聖なる剣を持つ者・第二部 R-15

第2章

幕間 もしも……

 レイナートの行幸は基本的には順調に進んでいた。もっとも国王が各地を回るのである。順調でなかったら何人もの人間の首が文字通り飛ぶことになるだろう。

 それでも時には予定通りにいかないということもある。この日も前の街で予想以上に時間を取られ、一行は大急ぎで先へと進んでいた。
 宿泊先は事前に定められた場所であり急な変更は不可とされていた。
 何せ五百人からの宿泊である。当然ながら宿屋だけでは足りず、宿泊小屋を利用するし、それ以外にも必要に応じて天幕を幾つも張らなければならない。その時間を稼ぐために国軍兵站部隊は常に先行し、国王の到着までに準備しておかなければならない。近衛軍の一部も周辺の安全確認のために先行する。それ故急な宿泊地の変更には対処出来ないのである。
 したがって今も夜の帳の降りる中、隊列は先を目指して進んでいたのである。


 イステラの主要街道は国の直轄。そうして途中に存在する街も全て直轄である。街道の両側には貴族領が広がっているが、それは同一貴族の領地ではない。すなわち、ある貴族領の中を街道が走っているというのではないのである。
 したがって街道は貴族の城下を通るということもなく、逆に城下へ向かうとなれば街道から伸びる枝道に入る必要がある。
 ところで日が落ちてからの移動の場合、当然足元を照らす灯りが必要となる。だが貴族にはそのための灯りを用意する義務は基本的にはない。それは街道は直轄であるが故にであり、行幸自体が百年に一度のことでそういった細かい規定が設けられていないからである。
 だがそうは言っても、まさか夕闇の中、先へ急ぐ国王の馬車を黙って見送ることなどはもちろん出来ない。逆に助力を申し出れば国と王に恩を売ることも出来る。
 そういうこともあって隊列の周囲には松明を掲げた周辺貴族の派遣した私兵が列をなし、更に大掛かりな隊列となっていたのである。


 ところで何故、暗くなってからの移動を強いられているかというと、ミベルノの街もそうであったように、他の街でも代官と衛士隊長の中が険悪で中傷を書き連ねた書類を本省に送っていたのである。それが今度はこの時とばかり、レイナートの目の前で直接罵り合うということをしたからである。それはまるで「直接国王陛下のお耳に入れれば何とかしてくれるかもしれない」と思っているかのようであった。
 レイナートとしてはこれを看過出来ず、予定時間を大幅に延長して彼らの言葉に耳を傾けたのである。

 レイナートは基本的に人の言葉には極力耳を傾けるようにしている。それがどんなことであってもである。そうしてその罵り合いに口を挟まず言いたいだけ言わせた。それは毒抜きということで、もし途中で遮れば必ず腹の中に面白くないものを残すと考えたからである。
 だが最後の最後にはこう言ったのである。

「そうやってあれこれと相手のことを(あげつら)っているが、それは詰まる所、国の人事に対して異論があるということか? すなわち余や亡き父王陛下の決定は間違いだと言いたい、ということか?」

 直轄地の代官や衛士隊長は震災後に任命された者もいるし、それ以前から継続して任に就いているものもいる。だがいずれにせよ、それは省内で人選され国王によって任命、辞令が出されているのだから、その者に対する誹謗中傷は最終的にはそれを任命した国王に異議を唱えていると看做されても致し方ない。

「いえ、そういうことではなく……」

 彼らは手布で冷や汗を拭き拭き弁明する。

「ではどういうことか?」

 レイナートに再度問われ、しどろもどろになりながらもあれこれと言い訳するのである。
 それがまた暖簾に腕押し、糠に釘がごとくで、ああ言えばこう言うという具合にグダグダと訴えてくる。

 したがって、どの街でも予定通りの時間に出立出来た試しがない。お陰で予定の遅れを気にする随員達はやきもきし通しであるが、レイナート自身が腰を上げないので如何ともなし難かったのである。
 予定重視ならいい加減にして途中で打ち切りさっさと出発すればいいようなものだがレイナートはそれをしない。とにかく思う存分吐き出させるだけ吐き出させて、その後に言って聞かせるのである。

