉め事を起こしがちであった。衛士の職にある間は準貴族扱いされる。そのことに妙な優越感を覚えて、憂さ晴らしと言わんばかりに一般市民に傲慢に振る舞うことがあったのである。
 父はその不満を解消させるために家に呼んで食事をさせ、酒を飲ませて鬱憤晴らしさせていたのである

 ところが父が新たに連れてきた青年は随分と変わっていた。まず第一に寡黙である。飲んで羽目を外すということもない。かなり自分を厳しく律しているようだった。

「こいつは、真面目で見どころがある。きっと隊長にまでなれるだろう」

 父は何度もそう繰り返した。衛士隊も大きな組織である。誰もが隊長になれるわけではない。その点からすると父も優秀な衛士であったし、父の推すこの青年もやはり優秀なのだろう。母の作った料理を給仕しながらシェスナはそう思った。

「いえ、自分などは……」

 だが青年は謙虚なのか首を横に振る。

「何を言ってるキャニアン、お前はもっと自分に自信を持っていいぞ」

 父はそう言ってキャニアンの背中を叩いた。

 シェスナはあとで知ったことだが、キャニアンは幼くして両親を失っており雑貨商を営む親戚に預けられて育った。だがキャニアン十三歳の折、その親戚は出征中の対ディステニア戦役で戦死した。残された家族は途方に暮れた。跡継ぎはまだ見習いに毛の生えた程度、上手く店を切り盛りできるかどうかわからない。なので食い扶持が多いのは非常に困ることであった。
 そこでキャニアンは衛士隊に入ることを決意した。とは言うものの十三歳では些か若すぎる。そこで見習い入隊したのである。
 十六歳で正式入隊。それから黙々と任務をこなし、地方の直轄地をいくつか回った後、二十五歳の時王都に転属となりシェスナの父の隊に配属となったのである。
 この年、イステラとアレルトメイアの間に二つ目となる新たな石橋の建設が始まっている。これは一つ目のメリネス橋より規模が大きい。そのため国軍第二軍と衛士隊の一部が現場付近に派遣されることになった。それによる配置転換の一環であった。

 父は時々この青年を家に連れてきた。もしかしたら自分の夫に? そう思わないでもないシェスナだったが自分は十七歳、そろそろ嫁入りしてもおかしくはなかったが、相手は二十五歳。自分に比べて大人すぎる。否、相手にとって自分は幼すぎる、そう思えたシェスナだった。

 両親はキャニアンを気に入り見込んで、自分を嫁がせようとしていることは直ぐにわかった。ところが当のキャニアンにはそう言う素振りが一切なかった。
 わざわざ両親が「じゃあ、後は若い人達だけで……」と、妙な気を回して席を外してもキャニアンはお行儀よく座ったまま。手を出そうとするどころか、会話もろくに弾まない。
 自分には女としての魅力がないのか? とさえ思わせられたシェスナである。
 そうして二年近くが過ぎてしまった。

 もうじき自分は十九歳になる。もうそろそろ嫁《い》き遅れになりかけている。この人は自分に全く興味はないのか? だったら別の相手を探さないとならないはず。だが両親は諦めきれない様子で他の相手の話など全くしない。

―― 私はどうしたらいいの?

 シェスナは途方に暮れた。
 元々物静かであまり強く自分を主張しないシェスナである。とは言えただ流されるだけでもない。周囲に気を遣える、いや遣えすぎるからつい自分を後回しにしてしまう。そんな女性であった。

 ところがシェスナ十九歳の誕生日にキャニアンが花束を持って現れた。それもかなり大きなものであった。花は結構高額なものである。庶民では買えないということはないが、気軽にというものでもない。

「女性は花が好きだということなので……」

 キャニアンは照れくさそうに花束を差し出した。確かに衛士の制服で花を買い求めるには勇気がいるだろうことは直ぐに想像できたシェスナである。

「ありがとうございます……」

 そう言って花束を受け取ったシェスナ。頭を下げキャニアンを中に誘った。

「いや、今日はこれで……」

「ですが、父もおりますし……」

 結局、戸口に現れた父に半ば命令されて中に入ったキャニアンである。

 しばらく無言のまま向かい合って座っていた二人。シェスナの家族は物陰から二人の様子を盗み見ていた。

―― 全くあの男はこういうことになるとからきしだな!