「今は非常な国難の時。瑣末なことに囚われず一致協力してしかるべきである。
 にも関わらず『コイツのあれが気に入らん、これは我慢ならん』と、愚にもつかない事を一々報告書にしてまで本省に送るのは、本来の職務を逸脱している。どころかそのために国の経費を使うのは公金の横領に等しい行為である。
 今後もこのようなことを続けるのであれば余にも考えがある」

 それはつまり「人員と費用を浪費することは罷りならぬ」ということであり、レイナートの厳しい口調は彼らを震え上がらせるには十分であった。
 彼らにしてみればそれは絶対に「浪費」などではない。だが言いたいたいだけ言った後にそう言われてしまっては為す術はない。結局黙って頷くしかなかったのである。


 こうして一行はようやく出立が出来るのである。だが季節は秋。「秋の日は釣瓶落とし」と言われるほど日の傾くのが早い。となると出立が遅れると次の街に到着する前に日が落ちてしまうということもある。そうなると馬上では危険ということでレイナートは馬車に乗ることを強要される。
「イステラの男子は馬に乗れ」というのからすると、若干不本意なものを感じないではないレイナートである。
 だが苦虫を噛み潰したような顔をしているレイナートも、馬車の中でエレノアとアニスと一緒になると途端に機嫌が良くなった。どころか水入らずの時を過ごせるので、これはこれで喜ばしいと感じるほどでもあった。


「これ、アニス……」

 馬車の中、レイナートは抱きかかえたアニスをたしなめている。
 王都巡幸以降、それまでとは打って変わってレイナートに懐くようになったアニス、嬉々としてレイナートの髪に手を伸ばし引っ張っている。

「だあ、だあ……」

 その小さなもみじのような手は遠慮なしにレイナートの髪を引っ張る。

「おいアニス、勘弁してくれ。お父さんはこの歳で禿げたくはないんだ」

「だあ?」

 苦笑するレイナートにそう言われて小首を傾げるアニスであった。

「この娘ったら、すっかりお父さんを独り占めね」

 エレノアも笑顔で言う。


 日頃多忙なレイナートは家族と過ごせる時間が少ない。食事も一緒に摂れないことが多くなっていた。それがアニスは大層不満なようで、レイナートが部屋に姿を見せるとヨタヨタ覚束ない足取りながら必死に近づいていき、ベッタリくっついて離れない。レイナートが仕事に戻ろうとすると今度は嫌がって大泣きするほどである。それがレイナートにも大層嬉しく、また申し訳無さをも感じさせていた。
 したがってこのように一緒に過ごせるのであれば、地方官吏達のくだ事を聞くのも苦にはならなかったのである。

 アニスは肌の色が若干濃く、髪も目も濃い栗色である。レイナートとエレノアという整った顔立ちの両親に似て容貌には愛くるしさの中にも引き締まったものがある。
 その愛娘を抱きしめるレイナートの表情はどこまでも暖かい。
 だが娘の名「アニス」には、レイナートはどうしても忘れ得ない、忘れてはならない人物のことが思い起こされる。
 それはアレモネル商会事件で無残にも惨殺されたリンデンマルス公爵家の侍女、レイナートの最も古くからの友人のアニスのことである。


 レイナートがアニスと初めて出会ったのは、レイナート十五歳の折、初めて王宮から外へ出ることを許された時である。

 今から二十年と少し前、王都を中心としたイステラ西部に起きた流行病によってレイナートは生母を失った。兄の即位とともに臣下に降っていたレイナートの父ロクリアン大公アレンデルは、同じ病でイステラ国王である兄ガラヴァリを失った。そうして父の即位に伴い、レイナートは二歳からイステラ王都一の郭の西宮にて、ガラヴァリの未亡人セーリア王太后の下で養育されることとなった。それはアレンデルが即位の条件にレイナートの王宮での養育を挙げ、重臣らもこれを渋々受け入れたからである。
 だがもしも ― 歴史に「もしも」は禁物だが ― アレンデルの即位が兄の急死によるものでなく、またディステニアとの微妙な関係が続いていなかったならどうであったか。
 アレンデルの庶子であるレイナートは、本来であれば母亡き後、祖父母に引き取られ元服までひっそりと過ごし、その後は爵士として一生国の飼い殺しとなる予定であったのである。運命のイタズラか、はたまた誰かが仕組んだことなのか。いずれにせよ何か一つが違っていれば今のレイナートはなかったろう。

 レイナートは幼児の頃から好奇心旺盛であった。目を離すと何処かへ行ったり、忙しい侍女や執事の誰彼かまわずつかまえては「これなぁに?」と聞きまくっていた。
 幼いながらに好奇心旺盛で聡明な子供であったレイナートは、庶子というイステラでは忌み嫌われた存在でありながらも、ロクリアン大公家の中では至極大切にされていた。
 再度歴史に「もしも」は禁物だが、もしもあの流行病がなければ、もしもイステラが側室を認める国であったら、庶子の家督相続を認める国であったなら。事態はまた違った展開を見せていただろう。

 だが結局レイナートは二歳で西宮のセーリアに引き取られ、以来十三年間一歩もそこから出ることなく過ごしたのである。
 西宮は他に比べれば小さいとはいえ王宮であることには変わりない。したがってその内部を自由に「探検」することなど許されない。まして西宮はその主人の故に仕えるのも女性がほとんどで、余計に自由な振る舞いを制限された。将来を慮り万が一にも女性と間違いを起こすことがないようにと、セーリアが固く戒めたからである。
 したがって好奇心旺盛なレイナートにとって西宮の暮らしは当初息苦しさを感じる以外の何ものでもなかった。だが成長し己の出自・立場を知るに至って、レイナートは感情を心の奥底に仕舞い込み人に見せないようになった。己は「望まれない子」だからと。それ故ひっそりと、まるで誰かにその存在を知られてはならないと言わんばかりに息を潜めて暮らすようになったのである。

 それでもやはり未熟な子供である。感情を全て押し殺して生きていけるほど己を律することは出来ない。そうしてセーリアのつけてくれた教師から様々なことを学ぶことはレイナートの内に隠した好奇心を満たしてくれた。学問に関することなら教師らには何を尋ねても構わない。そうやって知識欲を満たすことでレイナートは己を昇華させ、生きていく意欲にさせていたのである。
 故にレイナートが優秀な生徒であったのは、確かに本人の素質もあったろう。だが教師からの学び、知識を得ることのみがレイナートに唯一「生きている実感」を感じさせるもので、積極的に学ぼうとしていたからであった。


 そのレイナートが十五歳になって初めて街へ出ることを許された時には我が耳を疑った。そんなことをしても本当にいいのだろうか、と。

 だがセーリアは考えたのである。

 レイナートはいずれ爵士となって王都で暮らすことになる。妻帯を許されず、もちろん側室を持つなど論外。わずかな捨扶持でいわば飼い殺しにされるのである。使用人を何人も雇うということも難しいだろう。となると様々なことが自分で出来なければならない。その準備ということで街の様子を知ることは決して無駄にはならないだろう、と。
 レイナートは既に十五歳。とうに元服が済んでいてもおかしくない年齢である。逆に遅きに失した感があるほどであった。


 レイナートが初めての外出で向かった先は男鹿亭という宿屋である。
 ここは一時期、父アレンデルが拗ねてロクリアン大公家の屋敷を飛び出して出入りしていた宿屋で、その縁もあってレイナートの伯母に当たるエミネが嫁いでいた。ロクリアン大公家の侍女として有能であった彼女は、その能力をアレンデルに見込まれて男鹿亭に嫁いだのであった。
 エミネはレイナートの数少ない肉親である。祖父母は王都の郊外、直轄地の外れに住んでいてとても歩いて訪ねられる距離ではない。そこでエミネを訪ねようとしたのである。

 レイナートはレックとともに西宮から直接二の郭に入れる門を通り、二の門から三の郭へ抜けた。二の郭は広い通りの両側に、これまた広い前庭を持つ貴族屋敷が続き人通りもさして多くない。したがって言うならば常時閑散とした雰囲気である。
 一方の三の郭は、こちらも街の中心の大通りは馬車が何台もすれ違えるほど幅広いが道の直ぐ近くまで建物が迫っているため、それだけで雰囲気が違う。
 それでも二の門の近くは貴族御用達の仕立て屋や小間物屋が並び、人通りはやはり多くなく静かな佇まいである。その大通りを三の門の方へ下って ― 文字通り緩やかな下り坂でもある ― 行くと、今度は両替商や大手商会が軒を連ねる。ここまで来ると荷馬車が多く行き交い商会に出入りするから随分と賑やかである。
 大通りは幾つもの細い路地を持ち、その奥には民家が立ち並び、そこで暮らす人々のための小商いの店も並んでいる。したがって大通りの裏手もそれなりに人の姿が認められる。