 父は半ば怒りながらキャニアンを密かに睨んでいた。

―― でも、余り女性に馴れ馴れしいのは困りモノですよ?

 母はそう言って父をなだめる。
 二人共ヒソヒソと喋っているつもりなのだろうが、実はキャニアンにもシェスナにも丸聞こえで、シェスナは顔から火が出るくらい恥ずかしかった。

―― まったくもう、いい加減にしてよね!

 ところがそこでキャニアンが静かに言った。

「もうひとつ受け取って欲しいものがあるのだが……」

「何でしょう?」

 シェスナが小首を傾げた。するとしばし逡巡した後キャニアンが机の上に短剣を載せた。

「えっ!?」

 思わず息を呑むシェスナ。影で見ていた両親は思わず拳を握りしめている。

―― よし、でかした!

―― 本当に随分と待たせる人ですね。

 だが当のシェスナは目を白黒させている。いや、シェスナの瞳は灰色だが……。
 今度はキャニアンがソワソワし出した。シェスナがいつまでも返事をしないからである。
イステラの男が女性に短剣を贈るのは求婚の印。一世一代のことである。
 だがシェスナにすれば、キャニアンは自分に興味を持ってないと思っていたから全く予想外のことで気が動顛していたのである。

 それでも話はうまくまとまり、その年の秋二人は結婚し新居を構え暮らし始めた。
 キャニアンは地声は大きいが家の中では余り喋る方ではなく、シェスナも寡黙な方だから夫婦の暮らしは極めて静かなものであった。それに夫は優しく新婚生活は順調に滑りだしたのである。
 翌年長男ランドルが生まれ、その後キャニアンは三十歳の若さで第十一番隊隊長になった。異例とまでは言えないがかなり早い出世であった。

 隊長となってからのキャニアンは、シェスナの父のように若い衛士を家に連れてきては飲み食いさせた。そうやって日頃の鬱憤を晴らさせていたのである。そう言う意味では、キャニアンの妻になってからも、キャニアンが隊長になってからも、結婚前の生活とは余り変わらなかったと言えた。
 だがシェスナには何も不満はなかった。
 子供は順調に育っている。街の人とは古くからの馴染みで気さくに話も出来る。時には若い衛士の妻とお茶を楽しんだりもした。毎日が充実し楽しかった。
 ところがある日キャニアンは非常に暗い顔をして家に帰ってきた。二十年ぶりという武術大会の後である。
 その日から突然浴びるように酒を飲みだした。それも毎晩である。仕事でなにか面白くないことがあった、ということはすぐにわかったが、夫が何も言わない以上自分から詮索するようなことはしなかった。
 その数日後キャニアンは言った。

「辞表を提出した」

 ただそれだけである。面白くないことがあったのは想像がついていたが、まさかそこまでとは思っていなかったシェスナである。

「では、この家を出なければなりませんね」

 シェスナはそう言った。今住んでいる家は衛士隊の官舎。辞職したのなら出なければならない。

 シェスナは内心の動揺を抑えつつ荷造りを始めた。せめて何があったのかだけでも言ってくれればいいのに、そう思いながら……。
 キャニアンはその後、日中フラフラと出かけては泥酔して帰ってくる。言われるままに蓄えていた金を差し出したが、これでは将来が不安である。

「あなた、体に障ります」

 そう気遣ったがキャニアンは聞いてはくれなかった。

―― もうこの人とはやっていけないかもしれない……。

 そうまで感じたシェスナである。

 ところがある日、いつものごとくフラフラと出かけていたキャニアンが息せき切って帰ってきた。

「おい、出来るだけいい服を出してくれ!」

 そう言うとキャニアンは水で何度も顔を洗い、伸びた無精髭を当たり始めた。
 そうしてシェスナが用意した服に着替え、再びアタフタと出かけていった。

 その夜キャニアンは初めてシェスナに全て説明した。
 突然の隊長解任、降格、閑職への配置転換。それで酒でウサを晴らしていたこと。ところがリンデンマルス公爵様が拾ってくれることになったことを……。