 初めて訪れたレイナートには何もかも物珍しく、ついつい目を取られてしまう。
 大通りをさらに進んでいくと今度は道の両側に天幕が張り出されて市場を形成し様々なものを売っている。野菜や果物、乾燥肉といった食材、花、日用雑貨、古着、靴、その他諸々。それを買い求めに来ている人々も多く、とにかく雑多で活気に満ちている。
 レイナートはつい足を止めそれに見入ってしまう。人の多さにも驚いているし、並んでいる商品の豊富さにもである。
 レックはセーリアから小遣いを預かっており必要な物は買って良いと許可されている。レイナートにそう言うとレイナートは首を振った。

「僕なんかのために大切なお金を使うのはもったいないよ……」

 俯き加減で寂しげに呟くレイナートの言葉を聞くレックは胸が締め付けられる。
 何とか主人(あるじ)の気を晴らせるものはないか。そう心の底から思う。
 だがレックは両親がリディアン大公家の領地仕えで自分も王都出身ではない。六歳からレイナートの側役となったが、元服までは西宮の使用人のための居住区で起居し、元服・兵役後は二の郭の官舎住まいで通いである。したがってこの時はまだ王都のことにはあまり詳しくなかった。したがってレイナートの気晴らしになるような気のきいた所というものを知らなかった。
 結局レイナートは興味深げに周囲を眺めるだけで、そのまま男鹿亭に向かったのである。


 男鹿亭は王都でも有数の老舗の宿屋で、南北に走る大通りと東西大通りの交差点の角に建つ。四段の階段の上の入り口の上には大きな牡鹿の頭の剥製を掲げる立派な構えの建物である。

 レイナートはそこまで行って、中に入ろうかどうしようかと逡巡した。

 自分は「望まれない子」である。もしも訪ねていった伯母に拒絶されたら? 「日陰の子になんぞ会いたくない」そう言われたら?
 それを考えると恐ろしくなって中々(おとな)いを立てられなかったのである。


 思いつめたような顔で入り口を見つめているレイナートに背後から声を掛ける者があった。

「うちに何か御用ですかぁ?」

 振り返るとレイナートよりいくらか年下の少女がいた。

「あっ、お泊りのお客さんですかぁ? だったらこちらにぃ……」

 舌足らずの口調でそう言った少女はレイナートを中に案内しようとする。
 くすんだ濃いめの赤毛を無造作に縛り、ぽっちゃりした丸顔、パッチリしているがタレ目気味、その目元にはそばかすがある。丸い小さな鼻は少し上を向いていて、唇は厚めでポテっとしている。お世辞にも美人とは言えないが愛嬌のある顔である。

 レイナートは初めて接する同世代の女の子に我知らずドギマギしながらも言った。

「いいえ、客ではありません。
 ただ……、その……、卒爾ながら伯母上……、いえ、女将殿にお目通りしたいのです。ご多忙とは存じますが、お取次ぎ願えますでしょうか?」

 些か焦り気味だったが閊えることはなかった。
 だがレイナートの言葉遣いはその少女、まだ駆け出しの下女だった当時のアニスには若干難し過ぎた。

「ええと……、お客じゃないって何だろ? よくわかんないよぉ。ちょっと待ってて下さぁい……」

 アニスはゴニョゴニョそう言って玄関に駆け込んだのだった。


 レイナートはその後初めて顔を合わせたエミネに丁重な挨拶をされて驚いた。と同時に拒絶されなかったことにも安堵の溜息を吐いた。だがそれでレイナートの緊張が解けた訳でもなく、無人の食堂の奥の卓に緊張して腰掛けていた。

 エミネは自ら茶の支度を整えてレイナートに給仕した。そこで再びレイナートは驚いた。エミネの所作は西宮の侍女達、すなわちセーリアの実家リディアン大公家から派遣されている女性達に比べても遜色のないものだったからである。