 黙って聞いていたシェスナはその灰色の目を釣り上げて言った。

「私はあなたの何なのですか? どうして何一つ説明してくれなかったのですか?」

「済まない……」

「それで、私にどうしろというのですか?」

「あの、その、だから……」

「言ってくれなければ何もわかりません。あなたが苦しんでいることも、悩んでいることも……。私はそんなに役に立たない妻ですか?」

「そんなことはない!」

「じゃあこれからは全て教えて下さい。今度だけは目を瞑ります。でも、もし二度と同じことになったら、その時は……」

「わ、わかった……。何でも相談する!」

 そうしてキャニアンとシェスナ、それにランドルの親子三人は、リンデンマルス公爵家王都屋敷フォスタニア館に移り住んだ。

 その巨大な姿に唖然として息を呑んだシェスナである。しかも親子三人で当主レイナート殿下の不在の間、留守番を任せされた。屋敷の中にはかなりの大金も保管されている。責任は重大だった。

 やがてキャニアンは必要だからと爵位を授与された。一代限りの勲爵士とはいえ貴族であることには変わらない。

「私が貴族の夫人?」

 シェスナにとってはまさに青天の霹靂、信じられないことだった。
 一生を衛士の妻で終えると思っていたら突然の夫の辞職。今度は貴族に仕えることになったが、それがイステラ貴族筆頭ともいうべきリンデンマルス公爵家。段々王都屋敷に侍女が増え始め、彼女らを使うことを求められた。
 そのくせ当主夫人という訳ではないから、どうにも対応が難しい。侍女達も距離を測りかねているようだった。そこで若い衛士の妻たちを相手するように接することにした。それでいくらかはやりやすくなったのである。

 ところが貴族の家は、否、それがリンデンマルス公爵家だからなのか、とにかく次から次へと色々なことが起きる。当主が国の使いで出かけたかと思うと、今度は襲撃を受けたり、他国の難民を受け入れたり、取り潰された他の貴族家の家臣領民を引き受けたかと思うとその者達が叛乱を起こし、さらにかつての領民が戻ってきたり……。わずか数年の間にめまぐるしいことこの上ない。
 自分は自分で二人目を身籠りそれどころではなかったが……。

 やがて夫が街の代官を拝命し領地に移転することとなった。代官といえばその街の最高責任者である。自分がその妻というのはどうにも信じられないし気が重い。
 実際赴任してみると町の人々は自分を「お代官様の奥様」として、腫れ物に触るような扱いである。
 それでも王都屋敷にいた時は子供達が可哀想だったが、シャトリュニエの街ではそういうことはなくなったので、その点では良かった。
 王都屋敷でのランドルとその妹シェリナには友達と遊ぶということはなく、まさかどこかに遊びに連れていく訳にもいかず、本を与えることしか出来なかった。それでも平民にすれば十分な贅沢だったが、子供にはやはり友達が必要である。だがまさか子供のために職を辞すという訳にもいかない。我慢させるしかなかった。
 ところが領地に移り住み、そのランドルが冬期学校へ通うようになって少し変わってきた。全くの内弁慶で人見知りの激しかったランドルが、夏の間も他の子供と遊ぶようになったのである。その後ろにシェリナがついていき、同世代の女の子と遊ぶようになった。
 子供たちの親からすれば、お代官様のお子様に粗相があっては、という気持ちはあったようだが、子供達はそういうことには至って無頓着で毎日真っ黒になるまで遊んでいたのである。