 レイナートは母マリアスのことは、ロクリアン大公家の下女だったと聞かされていたくらいでほとんど何も知らなかった。それを教えてくれる人物が周囲には一人もいなかったからである。
 レイナートはロクリアン大公家領の屋敷「フォージュ館」で生まれた。当然ながら周囲にいたのは全てロクリアン大公家の執事と侍女である。
 そうして父アレンデルは即位とともにロクリアン大公家の籍から抜け王宮に移り住んだ。その世話をするのは専属の侍従と女官達であり、ロクリアン大公家からは一人も連れて行ってはいなかった。元々アレンデルは王宮生まれの王宮育ち。古巣に戻るだけであったので何も痛痒を感じなかったからである
 一方のレイナートは西宮のセーリアに引き取られた。王太后となって西宮に移り住んだセーリアに仕えたのは実家から派遣された者、すなわちリディアン大公家出身である。したがって彼女達はもちろんセーリアも、レイナートがロクリアン大公家の下女との間に生まれた子供ということしか知らなかった。当然だろう。他家の内情にそこまで詳しい方が本来はおかしいのだから……。

 いずれにせよそういう理由でレイナートは母のことをほとんど知らず、かろうじてその姉が男鹿亭に嫁いだということを知っているのみであった。そうして母は下女だったと教えられていた。そこでエミネも一緒だろうと思っており、まさかロクリアン大公家でしっかり訓練された侍女だったとは思ってもいなかったのである。
 同じ貴族屋敷に勤める女とはいえ侍女と下女では格も違うし立ち居振る舞いから言葉に至るまで別物である。要するに下女だと思っていた人物が洗練された動きを見せる侍女だったということである。
 もっとも実際にはマリアスは侍女見習いになっていたから下女というのには語弊があるのだが、公式においてはマリアスは「名も無き平民の女、下女」としか呼ばれない。それは貴族からすれば侍女も下女も同じ平民にしか過ぎないという驕った考えからである。

 この日のレイナートは我知らず少なからず興奮していて、中々気持ちを落ち着かせることが出来ず、したがって口数が非常に少なかった。六歳で己の出自を知らされてからは特に寡黙になっていたのである。
 だが伯母に対する興味がなかった訳ではない。そこでつい盗み見るようにエミネの顔を窺った。
 母の記憶のないレイナートの手元にある母の思い出の品といえば、父アレンデルが描かせた小さな肖像画だけである。それでは母の容貌の正確なところなどは窺い知れない。そこまで写実的には描かれていなかったからである。

―― 余談ながらこの肖像画は後にレイナートが祖父母の家を訪れるようになった時、祖父母の家に掲げることにしたものである。
 西宮では公然と掲げることが許されず、夜な夜な私室で眺めていたレイナートである。また肖像画など裕福な貴族でもなければ簡単に描かせることが出来ないものである。したがって祖父母も母の肖像画は持っておらず、それ故祖父母の家に掲げるようにしたのであった。それにこのことは祖父母の家を訪ねる口実にもなる。そう考えてのことであった ―― 

 話を戻そう。

 レイナートは、エミネとマリアスは姉妹なのだからきっと似ているのだろうと思い、それでエミネの顔を気恥ずかしさと興味の()い交ぜになった心でチラチラと窺っていたのである。さすがにいくら興味が尽きないとはいえ、女性の顔をまじまじと見つめるほど不躾ではなかったのである。


 結局、その後レイナートはエミネと大した話もせずに西宮に帰っていった。日の入りの刻の鐘が鳴ると元服の済んでいない者は外出が禁止される。ではそれに間に合えさえすればいいかといえばそういうこともない。少なくとも初めての外出で遅くの帰館は絶対に避けるべきである。それ故午後の中の刻の鐘には戻ったのである。

 そうしてこのことがレイナートにとってどれほど変化を与えたかは計り知れないものがあった。
 レイナートのような境遇の場合、肉親がいると言葉で聞いているだけと、直接会って言葉を交わすのとでは雲泥の差がある。
 学問以外にはあまり興味を示さなかったレイナートはその後積極的に時間を作って街に出るようになった。
 そうして街に出れば必ず男鹿亭を訪ねた。そうしてエミネから母や祖父母の話を聞き、まだ見ぬ祖父母への手紙も託したのである。レイナートの筆まめな性格はこの時に出来たとも言える。
 そうしてレイナートが男鹿亭を訪れるとその世話係は必ずアニスとされたのだった。


 アニスはやはり両親を、レイナートの母を奪ったあの流行病で失っていた。当時生まれたばかりの乳飲み子で、そのままでは確実にアニスも死んでいたことだろう。
 王都で生き残った人々は親を失った子供達を手分けして育てることにした。そうしてエミネ達夫婦はアニスと、もう一人ジードという名の幼児を引き取っていた。