―― それもこの先どうなるかはわからないわ……。

 何せ当主が即位して王となり、夫はその王に直接仕えることになるのである。これまた凄まじい日常の変化である。

―― それでも、王都の暮らしは懐かしいわ。

 そこだけはちょっとウキウキしていたシェスナであった。


(二)レリエルの女達の場合
 リンデンマルス公爵家の王都屋敷、フォスタニア館はイステラ王国最大の規模を誇る。
 当主とその家族、家臣、さらには多数の使用人が生活出来るように部屋数が多い。それでも一つ一つの部屋は意外と大きくない。そこまで大きかったらそれこそ王宮と見紛うほどの規模になってしまう。
 そこにリンデンマルス公爵家当主のレイナートとその家族、家臣に使用人のみならず、レリエルからエレノアの護衛としてきた兵士らの一部も未だに滞在しているから、邸内は想像以上に人が多い。

 レリエルからの兵士達はエレノアを送ってきた後は再びレリエルに戻ることになっていた。当然のことだろう。とは言うものの着いた翌日に帰還というほど切羽詰まってもいない。
 第一、送ってもらったエレノアとすれば、彼女らに対しその労に報いたいという気持ちは当然あるし、彼女らを派遣してくれたシャスターニスに対してもその感謝の意を表したい。

 そこでエレノアは兵士らを交代でこっそり王都観光させた。レイナート不在の時にどうかとも思ったのであるが、そこはそれ、これはこれ。それにレイナートも同様のことをさせただろう。
 但し、彼女らは二の門を自由に行き来することは出来ない。レリエルの身分証明書ではそこまで自由に通行は出来ないのである。
 そこで爵位を持つレックを同行させその問題を解決した。とは言うものの余り頻繁では怪しまれて問題になる。という訳でこれは意外に時間がかかってしまったのである。
 ただ、領地に命じたシャスターニスへのお土産、蒸留ぶどう酒や寄木細工、それに鉄製品などの準備にも時間が必要であったからそれはそれで問題はなかった。

 ところが、ようやくそろそろ出立が可能というところでエレノアが産気づいてしまった。
 レリエル兵にしてみればエレノアは、彼女らが君主と仰ぐ女王シャスターニスの内縁の夫の第一夫人である。
 しかもエレノアは脱走前に伍長にまでなっている。いわば昔の先輩である。その無事な出産を願ってやまないし、シャスターニスにその報告もしたい。そこで十名ほど残ってあとはレリエルへと出立した。
 この残った兵士達が出産に大きく貢献したのである。何せレリエルでは男は三人の妻を持つ。しかも男児の出生を願うから、どうしても姉妹の数が増える。したがって兵役に就く前に妹が生まれるということを幾度となく経験する。当然ある程度の歳になればその手伝いもする。その経験が生かされたのである。

 リンデンマルス公爵家の使用人は基本的に皆若年である。しかも今の使用人達はレイナートがリンデンマルス公爵家を継ぐ前に生まれているから基本的に兄弟姉妹が少ない。つまり領地が一番貧しい時に生まれているのである。したがって母親の出産を見たことはあってもせいぜい一度か二度。大した経験にはなっていない。

 そうして、エレノアが無事にアニスを出産し、もうこれで大丈夫だろうと再び出立準備に取り掛かったところで起きたあの大地震。出立するどころの騒ぎではなくなってしまっていた。
 落ちた天井、崩れた壁。
 レイナートが不在ということもあって、王都屋敷は男の使用人が減らされていた。それ故どうにも人手が足りなかったのを補うべく、王都屋敷の復興に手を貸したのである。

 レリエル兵は皆厳しい訓練を受けてきている。身体も普通の女性とは比べ物にならないほど屈強である。それでも今回エレノアに同行した兵士らは見た目はそれほどゴツくはなかった。道中、変に疑われることを恐れてである。
 したがって見た目は女性にしては少し大柄かなという程度。だが別の意味で「私、脱いだら凄いんです」状態の女性ばかりであった。
 たった十人でもそういう女性がいたということは王都屋敷にとっては救いであったのである。

 その後のイステラは混乱を極めたから余計に帰国が覚束なかった。王都内は馬車が通れる状態ではなく、第一、途中の様子が一切わからない。その状態で帰国しようというのはあまりに無謀である。