 アレンデルの口利きで男鹿亭に嫁いだエミネだったが、当初は周囲でもかなり目立つ存在だったし誰もが危うんだ。貴族のお屋敷勤めだった女が町家で暮らせるのか、子を産んだことのない女に乳飲み子が育てられるのか、と。

 エミネは男鹿亭のような高級宿屋でも過ぎるほどの技量・資質を持つが、反面街での暮らしをするにはお上品に過ぎた。
 確かに五大公家の使用人も全員平民ではある。だが同じ平民とはいえ町家の人間と、両親が貴族家、しかも五大公家の執事長と侍女頭ではまるで別の生き物である。
 それでも男鹿亭の跡取りだったエミネの夫と夫婦仲は良かった。だが二人には子が出来なかった。それで疫病で親を失ったジードとアニスの二人を引き取ったのである。
 そうしてエミネは忙しい仕事の合間を縫ってアニスを抱えて近所を回り、頭を下げて貰い乳をしてアニスを育てたのであった。
 初めのうちは中々貴族屋敷での立ち居振る舞いから離れられず相手を面食らわせたエミネも段々と慣れていき普通の街の「おかみさん」へとなっていったのである。

 エミネはアニスを甘やかすことなく厳しく育てていた。アニスが七歳になると宿の掃除の手伝いをさせ、初潮が過ぎてからは正式な女中として働かせた。朝早くに叩き起こし仕事を教え礼儀作法を身に付けさせた。もっとも舌足らずの言葉遣いはどうにも改まらなかったが……。

 セーリアがレイナートの将来を真剣に考えていたように、エミネもレイナートのことを真剣に考えた。
 貴族家に仕える者、特に女達は口うるさいくらいに「お手つきになるな」と戒められる。爵士の惨めな将来についても鬱陶しいくらい聞かされる。
 それは己が腹を痛めて産んだ子が「爵位を持った奴隷」になるようなことを避けよという教えである。

 だからエミネもレイナートの将来については想像が出来た。そうして元服後、爵士となったレイナートの世話をアニスにさせようと考えたのである。

「アニス。お前、将来はレイナート様のところへ行ってくれるかい?」

「ええ、いいですよぉ、女将さん」

 屈託のない笑顔でアニスが答えた。それを見てエミネは頭を抱えた。この娘は何も分かってない子供だ、と……。

「あたしが言ってるのは……」

「わかってますよぉ、女将さん。レイナート様に身も心も捧げてお仕えしろってことでしょう」

「アニス、お前……」

「女将さん、わたしだってもう子供じゃないですよぉ」

 アニスはそう言ってもう一度笑顔を見せた。

「わたし、レイナート様のためだったら、レイナート様のお側に居られるならどんなことでも我慢しますよぉ? 人に何言われたって平気ですよぉ?」

 アニスは事も無げにそう答えたのである。

「アニス本当にいいのかい? 無理してるんじゃ……」

「無理なんかしてませんよぉ。だってわたし、ずっとレイナート様のお側にいたいですもん」

 アニスは満面の笑みで本心からそう答えたのである。


 エミネはそれが理不尽な依頼であることを重々承知していた。だがレイナートのことを考えると言わずにはいられなかった。
 イステラにおける庶子の扱い。これは国法故にどうすることも出来ない。だがレイナートが庶子で生まれたのはレイナートのせいではない。レイナートに何も罪はない。なのに辛い人生を送らざるを得ないことになっている。それがエミネは許せなかった。だからアニスに頼んだのであった。
 だがそれは今度はアニスに辛い人生を強いることになるのである。だから強制したくはなかったし出来なかった。頭を下げて頼んで、もし拒まれたなら仕方ないと諦め、どこか良縁を見つけ嫁がせようと考えていたのである。

 一方のアニスはレイナートに対してはっきりと愛情を抱いていた。
 アニスはレイナートの生い立ちに関する詳しいことを知っていた訳ではない。ただ現国王の子で、エミネの妹の子。先の王妃の元で暮らしている。それくらいしか知らない。
 その、どこか暗い影を見せる端正な顔立ちのレイナートは、時折寂しげな笑顔を見せることがある。アニスはそれを何とかしたかった。心の底から笑って欲しかった。その思いが愛情へと変わっていったのである。

 その後エミネはアニスに女一通りのことを仕込んだ。料理、洗濯、掃除……。それこそロクリアン大公家と男鹿亭仕込みの全てをである。したがってアニスは貴族屋敷に仕えることに何ら支障のない技量を持つに至った。
 そうして閨房での振る舞い方もである。さすがにこちらは実地でという訳にはいかなかったから知識面だけに限られたがエミネはこれもアニスに教えた。教える方も教えられる方もそこに気恥ずかしさを感じたことはない。ただひたすらレイナートを喜ばせる。そのことだけを念頭に置いていたからである。
 そうしてあとはレイナートの元服を待つだけ。そこまでになっていたのである。

 もちろんこのことをレイナートは全く知らなかった。エミネとアニスの二人だけの秘密である。そうして「その日」が訪れることを二人は心待ちにしていたのである。


 だがアニスがレイナートの側女になることはなかった。それはそう、レイナートがリンデンマルス公爵になったからである。
 この誰もが予想しなかった破天荒の出来事がアニスに与えた衝撃は余人の想像出来ないほど大きいものだった。
 それは自分がレイナートの側女になれないからではなく、レイナートが辛い人生を送らずに済むという喜びからである。
 そうしてレイナートがエミネにアニスを侍女として借り受けたいと願い出た時、アニスは天にも上るほどの嬉しさを感じた。
 確かに大身貴族の侍女と爵士の側で仕える女とでは距離が全く違う。そういう点では寂しさを感じないではない。だが何よりもレイナートが幸せになれる。そう思うからであった。

 その一方でエミネは、アニスの嫁入りを真剣に考えるようにもなっていた。
 レイナートがリンデンマルス公爵となった以上、アニスを側室にするというのはあり得ない。また、もしレイナートがそうしようとしたなら逆に止めなければならない。アニスの気持ちを知らない訳ではないが、その思いの故にアニスを一生独り身にさせるのは可哀相だと考えた。届かない思い、叶わない恋に身も心も縛られるべきではないと考えたのである。

 そうしてアニスはリンデンマルス公爵家で働き始めた訳だが、その舌足らずな喋り方はともかく、動きに関して言えば、あのうるさいサイラをも黙らせることが多かった。
 領地から新規採用された侍女達。はっきりと言えば彼女らは素人だった。だがアニスの動きは違った。さすがはエミネが心血注いで仕込んだだけはある。それほどの働き見せたのである。そうしてサイラが仕込んだビーチェスとマリッセアに次ぐ、リンデンマルス公爵家侍女第三位の地位を不動のものとしたのであった。

 したがってアレモネル商会事件でアニスの行方がわからなくなった時、誰もが不審に思ったのは当然である。
 その喋り方や多分におっちょこちょいな性格に顔をしかめられることはあっても、物事の理非を弁えぬほど愚かではないし子供でもない。したがって使いの途中で何処かで油を売るなどということはアニスには絶対ありえない。それが何時までも使いから戻らないというなら、きっと何かあったとしか思えないということである。
 だからレイナートは自らアニスを探しに街へ出たのである。

 ではあの事件の真相はどうであったか?
 それは無理やり力づくで攫ったというのではなかった。言葉巧みにアニスに近づきアニス自身の意志で同行させた者がいたということである。

 それこそアニスは菓子だの金品だので釣られるような女ではない。とすれば賊はどうやってアニスを信用させたか?
 それはレイナートの名を出したのである。

「リンデンマルス公に対して面白からぬ計画がある。幸いその密談の現場を押さえている。自分の目で確かめてみたくはないか?」


 これがアニス以外の侍女であったら直ぐに屋敷へ知らせると言って言いなりにはならなかったろう。その場合は逆に力づくで連れ去れれただろうが……。
 だがアニスは誰よりもレイナート思っていた。そのレイナートに仇なそうという者がいるのなら絶対に許せない。絶対にその顔を直接見て報告しなければ気が済まない。
 賊はそんなアニスのことを知っていたのである。
 そこにアニスの甘さというか油断があったのは否めない。比較的治安が良いイステラ王都であったことも逆に災いした。

 レイナートが庶子であるのはつとに有名であった。アレンデルの即位の時にそれで揉めたからである。
 そうしてエミネがロクリアン大公家の侍女から男鹿亭に嫁いだというのも有名であった。五大公家の侍女が一宿屋へ嫁入るというのも滅多にあることではない。それだけで近所で評判になった。
 したがって男鹿亭の周囲で少し聴き込みをすればレイナートとアニスの関係もすぐにわかる。
 したがって賊、ドリニッチ子爵の息子達はリンデンマルス公爵家の侍女なら誰でも良かったのではない。アニスだったからこそ狙ったのである。