 そうしてレイナートの家臣らの帰国。途中の様子を聞くにつけ、とんでもない状況にあることが理解出来た。しかも肝心のレイナートがいまだ帰国していない。したがってレリエル兵らはそのままフォスタニア館に留まった。
 幸いにしてかつてのシャスターニス付筆頭侍女であったモーナもいる。こちらは大地震直後という時に出産したからかなり危ぶまれたが産後の肥立ちは良好、乳も順調に出ており赤子もよく飲み、よく寝て、よく出している。
 そのモーナに指示を仰げたので良かった。

 そうしてレイナートが帰ってきた。エレノアを始めとする家臣や使用人の喜びようと言ったらなく、レリエル兵たちも心から喜んだ。
 と思ったら今度はレイナートが即位して王になるという。邸内はてんやわんやになり、自分達も及ばずながら何か手伝いをと、再びそのまま残ることに決めた。

 と言うのは、話に聞いていた通りレイナートがすこぶる美男《いいおとこ》で、男に免疫の少ないレリエルの女達をすっかり虜にして夢中にさせてしまったからであった。


(三)イステラの男の場合
「再び王都に行くことになった。早速支度をしなさい」

「畏まりました」

 自他共に認めるレイナートの参謀を務めるクレリオル・ラステリア侯爵。名門エテンセル公爵家の先代の庶子。その妻アメンデは腰を屈めて頭を下げた。

「早速準備させます」

「うむ、本格的な引っ越しは後でするとして、当座必要な物だけでも……」

「えっ? 単なるお出かけではなくて、王都でお勤めになるのですか?」

 アメンデが驚いた表情を見せた。

「そうだ。殿下が即位されることになった。よって主だった家臣は妻子を伴い急ぎ王都に登るべし、とのお達しだ」

 アメンデの目がさらに一段と見開かれた。

「えええっ! レイナート様が即位……」

「こら、アメンデ、余りそう大きな口を開けるんじゃない、陪臣のとは言え君はもう侯爵夫人なんだから……」

「ええ、でも! うわあ、だって!」

 興奮が収まらないアメンデである。

 クレリオルの母ライサは若い頃から王都で辻売りの花売りをしていた。明るく陽気な娘として近所でも評判であった。それ故彼女の歓心を買おうという若い男も一人や二人ではなかった。
 そこに現れたのがエテンセル公爵家の三男カレストリオ、クレリオルの父である。
 優秀な兄二人がいることをいいことに呑気に過ごしていたカレストリオは兵役後そのまま国軍に志願。休暇のたびに王都に戻るものの家には全然寄り付かず、仲間の兵士達と街を闊歩していた。
 やがて二人は出会い恋に落ちた。それは決して許されない身分違いのもの。カレストリオは父に勘当を願おうとさえ思った。
 元服を済ませていたとはいえ部屋住みでは家長の命に従わなければならない。だが勘当されれば爵位を捨てられる。そう思った矢先の相次ぐ二人の兄の戦死。カレストリオはいきなりエテンセル公爵家の跡継ぎになってしまったのである。
 こうなると爵位を捨てるなど言語道断。両親どころか親戚一同を敵に回すことになる。それこそ刺客をすら差し向けられるかもしれない。それに名門公爵家を養子に渡すというのはやはり正系の男子としては自ら進んでは為し得ない。
 そうして親の勧める相手との婚約。
 カレストリオは何度も何度もライサに頭を下げた。この時点でクレリオルを身籠っていることを知っていたら、カレストリオの決心もどう変わっていたかはわからない。
 いずれにせよ二人の関係は終わったように見えた。

 ところが数年後カレストリオが休暇で王都へ戻った際、たまたま幼い男の子の手を引くライサに出会った。そうしてその子がすぐに自分の子であると理解した。

「何故あの時に言ってくれなかったのだ、そうすれば……」

「いいんです。あなたのお邪魔にはなりたくなかったから……」

 ライサはそう言って寂しそうに笑ったのである。

 屋敷に戻ったカレストリオは正妻に全てを話した。結婚前に関係を持った女性がいた事。その女性は平民であったこと。そうして自分の子を生んでいたこと。
 それは妻の矜持をどれほど傷つけることか。だがカレストリオは隠し通すことを潔しとしなかったのである。
 それを聞かされた妻は、だが肝の座った中々の人物だった。