 アレグザンドとレイナートの元服を祝い武術大会優勝者を称えるための宴。ドリニッチ子爵の息子達がそこで受けた辱め。実際には辱めでも何でもなく自分らが巻いた種であったのにレイナートを逆恨みし、なんとか仕返しせんと虎視眈々と狙っていた。
 そこにアネモネル商会会頭のグラン・エッペルと元リンデンマルス公爵家家宰のジョイノル伯爵の企てが加わり、レイナートをおびき出し苦しめるためにアニスは利用されたのである。そうしてアニスはレイナートを思うがあまり廻りが見えなくなり、彼らの術中にはまって肌身を汚され殺されたのであった。

 もしも ― 繰り返しになるがあえて歴史の禁物をするのなら ― レイナートがこの真相その時知ったならどうなっていたか?
 グラン・エッペル、ジョイノル伯爵、ドリニッチ子爵父子の死に方は、その時も尋常では無いものだったが、それに輪をかけて凄まじいものとなっていたかもしれない。
 ましてあの夜レイナートは本来であれば絶対に有り得なかったであろうにも関わらず、アニスの死に対する自責の念に耐え切れず半ば強引にエレノアを抱いてしまった。

 世の中には知らない方が良いことがある。レイナートにとってアニスのことはまさにそうである。
 もしも、まさに己の故にアニスが殺されたとはっきり知ってしまったら、レイナートの精神は完全に崩壊していたかもしれない。アレグザンドが父の死と、その後己にのしかかるであろう重圧に押し潰されてしまったように……。

 そういう意味ではエレノアが二人の娘にアニスと名づけたのはレイナートにとって酷なことではあった。だがそれはレイナートを責めるためではなく二人のきっかけとなったアニスを忘れないためである。


 レイナートは己の身に起きる様々な事柄故にどうしてもアニスを忘れがちとなっていた。「去る者は日々に疎し」ということであり、宗教を持たないイステラ人であるレイナートにとっては仕方のない事でもあった。
 だがそれではアニスは浮かばれない。
 神への信仰を片時も失ったことのないエレノアは、たとえ姿形は失われても死者の霊魂は消え去らずいつまでも存在すると信じて疑わない。
 したがってエレノアにとってアニスを忘れるということは決して許されるものではなかったのである。

 はっきりと言葉でそう聞いた訳ではないが、レイナートもそのことはわかっていたし、自らもそうあるべきだと考えたのである。だからエレノアから娘をアニスと名づけたと聞かされても反対したり名前を変えたりしようなどとは思わなかった。
 アニスという名は一面においてレイナートの心を深くえぐる。だからこそアニスの身に起きたようなことは誰の身にも起きてはならない。悲劇は繰り返されてはならない。同じ目に合う人を再び出してはならない。そう思うのである。
 それが、貴族として、そうして王として、人々の上に君臨する自分の責務だと考えているレイナートであった。


「アニス……」

 レイナートは思わず小さく呟いて我が子を抱きしめた。

「だあ?」

 急に抱きすくめられたアニスは驚きもがいていた。だがレイナートが強く抱きしめるものだから次第に泣きだした。

「もう、レイナートったら……」

「ああ、ごめん……」

 レイナートの腕からアニスを取り上げたエレノアが目を釣り上げている。
 レイナートはバツの悪そうに頭を掻いている。

「まったく、いけないお父さんね……。
 ほらアニス、いい子ね、泣き止んで……」

 そうやってエレノアはアニスをあやす。
 レイナートはきまり悪そうに窓の外に目をやった。そこには松明を掲げ馬車に並走する貴族の私兵の姿が見える。


 しばらくしてアニスは泣き止み、馬車の中は沈黙に包まれ蹄と車輪の音だけがしていた。

 するとレイナートは突然名を呼ばれた。

「レイナート!」

「えっ?」

 驚いて母子に振り返るレイナート。

「今のはまさか、アニス……?」

 唖然として尋ねる。

「ええ、そうよ。アニスよ!」

 エレノアが嬉しそうに頷いた。

 二人の娘のアニスが初めて口にした言葉はレイナートの名前だったのである。

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