「あなたのお話はよくわかりました。このことは私の胸中にだけ収め実家にも知らせません。
 ですが二度と……」

「ああ、彼女とは会わない」

 カレストリオがそう言うと妻は首を振った。

「いいえ、そのような非情なことはなさいますな。私は鬼女ではありませぬぞ。
 もちろん二度とその女子《おなご》の肌に触れることは許しません。ですが時々会うだけなら私は何も言いません」

「お前……」

「生まれた子にも罪はありません。この先つらい人生が待っているのです。だったら陰ながら支えてあげなさればよろしいのでは?」

 イステラ貴族にとって庶子がいるということは不名誉以外の何物でもない。最悪の場合社会的に抹殺されかねない。すなわち貴族社会からの爪弾きである。
 したがって愛人を持つこと事態が稀だが、万が一愛人が妊娠もしくは出産すれば闇のうちに葬る、ということもないではないと言われているのがイステラの実情である。
 それからするとレイナートの父がいかに豪胆であったか、またクレリオルの父カレストリオの正妻もそうであったか、ということが容易に想像出来るだろう。

 ライサはやがてエテンセル公爵家からの密かな援助によって自分の店を持つに至った。幼い子を抱えて辻売りは大変であろうということからである。そうして女手ひとつでクレリオルを育てた。
 やがてアメンデという少女を雇う。この娘も明るく陽気でよく働いた。そうして当然ながらと言うか、クレリオルとアメンデは心を交わすようになった。
 この時ほどライサはイステラの法律を恨んだことはなかった。それはイステラでは庶子の結婚は認めないからであり、どころか一生国の飼い殺しだからである。

「お前達に言わなければならないことがあります」

 母のいつものとは違った険しい表情にクレリオル少年は訝しんだ。

「何ですか、母さま?」

 成人の儀を迎えたら国軍兵士か衛士になって欲しい。それが亡くなったお前の父親の遺言だ。そう言われて育てられてきたクレリオル。
 エテンセル公爵家の密かな計らいで剣技を習い教育も受けていた。したがって普通の街の子供に比べ立ち居振る舞いもそれとは違った。
 ライサは暗い表情でそのクレリオルに言った

「お前のお父様はさる貴族のご当主様です。したがってお前にはその貴族様の血が流れています。
 そうしてこのイステラでは、片親だけが貴族の場合、その子は爵士と呼ばれる身分になります。それは知ってますね?」

 母の言葉に愕然となったクレリオル。それはアメンデも同様である。
 つまり二人はどれほど想い合っても決して結ばれることは出来ない!

「もっと早くにきちんと言っておくべきでした。私の罪です、他の誰も恨まないように……」

 明るい笑顔に包まれた家はその日から暗い押しつぶされるような悲しみに満ちてしまっていた。

 やがてクレリオルは成人を迎え爵士となった。
 爵士は住む所までが指定され国の監視下に入る。とは言うもののそれは精々時々衛士が様子を見に来る程度である。
 アメンデはライサに「お使いに行ってきます」と言ってはクレリオルの元を訪ねた。基本的に爵士は血縁者と接触することが許されない。したがって母親とも表立って会うことは遠慮すべきとされていたのである。それ故アメンデは花の配達と称してクレリオルを訪れ双方の様子を伝え合ったのである。

 そうしてクレリオルは近所の子供に読み書き計算などを教え始めた。アメンデもそれを手伝い、二人は近所から好意的な目で見られていた。
 大体、爵士と言うのはその生い立ちのせいか、ひねくれて世をすねた人物になりやすい。クレリオルの場合そういうことはなかった。どころか金も取らずに子供達に読み書きや計算を教えるのだら感謝されない訳がない。
 とは言えクレリオルも今の自分に満足している訳ではなかった。しかし爵士は誰かに仕えるということは出来ぬ。妻帯も出来ぬ。何時迄もアメンデを自分の側にいさせる訳にもいかない。

 その時クレリオルには大いに気になる人物が一人いた。自分と同じく庶子。しかしながら元服とともに爵士とはならず、どころかイステラ王国筆頭の名門大貴族リンデンマルス公爵家を継いだレイナートなる人物である。

 元服前のレイナートをクレリオルは街で何度か見かけたことがある。従者を一人連れ、背を丸め、俯き、トボトボと歩く姿は少しも覇気らしいものを感じることが出来なかった少年。
 それが事もあろうに国法を曲げるような形で公爵となった。自分には許されなかった、そんな話すらなかったことである。
 ところがその少年が皇太子立太子式答礼士として各国を回り、なんと仇敵ディステニアとの関係改善に大きく貢献したという。しかも密かにイステラとディステイアはこれを機会に和平協定を結ぶ方向で動いているとも言う。密かに訪れてくるエテンセル公爵家の家人がそう伝えてきた。

 クレリオルは俄然レイナートに興味を持った。

―― こういう人物に仕えることが出来れば、あるいはいくらでも活躍のしようがありそうだ……。

 先代の借金で家運の傾いたリンデンマルス公爵家。一にも二にも人手不足で難儀しているらしい。

―― 何とかならないものだろうか……。父上に相談してみようか……。

 クレリオルが元服を迎えた時、密かに父エテンセル公爵と初の面会を為し得た。以来父は表立って会うことも出来ぬ自分に一方ならぬ援助をしてくれている。

 やがてクレリオルは父親に教えられた裏ワザともいうべき方法でレイナートの家臣となった。若いレイナートはクレリオルの知略を重用し自らの参謀として絶大な信頼を置いている。
 初めは勲爵士であったが、陪臣とはいえ、リンデンマルス公爵家中もっとも高位の侯爵位を賜うようにもなった。
 クレリオルはこれによって随分と働きやすくなったが、アメンデはそうではない。

 何せ元は根っからの平民、花売りでしかない。それが貴族の奥方として振る舞わなければならないのだから気苦労が多い、で済む話ではない。
 レイナートの主だった家臣で妻帯している者、アロン、ギャヌース、エネシエル、キャニアンの誰よりもクレリオルの身分が高い。リンデンマルス公爵家ではそういう身分的なことはあまり気にはしない。とは言うもののキャニアンを除くとその妻はいずれも名門貴族の姫であった。
 そういう人達と対等に付き合わなければならないのだから、アメンデは生きた心地もしない。それでも皆気を遣ってくれていたから何とかなった。でも王都へ移り住むとなったら……。

 社交の場ではスプーンの上げ下げ一つ、茶の飲み方、笑い方に至るまで全て注視されるという。そこで失敗なんかしたら夫が恥をかく。
 そうして夫の主君が恥をかく。それは誰か? 言わずと知れたレイナート様。そのレイナート様が即位されたら? 自分の失敗は国王陛下に恥をかかせることになる。

「イヤ! 絶対に行かない!」

 ついには泣いて叫ぶ始末である。
 貴族の暮らしに憧れたことなんてない。貴族のお姫様になりたいと思ったこともない。ただクレリオルと一緒にいられれば、そう思っていただけなのに……。

 レイナートのレリエル行きで失態を見せたクレリオルは帰国後実家預かりとなった。自分も子供達とともに塔に幽閉された。アメンデにとってそれは今でも思い出したくない悪夢である。
 少しの過ちでも時には大きな処罰の対象になる。それは平民であっても同じ、どころか、平民の方が本来は厳しい。
 それでも平民の暮らしには慣れている。慣れない貴族の振る舞いを要求され、それで失敗して咎められるなど真平御免である。

「行くならあなた一人で行って。私は子供達とここに残ります」

「アメンデ、わがままを言わないでくれ。これは殿下のご命令なんだ」

「じゃあ、離縁して下さい」

「お、おい!」

「とにかく行きません!」

 あまりに頑ななアメンデに途方に暮れたクレリオルである。

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